「ところで悠長に何を読んでやがる?」
「これですか? この間教えていただいた伽婢子(おとぎぼうこ)です。寛文6(1666)年に発行された浅井了意(あさいりょうい)の作。東京で古本屋を探しても見つからなかったのに屋代(やしろ)さんは当然のようにお持ちでした」

 屋代というのは逆城南(さかしろみなみ)で店を構える好古家(収集家)で古今東西の珍品奇品を収集している知り合いだ。好古屋(こうこや)の屋号で店を構えている。
 炊いた米を(ひつ)に入れて戻ると鷹一郎が古そうな本を眺めていたのだ。俺は鷹一郎の家に居候になる礼に煮炊きをすることにした。日当はもらっているもののそれは仕事の対価であって、無料で間借りするのはそれはそれでなんだか気が引けるのだ。

 俺はすっかりその髑髏に魅入られていた。
 それで夜な夜な布団に忍びにくるものだから、俺は長屋を逃げ出して鷹一郎の暮らす神社に居候を決め込むことにした。
 鷹一郎は辻切(つじき)西街道(にしかいどう)沿いにある土御門神社に住んでいる。鷹一郎の本業は宮司で広い神社の敷地に一人で住んでいる。あまりにひっそりとしているものだから参拝客もほとんどいない。俺が住み込んで10日ほど経つが、たまに拝殿の鈴がガラガラと鳴るくらいで鷹一郎を尋ねる者などいなかった。
 だから鷹一郎は特別な仕事がなければ境内の掃除をしたり日がな一日本を読んだりとのんべんだらりと世捨て人のように暮らしている、らしい。羨ましいこって。

 箱膳に焼いた目刺しと味噌汁を乗せて土間と部屋を往復する。ぎゅうぎゅうと手狭な俺の住む長屋と違って鷹一郎の家には広々とした土間があり使い勝手が良い。けれども長屋は狭くて土間を上がればすぐに部屋だが鷹一郎の家は広いから膳を運ぶ往復が少し面倒くさい。
 櫃から米を茶碗によそうと鷹一郎はぱたりと本を閉じた。
 灰青色の表紙に綴られた薄い本。寛文6年といえば200年余りの昔。

「浅井了意というのは聞いたことがあるな」
「徳川様のご治世の初めの頃の方です。その頃、庶民向けに仮名混じり文の商業出版が始まりましてね。いわゆる浮世草子の前身で、その(さきがけ)となった人です。伽婢子は怪奇譚を集めたものですが、他に各地の旅行譚や滑稽譚も多く記しています」
「ふうん、それに牡丹灯籠があるのか?」
「ありますね。読んでわかりましたが円朝の牡丹灯籠のまさに怪奇部分の元ネタです。人情話は他のところに元ネタがあるそうですが」
「あの髑髏はそんなに昔のやつなのか?」
「イメエジ的には古そうな感じはするのですけどねぇ。けれどもなんだかその姿に違和感がある」

 伊左衛門が描いた髑髏の姿は和洋折衷だった。それであればここ20年ほどのものだろう。
 腐汁にまみれきってすっかり着崩れている前合わせ、その上にまとうのはそれなりに上等そうな深緑の襟合わせに細かい刺繍が施されているけれども袖が半ばで千切れた羽織。それから赤黒いかけ湯巻(腰エプロン)。伊左衛門は外国人居留区でよく見るスカァトとかいうものかもしれないとも言っていたな。それに上衣は袖も長く広がっているが(たもと)のない筒袖のような服らしい。
 伊左衛門は元々の素材は良いものだと思うと述べていた。質屋なのでものを見る目はあるだろう。
 それぞれのパーツを考えれば洋装のようにも思えるが全体的には和の装い。やはり和洋折衷。

「浅井の時代で外国となるとご朱印船でしょうかね。安南(ベトナム)暹羅(タイ)呂宋(ルソン島)あたりの服装ならばどうかともとも思うのですが、伊左衛門さんから伺った範囲でも哲佐君のお話でも服地は南の国で着るには暑そうなのですよねぇ」
「羽織を羽織ってたわけだからなぁ。(中国)ってことはねぇのか? 清なら北の方は寒いだろ」
「時代的には清なのでしょうが、清の服というと居留区のアディソンさんがよく召されている満州服(チャイナドレスの原型)ですよ。右胸の上のあたりで服地を止められた(ワンピース)で和装のような前合わせではありません」

 満州服。確かにイメエジは随分異なる。
 アディソンというのは開港神津(こうづ)港にある外国人居留区で用心棒をやっている妙な奴だ。鷹一郎は舶来の呪物やら何やらを買い求めにそんなところにまで出向くから、その交流は存外広い。
 やはりせめて顔がわかれば異人かどうかはわかりそうなものだがいかんせん髑髏だ。そもそも俺は髑髏をあまり見ないようにしているからはっきりとはよくわからないんだよな。

 今、俺は毎晩鷹一郎が張った結界の中で眠っている。そしてその結界は絶妙な範囲、布団の内側というぎりぎり髑髏が俺に触れられぬ範囲で張られている。だから髑髏にとって探し求める俺はすぐ近くにいるはずなのに、どこにいるのかわからない。完全に結界で塞いで髑髏が入れないようにすれば諦めて伊左衛門を探しに戻るやも知れぬ。だからその対処は仕方がないといえば仕方がなく、夜を耐えることは俺の仕事の内に入るわけだ。

 けれども俺のすぐ近くで、触れようとすればすぐに触れられる距離で髑髏はひくひくと蠢きうめき声をあげている。たまったもんじゃねぇ。この距離では視線をくれても感づかれる恐れがある。視線というものは感情を伝えてしまうのだ。見れば、見られる。そんなわけで最近は髑髏を直視していない。
 俺は髑髏が現れる時間中はひたすら布団で縮こまって朝を待つ。ぽたぽた、ひそひそ、濃密な死の匂い。朝起きたときには汗でぐっしょりだ。

 鷹一郎は、哲佐君はよほど美味しそうなんでしょうねぇ、などとと言うが俺としてはたまったものではない。