行くべきか、行かないべきか。本当に悩んだ。昼間、後悔したばかりなのは分かっている。それでも彼の声が耳から離れない。

悪い人そうには感じなかった。話し方も優しげで、冗談を交えたり、楽しそうに笑う所も親近感が湧く。そんな彼は海に居て、光に反射する存在だと言う。夜に行けば、彼に会える。

そっとベッドを抜け出すと、私はまた海へと向かう。昼間とは打って変わって、鬱蒼と茂った木々がまるで生き物のように騒めいている。これは私の感覚の問題。夜だから、暗闇の中を警戒して歩いているから、そんな感覚にとらわれているのだ。分かってはいても、怖い。

でもそれも林を通り抜けるまで。そこを出てしまえば視界は開けて、解放的な夜空と海が飛び込んでくる。潮風が心地良い。

崖の際に座る。波の音に耳を傾けて、今日も明るい月に照らされた海を眺めた。なんて綺麗なんだろう。波の一つ一つが一面に光を散らばらせる。


「そんなに僕に会いたかった?」
「!」


唐突なそれに、毎度同じように驚かされた。だって何の気配も無く声だけ聞こえて来るのだ。怖いに決まってる。


「どうしても、確認したくて…」
「ふーん。なんで?」
「なんでって…怖いから…」
「怖い?なら来なければいい」
「……」


本当にその通りだと思う。来なければいいし、忘れればいい話。だって夏休みの期間に祖母の家に遊びに来ているだけなのだから。


「でも気になっちゃうんだよね。分かるー」
「……」
「なぜならそれは僕も同じだから。忘れられないよね、引き寄せられる。一体なぜ?」
「……」
「君に会いたいから。だから今、会えてとっても嬉しいよ」
「……」


こんな事をペラペラと言ってのける彼は一体、今どんな表情をしているのだろう。


「私は会えてません」
「ん?」
「海に居るって言ったのに、どこにも見当たらない」
「…あー、それは僕が見えない様に隠れてるから」
「なんでですか?」
「そりゃあ恥ずかしいからだよ」
「会えるって言ったのに、嘘つき」
「嘘つきは嫌だなー」


うーんと、考えているような声がする。声だけだからどこまでが本当で、どこまでが振りなのか分からない。


「…でもきっと君は驚くから、少しだけね」


約束は守ると、彼の声が聞こえた。眼前の海に伸びる空から落ちる月明かりの道筋。波に揺らめきながらもハッキリと映る白い光に、バシャンッと、大きな弧を描く様に一匹の何かが飛び跳ねた。

魚…いや、それにしては大きくて細長いような。まるでイルカのようなシルエット。しかし光の道の上、キラキラと光を反射させながら弓形に跳ねたものには、長い両手が、生えていたような…もしかして、


「人、魚?」
「そう。どうだった?僕のジャンプ」


あっさりと、彼はその名詞を受け入れた。物語でしか登場しない空想上の生物、人魚。それが今、目の前の海に居るなんて。


「…綺麗でした…すごく」


とても幻想的な光景だった。月明かりのスポットライトに照らされて、キラキラと輝きながら水飛沫と共に跳ねる彼。それはまるで、絵画の様。


「…本物?」


疑うように呟く私の耳に、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。チャポンと、彼は海から頭を出したようだったが、遠いのでハッキリと見えない。


「僕は人魚。君は人間。初めまして、瑠璃。僕はマレ」
「…マレ」
「怖くない?」
「……」


得体の知れない存在。マレと名乗った彼は人魚。遠目でも分かる、その存在感。月を背負い、跳ねた彼の美しさ。歌う様に話す、綺麗な声。


「怖く…ない」
「じゃあこっちにおいでよ」
「……」


行ってみようかなと心が動いた。だってもっと近くで彼が見たい。彼の顔はまだ見えない。傍でその美しく光る身体を見てみたい。

そっと真っ暗な崖をくだる。階段は舗装されているとはいえ、必ずしも安全とは言い切れない程度の古さがあった。足を踏み外したら一貫の終わりである為、細心の注意を払っておりていく。

やっと降り着いた先、次はゴツゴツと尖った岩場が待っていた。隣の岩に手をつきながら、フジツボで手を切らないように注意して進む。険しい道のりである。それでも、彼に会いたかった。

