マリナラと契約を交わした翌日、ラルフは特別なことは何もせずに団員達が動けなくなるまでしごき倒し、膨大な書類仕事に忙殺された。
しかし、いつもと同じようで一点だけ異なるところがあった。ラルフは仕事が落ち着いたところで、早々に帰り支度を始めたのである。
「グレイ、今夜は別宅に戻る。何かあれば誰か寄越してくれ」
「団長が別宅に戻るなんて珍しいですね」
「まあな」
一般団員が他の団員と相部屋で過ごす一方で、団長ともなると玉石街に専用の別宅が用意されている。ラルフはもっぱら詰所の団長室で寝起きしており滅多に帰らないが、歴代の団長は妻子を別宅に住まわせ詰所まで通うのが普通であった。
ちなみに一般団員が結婚した場合は市中に家を借りてそこから通う。玉石街に別宅を持てる身分の者が騎士団に所属する例はほとんどない。
グレイに後を任せたラルフは別宅へ向かうと思いきや、外壁を抜け市中へと歩いて行った。
大通りを避け人目を憚るように裏道を通り、首都壁にほど近い宿屋へと辿り着く。主に首都壁の外側からやってくる商隊を相手に商売する安宿で、一階には食堂が併設されており、比較的人の出入りは激しい。
ラルフは宿屋を見上げたまま辺りを一周し、そうしている内に窓枠に目印のように掲げられたレースのハンカチを発見した。
(あそこか……)
通りから見えない位置にあり出入口も離れているその部屋は人目を忍ぶにはうってつけだった。
ラルフはサッと気配を消し木陰に隠れると、ひたすら夜を待った。夜が深まり食堂の客が酒に酔い話が盛り上がりを見せた頃、ようやく行動を起こす。陽があるうちに確認しておいたとっかかりを足場にして、猛然と宿屋の壁を登り出す。
ラルフは壁をあっという間に登り終えると、ハンカチが掲げてあった窓をコンコンと小さく叩いた。ほどなくして内側から窓が開けられ、マリナラが顔を出した。
「こんばんわ、殿下」
「迷いませんでしたか?」
「ええ、大丈夫でした。市中歩きがご趣味とあってなんとも都合の良い宿屋をご存じですね」
「まあな」
ラルフは腕に力を入れると一気に窓枠を乗り越え、客室に華麗に着地した。
この宿屋はラルフが各地で隠密行動する団員と連絡を取る際に使っている場所のひとつだ。
宿代さえ予め支払えばその後の出入りは自由であり、ひっきりなしにくる商隊に混じってしまえば宿屋の主人の気を引くこともない。
……少なくともラルフは呼び止められたことはない。
外套を身にまとったマリナラはケルシェの別宅で着ていたような煌びやかな飾りのついた華美なドレスではなく、下級貴族が普段着てきているような質素な木綿のドレスを身に纏っていた。
どことなく漂う気品を隠しきれていないが、それでも玉石街や雇われている侍女ぐらいには収まっている。