(まいったな……)
ラルフは焦りを覆い隠すように口元を押さえながら、薄暗い廊下を歩いていた。
あのまま一緒に過ごしていたら艶かしい首元にうっかり口づけるところだった。
……これではマリナラの思うつぼである。
ラルフは2000万ダールを支払ってまで愛の伴わない行為をする気はなかった。
しかしマリナラは強敵である。ことあるごとにラルフの弱点を的確につき巧みに誘惑してくる。
ラルフは怖気づいたのだ。
いつの間にかマリナラに本気で惚れている自分に慄き、契約外の愛を請い拒絶されることを恐れた。
レジランカ騎士団団長ともあろう男が女性一人を前にしてこの体たらくとは情けない。
頭を冷やすという意味でもラルフには冷たい飲み物が必要だった。
台所の葡萄酒の貯蔵庫から適当な酒瓶を拝借したラルフはマリナラのいる客室に戻るべく踵を返した。
ところが書斎の前を通る際に、明かりが灯っていることに気がついた。
「まだ起きてらっしゃいましたか」
書斎の戸を開けるとテラスに向けた椅子にもたれアリスがひとりで寛いでいた。
「今日は嬉しいことがあったから、ひとりでじっくり噛み締めていたのよ」
アリスが掲げたグラスには葡萄酒が注がれていた。新年と祭事以外では滅多に酒を飲まないアリスだが、喜びのあまり酒が進んだのか酔いが回ってすっかり饒舌になっていた。
「貴方がまさか奥さんを連れてくるなんて。知らぬ間に随分大きくなったのね、ラルフ」
まるで子供のような扱いにラルフは難色を示した。
「私はもう27歳ですよ、母上」
「いくつになろうが貴方は私の大事な息子よ」
アリスはこちらにくるように手招きすると、身構えるラルフの頭を強引に引き寄せ胸に抱いた。
「貴方には沢山苦労をかけたわ。本当なら王城を追い出された時に国外に出ていればあれほど辛い思いをさせることもなかっただろうに……。私の我儘に付き合わせてしまって本当にごめんなさい」
初めて聞く母の懺悔に、ラルフの心は大きく揺れた。
……謝るくらいならなぜ愛妾になったのか。
ラルフは皮肉とも呼べる台詞を必死になって飲み込んだ。
「どうか幸せになってね、ラルフ」
悪女と指を刺され王城から追い出されても国王に助けてもらえず、離宮に捨て置かれたアリスの辛さをラルフは知っていた。
だからこそ愛だの恋だの不確かなものを求める心情は理解できなかったし、辛酸を舐めるぐらいなら一生ひとりでいいと思っていた。同じ轍は踏むまいと固く心に誓っていたはずなのに。
しかし、ラルフはマリナラという存在を知ってしまった。……手に入れたいと望んでしまった。
「はい、母上」
もう後戻りはできない。ラルフはとうに覚悟を決めていた。