今日の昼間は少しだけ、人魚について調べてみようと思う。マレの言う一生に一度の恋というのが人間と人魚の恋だとしたら、人間の方にも同じ様に言い伝えがあるのではと思い至ったのだ。

とりあえず調べ物といったら図書館だと、麦わら帽子を被り自転車に乗って、いざ町の図書館へ。

グングン風を切って進んで行く自転車が気持ちいい。思いっきり自転車を漕ぐなんて普段出来ない為、調子に乗って坂を下った。涼しくて気分は爽快だった。けれど図書館へ着いて降りた途端、滝の様な汗をびっしょりとかく。日傘を差して歩いてくるのとどちらが暑いのだろう、なんて考えも冷房の効いた図書館へ足を踏み入れた瞬間涼しさに吹き飛んだ。

まずは人魚について探してみたけれど、人魚の伝説の中にマレの言う崖の出会いスポットの件は出て来なかった。一括りに人魚といっても幅が広すぎる為多分この調べ方では違うのだと、次は角度を変えて町の歴史を調べてみる事にした。…が、特に収穫は無し。

意気消沈で帰宅する事に。ネットで検索してみたりもしたけれど、さっぱりだった。でもそうだよね、誰かが知ってる言い伝えだったら今頃あの崖の階段は綺麗に直されているはずだもの。

となると、この家に住んで長い祖母に聞くのが最後の手段か。裏手の海について。行った事はあるはずだ。


「裏の海に?人魚?」
「うん。居ると思う?」
「居たらいいけど、居ないでしょうね。だって居たらもっと騒がれてるはずじゃない」


階段が直されているはずだと思った私と似た理由付けに、遺伝を感じた。私達は血が繋がっている。


「人魚ではないけど、あそこはたまに行方不明者が出るのよ。崖になってるし、海に流されたら潮の流れが激しいから死体も浮かび上がって来なくて」
「え、怖い。なのになんであそこで行方不明になったって分かるの?」
「通ってたっていう証言があるのよね、居なくなった人達に。瑠璃が何で興味を持ってるのか知らないけど、何があるか分からないから近付かないようにね」
「……」
「もちろん、人魚も居ないからね。そしたら私が見てるはずだから」
「……」


分かったと頷き、お昼ご飯を食べ終わったお皿を下げた。行方不明者が出るなんて、まるで人魚に海へ連れ去られたみたいだと思う。死体が上がらないのなら、その人達は生きているのかもしれない。


その晩、私は海へと向かう。3回目ともなれば慣れたもので、崖に辿り着くまではなんて事なかったのだが、降りて岩場まで行くのはやっぱり大変だった。ちょうど昨晩と同じ、驚いて落水した場所に腰を下ろすと、どこからか声がまた聞こえてきた。


「来てくれたね」
「約束だから」


ザブンと、海から顔を出したのはマレ。昨日と変わらず、月明かりを受けて銀色の鱗が角度で色を変えて輝いている。


「この声はどうやって聞こえてるの?」
「瑠璃に直接届けてるんだよ」
「そんな事出来るの?テレパシー?」
「そうだと思う、よく分からないけど。人魚の言葉じゃ通じないでしょ?」
「人魚の言葉…」


そんなものがあるのか。聞いてみたい。


「駄目だよ、うるさいから」
「!心も読めるの?」


嘘は付けないなぁ…と思っていると、瑠璃が僕の事すごく綺麗だと思ってる事は伝わってるよ、なんて言われてギョッとした。正しくその通り。こんなに綺麗な生き物は他に居ないとすら思っている。


「マレ、手を見せて欲しい」


私が頼むと、いいよと彼は両手を私に向かって差し出した。そっと掴むとひんやりとしている。爪は長く鋭い。指の間には水掻きがあって、指の節が骨っぽい。灰色の皮膚をしていて、手の甲には銀の鱗が腕へとのぼっていくようにキラキラと生えている。


「綺麗だね…」
「そう?普通だよ」
「普通か…この鱗、なんでこんなに光るの?宝石みたい」
「身体を守るとか、反射させて見えづらくするとか、そんな感じ」
「実用的なんだね…」
「そう。実用的だから爪も鱗も鋭いよ。手が切れたら危ないから気をつけて。僕は瑠璃の柔らかい手を切っちゃいそうで怖い」


そっと手を引くマレ。瑠璃には鱗も爪も無いから心配。とっても弱そう、ふにゃふにゃで。と、困った表情でこちらを見る。


「優しいんだね、マレ。心まで綺麗」
「だから普通だって。人魚なんてこんなものだよ」
「そうなの?でも私、出会えた人魚がマレで良かったな」


とっても綺麗で、とっても優しい。楽しいお喋りをしてくれる可愛い所も、ロマンチストな素敵な所も、一生に一度の恋を信じる純粋な所も、好き。


「人魚は、やっぱり長く生きるの?」
「そうだね。人間の倍以上は生きるかな」
「じゃあマレは、私にどうして欲しいの?」


人魚の言う、一生に一度の恋がどんなものか知りたかった。それだけ長く生きるのに一生に一度しかしない恋に憧れて、早く死んでしまう人間にそれを求めるなんて、どうも可笑しな話だと感じた。いくらロマンチックな出来事が好きでも、きちんと最後まで添い遂げられる相手を選ぶべきだと思う。だって、マレが置いていかれるなんて悲しい。


