―――616年。失政と外征の失敗により弱体化した隋は、李淵(りえん)の策謀によって呆気なく滅亡。統一国家であった隋の崩壊により一時的に群雄が割拠したものの、李淵の子である李世民(りせいみん)が軍勢を率いて次々とこれを撃破。李淵は中央集権体制を確立し、長安を首都として唐を建国した。



 新しい時代の風が吹き荒れる中、唐の荊州都督である武士彠(ぶしやく)の館で高らかに産声が上がった。

「ご主人様、元気な女の子でございまず!!」

 部屋の外で右往左往しながら待っていた武士彠は、その声を耳にすると同時に勢いよく障子を開け放った。
 荊州一帯の軍事都督である武士彠は、鍛えられた肉体を持つ武人である。しかも、その鋭い眼光だけで部下を震え上がらせる、いわゆる強面でもある。しかし、この時ばかりは相好を崩し、穏やかな父としての表情を見せた。

「おお・・・」

 倭が子との初対面に声を震わせる武士彠に、出産に立ち会っていた老齢の産婆が言葉を漏らす。

「私は、これまで何百人と赤子を取り上げて参りましたが、これほどまでに美しい赤子は目にした事がございません」

 「うむ」と、その言葉に武士彠も頷く。自らの子は4人。その他、親族等の赤子を含めれば、これまで何十人と赤子を目にしてきた。しかし、生まれたばかりでありながら、気品さえも感じさせる赤子など唯の一人としていなかった。

「でかした、でかしたぞ。これは、さぞかし美人に成長しよう。うむ、うむ」

 満面の笑みを浮かべ何度も頷く武士彠。その視線が、ある一点で止まった。赤子の左手は開いているものの、右手はずっと握り締められたままなのである。「もしや、右手が不自由なの?」と疑念が浮かんだ武士彠は、赤子抱き上げている産婆に問う。

「右手はなぜ開かぬのだ?」
「右手、ですか?」

 問われた産婆が、赤子の右手を確認する。右手に顔を寄せた産婆には、すぐにその理由が分かった。

「何かを、握り締めているようです」
「うむ・・・では、右手を開いてみよ」

 指示されるまま、産婆は優しく丁寧に赤子の右手を開いた。強く握り締められていたもの、それは直径5ミリほどの真っ赤な血の塊だった。それを確認した武士彠は絶句し、目を見開いたまま硬直した。つい先程までの歓喜の表情はすっかり消え失せ、一転、口を真一文字に引き結んでいる。
 なぜならば、血の塊を握り締めて生まれてきた子は、悪しき存在として忌み嫌われてきたからである。かつて、殷を滅ぼす元凶となった紂王の寵妃妲己(だっき)。傾国と呼ばれた妲己もまた、美しい赤子であると同時に、血の塊を握り締めていたと伝えられている。

 本来であれば、この場で殺すか、出家させ寺院に引き取ってもらわなければならない。しかし、武士彠は根拠のない伝承を鵜呑みにし、ようやく生まれてきた我が子を切り捨てることができなかった。とは言え、古くからの風習を完全に無視することも難しい。

 自分自身を納得させる理由を求め、武士彠はその太い腕を組んで思案する。暫く考え込んでいた武士彠が、不意にその顔を上げた。

「おお、そうだ!! 確か、人相見で有名な道士が我が家に逗留していたな。この子の人相を見てもらい、その結果によって処遇を決めることにしよう!!」

 他人に判断を委ねることによって、武士彠は良心の呵責から開放される。早速、使用人に声を掛けると、その道士をこの場に呼び出すことにした。この時代、武士彠など地方官吏や豪族は、高名な道士や学士を食客として抱えていた。衣食住を提供する見返りとして、その高い見識による様々な献策を具申させていたのである。

 それから間もなく、黄色の冠布を被った中年の男性が姿を見せた。男性は武士彠の前まで来ると、胸の前で両手を合わせると一礼する。

「袁天綱、お呼びによりまかり越しましました」
「おお、先生。先生は人相を見ることができると聞き及んでいます。どうか、この子を見てやっては頂けないないでしょうか」

 武士彠は軽く頭を下げると、袁天綱に生まれたばかりの赤子を示す。
 袁天綱は道士であるとともに、高名な人相見でもある。これまでに数多の人物鑑定を行い、その結果は大いに評価されていた。「当代随一の人相見」と言って間違いない。

 袁天綱はその鋭い眼光を、白い布に包まれた赤子に向ける。すると次の瞬間、その細い身体を小刻みに震わせ始めた。

「・・・私はこれまでに、何十何百、いえ、何千何万もの人相を見て参りました。地方の豪族から王族まで、あらゆる階級の顔方々にお会い致しました。しかし、これまでに、これほどの貴相を見たことがございません」

「それは、どういうことですか?」

「この子供は、必ずや天に昇ることででしょう」

 その言葉の意味を、武士彠が正確に理解した訳ではない。しかし、血の塊を握り締めていたからといって、捨ててしまって良い子供でないことだけは感じ取った。

 武士彠は大きく頷くと、笑みを浮かべて赤子を見詰める。

「うむ。この子に名を付けねばなるまい。
 そうだな、名は・・・(しょう)としよう。今後、皆もこの子のことは照と呼ぶように」


 こうして、途切れるはずだった照の人生が始まった。