やっと一番際まで辿り着いた。ザザンッと波が打ち寄せ、岩に当たると水飛沫を飛ばす。崖の上から見ていたよりも断然大きく、激しい。


「怖くないなら、近づいても良い?」


彼の言葉に頷いた。たっぷりの水量に、大きな波。何がどこまで近づいてきているのかなんて、これっぽっちも分からない。彼を待つ、独りぼっちの時間が続く。


「…マレ?」


寂しくなって小さな声で呟くように彼の名前を呼ぶと、突然、私の居る岩の足元からザバッと何かが現れた。


「わぁ!」
「きゃーっ!わっ、あっ!」


ボチャーンッと、海へ落下。あまりにも驚いた為、不安定な岩の上でバランスを崩してしまったのだ。波が高くて強いのは分かっている。濡れた岩は滑る為、登れないだろう。塩辛い水が鼻と口に入った瞬間、死が頭を過ぎった。

ーーが、ザバンッと、水から顔が出て、息が吸えるようになる。沈んでいくと思っていた身体は安定している。


「あははは!落っこちちゃうなんてドジだなー!」
「!」


目の前に顔がある。肌色ではない、灰色の皮膚をしている。小さな鱗と大きな鱗で光り方が違う。ツヤツヤと水に濡れて少しザラッとしている。まん丸の目が、近い距離で私を見つめている。私をその二つの腕で抱えてくれていて、だから私は沈まなくて、それで、その、えっと…え!?


「本物!」


何が何だか分からな過ぎて逆に冷静になるって、きっとこういう事を言うのだろうと身をもって体験した。ようやく落ち着いた所でちゃんと理解し、反応出来た。人魚。彼は本当に、紛れもなく人魚だった。


「瑠璃、落ちちゃ駄目だよ。危ないよ」
「…じゃあ驚かさないで下さい」


マレは、とても綺麗な青年だった。深い青色の瞳はキラキラと輝き、まるで夜空の様。吸い込まれるように見つめ続ける私に、マレはニッコリ笑った。


「このまま少し散歩する?」
「散歩?…って、海を?」
「そう。僕の背中に乗って」


マレに支えて貰いながら彼の背中に移動すると、マレは思っていたより背丈がある事に気がついた。尾鰭が太く、長い分だと思う。乗ってみると安定感がある。


「今日は月も星も綺麗だから、絶好の散歩日和だよ」


ゆっくりと泳ぎ出したマレは、そのうち徐々にスピードを上げて沖へと向かう。不思議な事に、沖へ出る程波は穏やかになり、岸から見えた海は真っ暗だったはずなのに、小さな星の輝きは更に大きく、月に一層近づいたような明るさを感じた。まるで私達だけの空間。手を伸ばせば届きそう。空から星が、落ちてきそう。


「綺麗だね…」


私の声にマレは止まり、夜空を見上げる。


「マレはいつもこうやって空を見てるの?」
「そうだね」
「海と空に包まれて、不思議な気持ち。なんだか陸に近づくのが勿体無いくらい…なんでマレは岸に居たの?」
「……」


マレは少し考えているようだった。空を見上げて、ポツリと呟く。


「恋が、してみたかったんだ」
「…恋?」


思いもよらない答えにもう一度聞き返すと、うんと彼は頷いた。


「あそこへ行くと、一生に一度の恋が出来るって、言い伝えがあるんだ」
「え?あそこって…あの崖?」
「そう。ロマンチックじゃない?」
「…そうだね」


人魚はロマンチックな事が好きなんだと、マレは言う。ほら、この夜空みたいに、と。


「そしたら、瑠璃が居た。きっと運命だよ」


くるりと身体を反転させて振り返ったマレにしがみつくと、マレはぎゅっと私を抱き締めた。


「また明日も来てくれる?」
「…うん」
「じゃあ帰してあげる」
「え?!」


今頷かなかったら帰して貰え無かったの?と、私は顔で話していたのだろう。冗談だよと、マレは笑って、ちゃんと陸まで送り届けてくれた。


水浸しの服が重い分だけ、私の足取りも気持ちも重い。名残惜しさを引き摺りながら現実へと戻る。証拠のびしょ濡れの服は夜のうちにこっそり洗って干しておいたので、この秘密が祖母にバレる事は無かった。

ドキドキしてなかなか寝付けない、とても素敵な夜だった。