(思ったより元気そうだったわ……)
マリナラは蜜色の薔薇の副作用に苦しむラルフを見た後とは思えぬ感想を抱いた。
マリナラは見張りの兵に頭を下げると、廊下をしずしずと歩いた。
ジャンに調べさせたところ近隣の村では、ララ姫の評判は芳しくないものであった。
こだわりが多くなにかと難癖をつけてくるララ姫の世話をすることに耐え兼ね、近隣の村から雇われた者達は高給にも関わらず皆辞めてしまったそうだ。
どんなに給与を釣り上げても志願者は減る一方で人手は常に不足していた。
”普段は領主様の元に奉公に行っているがたまたま里帰りをしていた村娘、マーゴ”に偽装したマリナラはあっさりと屋敷で雇われた。
大陸公用語にマガンダ特有の訛りを意識して織り交ぜたおかげか、マリナラはもといマーゴは素性を疑われることもなく予定通り屋敷中への潜入に成功した。
人手不足というのは本当らしく雇われた初日だというのに、マーゴは屋敷の中をせわしなく動き回っていた。
……だが、その方が都合が良かった。
間取りを覚え、屋敷に出入りする兵の配置と階級を知り、逃走経路を確保する。一度に二手三手先のことまで準備をしなければ到底期日に間に合わない。
マーゴは曲がる方向をわざと間違え、使用人室に戻らず厩舎を見に行こうとした。
「そこのお前!!ここで何をしている!!」
しかし、あと数歩というところで運悪くケイネスに呼び止められてしまった。
ケイネスはララ姫の3番目の夫にして、クルスを代表する将校の一人である。クルスで最も他国の兵を討ち取った男であり、最も恐れられている。
「も、も、もうしわけありません……!!こんなに広いお屋敷は初めてで迷ってしまいました……」
マーゴは自分の過ちを認め素直に頭を下げた。男性から強い口調で怒鳴られたマーゴは涙目になった。
マーゴは綿で作られた粗末な服を着ており、艶やかな黒髪はあえて櫛も通さぬほどボサボサで、頬にはいくつものそばかすがあった。マリナラとは真逆の気の弱い哀れな女に見えるように、変装に関しては他の追随を許さぬジャン自ら面倒を見た。
「……使用人の部屋は反対側の扉を出て左の突き当りだ」
「し、親切に……あ、あ、ありがとうございます……!!」
……ジャンの変装とマリナラの演技はケイネスにも通用した。
ケイネスはおどおどと視線を彷徨わせるマーゴの姿をみて同情を禁じえなかった。
「廊下を歩くときは姿勢を正せ。我々はお前を取って食ったりはしない」
「は、は、はい!!申し訳ありませんでした……!!」
マリナラの演技は堂に行ったものだった。ケイネスはすっかりマーゴのことをただの村娘だと思い込み、あっさり逃がしてくれた。
マリナラはケイネスの尋問から逃れると、ハンカチを屋敷の外に振って合図を送った。相手はジャンである。ハンカチの振り方と角度であらかじめ決めておいた文言を伝える。
(ラルフ様の方は問題なし)
足の一本でも折られていれば脱出はより困難なものになっていたが、幸いなことに五体満足のままベッドに寝かされていた。
なんならサザール砦で胃が捩れそうになっているキールよりも元気そうだった。
(あとは、アサイル殿下からもらった薬が効けばよいのだけれど……)
水に溶かして飲むようにと覚書きがあったのでその通りにしてみたが、果たして効果はあったのだろうか。
薬草に関する最低限の知識は持っているが、アサイル独自のルートで手に入れた希少性の高い薬草の数々はマリナラでも効能はわからない。
それにしても、蜜色の薔薇を嗅がせるとは随分と悪趣味である。
リンデルワーグでもかつて蜜色の薔薇が持て囃されたことがあったが粗悪品が出回るようになり、アサイルの尽力によって製造と流通が厳しく規制されている。
(あとは待つだけ……)
マリナラを見たラルフの目には確かに力が篭っていた。
……マリナラはただその時が来るのを静かに待てばよかった。