「本当に困ってたんですよ。舶来物らしいけど、気づくと中のものが湿気って腐ると苦情ばかりで。でもお安く譲っていただいたものだからなんとも言い出しづらくって」
「そうなんですね、芦屋(あしや)殿から不具合の可能性があると聞きお伺いました」

 芦屋というのは伊左衛門の屋号だ。
 棺桶は貸家の設備として引き取られたものらしい。今は蔵の暗がりに埃にまみれて横たわっていた。長持ちに見えなくはないがよく見ると違う。長持ちにしては形がおかしい。片側が高くやや湾曲に反り返った重そうな蓋が壁際に立てかけてある。棺桶と思うと途端に気色が悪い。中はしっとりと湿り顔を近づければどこかから腐臭が漂う。
 俺の隣にいる髑髏は俺を引きずり込むわけではなく、ただ、隣に突っ立っている。

「入って下さい」
「まじかよ」
「そうですよ。お仕事です」

 棺の前に行くと棺が開き(至柩前、柩忽自開)
 二人で入ると蓋は閉じられ(擁之同入、隨即閉矣)
 ついには棺の中で死んでしまいました(生遂死於柩中)

 目の前にはその底が見える綺麗な昏い箱。
 すでに蓋は開けられている。入れば閉じ込められるのだろうか。
 背中にぺたぺたと紙が張られる。
 覚悟を決める。ヘリを掴むと風が吹き、見えぬ腕に掴まれた。ごくりと唾を飲む。ふわりと棺から空気が昇る。人一人分がゆったりと横たわれる、大きさ。
 自分から入るのは良くないことではないのだろうか。

「往生際が悪いですねぇ」
「仕方ねぇだろ。好きで食われるわけじゃねぇ」

 ふぅとため息をついて恐る恐る冷たい棺に足から入り、横たわる。たふたふと底から沸き上がる湿気。麗卿は12年の間ここに横たわり、それから。それからどうなったのだろう。瞿佑は道士に祓わせた。けれどもそれがなければ、どうなったのだろうか。
 翌日喬生は死体となって見つかる。
 それで、話は。

 湿気。気づくとそれが俺を包み込んでいた。息が次第に苦しくなる。
 いつのまにかギギィという音がなり、重い蓋が閉じられた。
 そこは真の闇、何もなく、ただ、闇。
 けれどもそのうちどこかでぽぅと赤い灯が灯る。それがゆらゆらと近づいてくる。牡丹灯籠、それだけが闇の中で光っている。手を伸ばせばすぐ左右と背に棺の板目がある筈なのにそれはもはや何処にも感じられない。ただ、無限に広がる宙空に不確かに浮遊するような気持ち悪い感覚と、足元からゆるりと昇ってくる何者かの気配と甘く腐った香り。追うように湿っていく俺の着物。ぞぞりと骨が俺に触れる感触。圧迫。

 ひた、ひた。
 ……だんな、さま、ぁ……
 どこに、どこにいらっしゃった、の……

 最初は耳を澄ませてようやく判別をつけていたのにずっと聞いていたからか、いや、恐らく違う。麗卿はだんなさまに会いたい、どこにいるのかしか話さなかった。だからわかりにくいその言葉に耳が慣れたのだ。
 こんなに近いのに俺の居場所がわからない。いや、もう、わかるはずだ。俺が閉じ込められているのは麗卿の内側なのだから。
 この異界は麗卿の世界。麗卿のあの世。どこまでも広がる外の世界と隔絶されたたった2立法メートル程度の狭き世界。だから俺自身がどこにいるかはわからずとも俺をすっかり包み込んでいることはわかっているはずだ。

 猛る動悸を抑えて息を整えると、ふと、牡丹の香りがした。
 首筋に回される冷たい腕。唇に触れる湿り。
 狭いその内側で麗卿の気配が満ちる。この内側全てが霊卿。

 ここに、おられるのですねぇ……
 ……ずいぶんおさがし、もうしあげましたぁ

 その声音はふるふると骨を通して俺に響いて頭の中で言葉になる。
 そこにはこの世の中に、この黄泉にはたった2人しかいないと思わせるような凄まじい孤独感と、それから2人でいられるという少しの安堵感と喜びがないまぜになっている、反響する湿った音。

 麗卿に抵抗してはならない。
 麗卿を否定してはならない。
 麗卿はただ喬生を好いていて、一緒にいたいだけなのだから。
 俺からは麗卿に呼びかけても反応してもならない。
 俺を俺と認識すれば、麗卿は俺が喬生でないことに気がついてしまうから。

 ここは麗卿の夢の中だ。夢のように全ては曖昧なその世界の中で俺は麗卿に食われる。それが俺の仕事。ふわりと上がる湿度。
 俺をねとりと圧迫して絡みつくのは女の腕か肋骨か。
 浅く息が絡まる音を聴きながら時間の経過をただ待つ。ただ。
 哀れな麗卿に自ら触っては、いけない。声をあげても、いけない。ふりほどいても、拒絶しても。
 なんだかそれはとてもいじましく、頭の一つでも撫でてやりたくなるような、そのような時間を静かに耐える。
 
 その時間は随分と長く、最後にようやく女が大きく息を吐き、俺を締め上げる(かいな)の力が僅かに緩んだその瞬間。
 俺に張り付いていたたくさんの人形(ひとがた)の紙がはらりと(ほど)け、淡い光を放ちながら浮遊して狭い棺をその外縁に向かって散る。
 そうだ。ここは無限の闇ではなくせいぜい人1人が入れるだけの狭い棺。と思った瞬間幾枚かの紙が(くさび)のように蓋を押し上げ、唱え続けていたであろうその低く澄んだ音を棺の中に呼び込んだ。