ラルフは身体を起こし謁見室から出ると、王城の北側へと足を向けた。
謁見が想定よりも早く終わり、思いのほか時間に余裕ができた。
(急に訪ねたとして、怒るような方ではない)
ラルフにはマリナラとの結婚についてエルバートから許しをもらったことをいち早く報告したい人物がいた。
王城の南側に国王の執務室、謁見室、晩餐室など公共性の高い施設が固まっている一方で、北側は完全に王族の私的空間となっている。かつてラルフが母アリスと暮らしていた後宮と呼ばれる場所である。
北と南を隔てる大廊下を歩いていたラルフはふと足を止めた。
元々人が多い場所ではないが今日は妙に人気がない。いや、……少なすぎる。侍女や侍従と一人もすれ違うことがないのは異常である。
そうして立ち止まっているうちに北側の廊下が俄かに騒がしくなる。ラルフはなんとなく嫌な気配を感じとり、素早く柱の後ろに隠れた。
レジランカ騎士団団長の獣のような勘はよく当たる。
……しかし、今日ばかりは隠れるのが一呼吸遅かった。
「そこにいるのは誰ぞ!!」
柱の裏に隠れる姿を見咎められたラルフは結婚の許しを得てすっかり油断していた己を恥じた。ここは王城、一瞬たりとも気を緩めてはいけない場所であった。
(なぜ、アイリーン王妃がここに?)
侍女を何人も侍らせた後宮の女主人は、柱の裏に隠れた人間を怒鳴りつけた。
「私の声が聞こえないのかえ?私を見て隠れるとは無礼な!!そこな床に跪きなさい!!」
かつて”ライルブルの黒曜石”と称えられていた美貌とブルネットの巻き髪は3人の王子を生み育ててなおも健在である。
アイリーン王妃は無礼者の顔を拝むために靴音を響かせながら近づいてきた。
(まずいな……)
ここでラルフが王妃の前にノコノコと姿を現してはこれまでの努力が水の泡と化す。
ラルフが王城の中を歩き回っていた理由を弁明したとして、聞く耳を持ってくれるだろうか。機嫌を損ねたら即牢屋行きである。マガンダへの出兵を控えていると今、王妃と揉めることは避けたい。
万事休すかと思われたその時、ラルフを庇うようにして何者かが前に進み出た。
「申し訳ありません。柱の裏に転がっていったククコの実に夢中で母上がいらっしゃったことに気がつきませんでした」
ほらと言いながら手のひらの上の木の実を王妃に見せてみせた。
ぷっくりと膨らんだ丸い身体が動くたびに腹の肉がぷよんと揺れると王妃はこれでもかと顔を顰めた。
「床に落としたゴミを拾うなんて浅ましい!!愚鈍な上になんと意地汚いことだろうか!!」
王妃は汚いものでも見るように侮蔑の視線を投げつけると、クルリと踵を返し御付きを従えて早足で廊下を戻っていった。
王妃が見えなくなるとラルフを助けてくれた恩人は木の実をポケットにしまいながら憤慨した。
「浅ましいとは失礼な。ククコの実は末端価格1個10万ダールはする高級木の実なんだ。落としたら一大事だぞ」
「私の油断がこのような事態を招き、大変申し訳ありませんでした。その……あのような……」
「母上の罵詈雑言は聞き慣れたものさ。なんてことはない」
三兄のアサイル・リンデルワーグはウシシと歯を見せながら朗らかに笑った。
彼こそがラルフが婚約を報告したかった張本人である。