夏の間だけやって来た祖母の家には、家の裏手に大きな海がある。外海だから波が激しいよ、危ないから近づかないようにと、祖母から釘を刺されたけれど、海の傍で暮らすのは初めての事なので好奇心が抑えきれず、私はその夜、こっそりと家を抜け出した。

夜の海は憧れそのものだった。映画でも、ドラマでも、漫画でも、夜の海で主人公は何かと向き合う事になるシーンが多い。その特別な空気を私も感じてみたかったのだ。高校生になった今、大人の注意なんて大した問題では無い。

木々の生い茂る林を海の方に向かって抜けていくと、開けた場所に出た。先の方で突然足場が無くなっている。覗き込むと二階建ての家が縦に二つ分くらいの高さの崖になっていて、階段になるように舗装されている箇所がある。そこから降りる事も出来るけれど、下には白い砂浜が広がっている訳では無く、無骨で荒い岩がゴロゴロと海から生えるように散らばっているだけだった。

よくテレビで観る海水浴場とは全く違うものだった。足元が確認出来ないこんな夜に訪れるべき場所では無い。それでも、わざわざ祖母の目をかいくぐってここまで来たのだ。少しだけ雰囲気を堪能していこうと、崖の際に腰を下ろす。辺りには電灯が無く、その分まん丸に輝く月がとても綺麗だった。

波の音、虫の声、潮の香り。水面に月の光が道のように伸びて、波でゆらゆら揺れている。


「何してるの?」
「!」


突然掛けられた声に身体が飛び跳ねた。悪い事をしている自覚があった分余計に驚いて、慌てて言い訳を考える。


「えっと、海が、初めてで…」
「初めてなの?」
「はい。だからどうしても気になって…」


あれ?でも、誰が声を掛けているんだろう。

後ろを振り返ってみる。が、誰も居ない。辺りをキョロキョロ見渡してみても、誰かいる気配もない。そんな馬鹿な。そんな事はあり得ない。

怖くなった私は立ち上がり、そっと後ずさる。


「もう帰るの?」
「っ!」


声があまりにも近い場所から聞こえてきた為、危機を察知した野うさぎの如く駆け足で逃げ出した。その声は、耳元で囁くような距離感で聞こえて来たのだ。勿論、隣には誰も居ない。

真っ暗な道を走る。後ろを振り返る余裕なんて無くて、何度か躓きながらもなんとか灯りのある所まで出て来る事が出来た。ここまでくれば家はもうすぐそこだ。

振り返っても、そこには海へと続く古くなったアスファルトの砂利道が続くだけ。誰かが着いて来ている事も無さそうで、ホッと一息ついた。

あれはなんだったんだろう…?綺麗な声だった。男性の、少し低めの透き通った声。


その晩はなんだか頭が冴えてしまって、浅い眠りを朝まで続けた。しかし翌朝になり目が覚めても、ずっと頭に残るそれ。綺麗な声の正体がどうしても気になる。

ちょっと散歩に行ってくると告げて、私はそっと家を出た。行き先は昨晩の海。今度は昼間に行く事にした。始めから夜中に抜け出したりせずにこうして行けば良かったのだと、すんなり着いた海を見て思う。私はまた崖の際に腰を下ろした。

夏休みの真っ只中である今、太陽の光は容赦なく降り注ぐ。麦わら帽子を被ってきて良かった。長くは居られないけれど、風がよく通り心地良い。

辺りを見渡してみた。昼と夜ではもちろん雰囲気が違うが、どこか切り取られたかように空間ごと違うものに感じる。不思議だ、崖のせいだろうか。大きな波の音も、ミンミン無く蝉の声も、景色に溶け込み静かな場所になる。


「また来たの?」


そこにまた、声が響いた。くっきりと輪郭を持つそれは、この場所からしたら異様に浮いた存在感を放っている。ピシリと身体が固まって、背筋を冷や汗が伝った。緊張している。


「その帽子、可愛いね」


声が近い。でも、誰も居ない。昨晩と変わらない状況に、一瞬にして来てしまった事を後悔した。


「また会えた、嬉しいな。お話ししよう」


昨晩の事を指しているのか、その声の主は私の事を覚えていて、お話ししよう、なんて提案をする。もし断ったら一体、どうなってしまうのだろう。


「あ…」
「あ?」
「あなたは…誰?」


断ったら大変な事になる気がして、何か話さなければと思った口から飛び出したのがこれだった。こんな事は一番聞いてはいけない質問な気がする。なんと答えられても困る。だって幽霊だったら…呪われたらどうしよう。


「僕の前に、君は?」
「わ、たしは、山本瑠璃(るり)です」
「瑠璃、名前を簡単に教えてはいけないよ。これで君は呪われました」
「!」


とんでもない事をしてしまったと、一気に血の気が引いた。名前を言ってはいけないなんて話は、よく色んな物語でも出てくる。今が正にその時だったのだ。どうしよう、こんな所来なければ良かった。私はなんて馬鹿なんだろう…っ、


「なーんて、嘘です。だから泣かないで」
「…え?…嘘?」
「嘘。呪いはかけてないし、僕は幽霊でも無い」
「じゃあ何…?」
「教えたら、こっちまで来てくれる?」
「こっちって?」
「海」


ハッと視線を目の前に広がる青の方へとやった。完全に陸地に居るものだとばかり思っていたから、まさか声の主が海に居るなんて思いもしなかったのだ。


「海で、自殺した、幽霊…?」
「だから幽霊じゃないって」
「私を引き込もうとしてるんじゃ…」
「それは否定出来ない」
「!否定して欲しかった…っ」


あははと、声の主の笑い声がする。こんなに近くに聞こえているのに、まるで隣に居るかのようなのに、どうやら彼は海の方に居ると言う。不思議だ。崖を覗き込み、岩場から水平線まで見渡すが、それと言った人影のようなものは見当たらない。


「光に反射して見えないんだよ。夜においで」


そしたらきっと会えるよ。綺麗な声が、そう言った。