「…あのね、人魚には一生に一度だけ、人を人魚にする魔法が使えるんだ」


それは大事な秘密を打ち明ける囁きだった。ザザンッと、波の音が響く。マレはジッと私を見詰めている。


「瑠璃に人魚になって、ずっと傍に居て欲しい。瑠璃の場所を作るよ。寂しい思いもさせないし、僕がずっと守る。だから一緒に海へ行こう?」


マレの瞳は真剣だった。この言葉の中には、嘘や冗談は一つも混ざっていないのだろう。マレは私を人魚にして、海へ連れ去ろうとしている。海で一緒に生きていこうと思っている。それが、一生に一度の恋という言葉が持つ意味だった。じゃあ、私は…?


「…私は、一緒には行けないよ」


告げる言葉に、マレは傷付いた顔をした。なんで?と。きっともう心の読めるマレには私の気持ちは伝わっているのだろう。私はマレが好きだ。でも、今すぐ一緒にはいけない。


「私ね、少し疲れてたんだ。学校とか、人付き合いとか、色々。だからお婆ちゃんの家に一人で遊びに来たの。夏休みが終わったら元の場所へ戻るから、ここには夏の間しかいられない」


すると突如、ぬっと海から灰色の両手が伸びてくる。マレだ。あっと思った時にはすごい力で腕を掴まれ、体勢が崩れた所に上半身を抱えられ、そのまま海へ引き摺り込まれた。ドボンッ、私はまた、海水の中へ落ちていく。

真っ暗な海は何も見えなくて、私を掴むマレにぎゅっとしがみついた。このまま連れていかれちゃうのかな、もう死んじゃうのかなと、なかなか海面へ戻らないマレに思う。怒らせちゃったかな、悲しませちゃったかな、ごめんねマレ。

ーーでも、マレはしなかった。グングンのぼって、ザパンッと海面から二人で顔を出した。酸素が一気に肺に入ってむせ返る。でも、戻って来れた。外の空気だ。


「…人魚にするには、僕に全てを託してくれる覚悟が瑠璃にも無いといけない。それが無いと、不完全な形で瑠璃は死んでしまう」


悲しい目をして私を見詰めるマレに、そうなんだねと、優しく相槌を打った。彼は泣きそうな顔をしていたから。


「瑠璃は僕が好きじゃないの?」
「マレが好きだよ。きっと他の誰に会っても、ずっとあなたを忘れない」


これは私の本当の気持ち。マレにはどうやって聞こえているのだろう。心の声と私の声で、二重になって聞こえるのかな。本心だと伝われば良い。こんなに素敵な人にはきっと、もう二度と出会えないに決まっている。綺麗なマレを夜空を見上げたあの日と一緒に、きっと一生心の宝箱にしまって生きるのだろうという確信があった。


「じゃあ一緒に居てよ」
「…うん。でも、その覚悟は出来ない。マレは急に人間になれって言われて、なれる?人魚の自分を、今までの生活を、捨てられる?」
「……」
「私はまだやりたい事が沢山あって、大人にだってなりたい。マレの事は好きだけど、今すぐ一生一緒には居られない。そしたらきっと私はいつか、マレの事も、私の事も、嫌いになってしまうと思う」
「……」


マレは考え込んでいるようだった。私の言葉はマレに届いているみたいで、マレは自分の意志を押し通そうとはしなかった。やろうと思えば出来ただろうに。今浮かんでいるのは海の上、私の命はマレの手の中にある。でもマレはしない。それが本当に大切に思って貰えている証拠のように思えた。


「じゃあ待つよ」
「待つ?」
「うん」


覚悟を決めたマレが、私の顔を覗き込む。


「瑠璃のやりたい事が終わるまで、傍に来てくれるまで、待つ」
「…そんな事、出来るの?」
「出来るよ。だってこれは一生に一度の恋だ。待てないのならそうではなかった。ただ、それだけの事。だから僕は待てる」


力強く私を抱き寄せるマレの決意を受け取める。一生に一度の恋ならば私の覚悟が決まるまで待てるはずだと、自らに言い聞かせているように見えた。私の意志を尊重しようと、マレは私を手放す覚悟を今、決めてくれている。


「…マレ、聞いて。私、夏の間はここへ来るよ。絶対に。マレは私の特別な人だから」
「…うん」
「マレに連れ去って貰う日まで、私は毎年ここへ通うよ。覚悟が出来たら私を連れてって。それまで、待てる?」


「これを私達の一生に一度の恋にしよう」その言葉に目を丸くしたマレは、嬉しそうに頷いた。

そっと近づいてきたマレの唇が触れる。ひんやりと冷たい唇が、私の熱を奪っていった。


「待ってるよ」


綺麗なマレの声が耳元で囁かれる。心が奪われ脳に刻まれた、彼の声と潮の香り。



ーーさて、今年もまた夏が来た。マレに会いに行こう。きっと首を長くして待っている。



君は海で、私を待っている 完