「いいでしょう。契約成立です」
彼女は艶やかな黒髪をふわりと後ろに靡かせると、唇の端を上げて仄かに笑った。
透き通った湖面にも似たウォーターブルーの瞳は爛々と輝き、まるで夜空に煌めく星のように綺麗だった。
武骨な手で触れたら一瞬で壊れてしまいそうな華奢な造りの身体は、硝子細工のように儚げだった。
彼女の表情には悲壮感などまるで感じられなかった。
むしろ、満足な取引ができたことによる誇りと高揚感で頬はほんのりと赤く色づき、足取りも羽のように軽やかだった。
彼女は意気揚々と使用人を呼びよせると、紙とペンを持って来させた。サラサラと音を立てながらペンが紙の上を踊っていく最中、時に鬱陶しげに耳に髪をかけるその横顔を見てラルフはうーむと唸った。
(なんと美しいのだろう……)
女性の美醜に関心がある方ではないことを自認しているラルフだが、目の前の女性の美しさには正直に賛辞を送りたい気持ちになった。
ましてやその胆力と言ったら、もはや男顔負けである。ラルフの人生においてこれほど度胸のある女性がいただろうか?
「さあ、こちらの契約書にサインを」
色目を使うわけでもないのに上目使いで自分を見上げる彼女を見て、ラルフは俄然この令嬢に興味が湧いてきた。
令嬢専用の執務室にはおおよそ人気というものがなかった。否、厳重な人払いがしてあるのだろう。
……もし仮に二人きりのこの空間で彼女を口説いたらどうなるだろうか。
当然のことながら一筋縄でいくはずがない。平手のひとつでももらう覚悟で事に当たらねばならないだろう。
細い手指を振るわれたところで蝶が止まったぐらいの威力しかなかろうが、想像するだけでラルフの心が躍った。
しかし、騎士団の詰所からそのまま来たせいでラルフの服装はお世辞にも綺麗とは言えなかった。
ああ、なぜもっとまともな服装に着替えなかったのか。もはや契約そっちのけで、自分の小汚さを怨むばかりである。
「さあ、どうぞ」
小鳥のような可愛らしい声でペンを進めていく彼女の声を聞き、ラルフはようやく我に返った。
面白そうなことがあるとすぐに実行に移そうとしてしまうのは自分の悪い癖だった。彼女の機嫌を損ね契約を反故にされて困るのは自分の方である。
(しっかりしろ……)
武人でもない一介の女性に骨抜きにされたとあっては騎士の名折れだ。
北の森で熊の大群に襲われ一昼夜戦い通しだった時のことを思い出せと自身を鼓舞する。これぐらいのことで冷静さを失っていては先が思いやられるだろう。
……なんたって彼女は私の妻となるべく雇われたのだから。
「……わかった」
ラルフは辛うじてそう答えると、この国の第4王子である己の名、”ラルフレッド・リンデルワーグ”をなんとか書き綴ったのであった。
これがラルフにとって甘く苦しい契約の始まりとなるのであった。