【WEB版】夏の終わり、透明な君と恋をした

 家に帰るまでの道のりは、無言だった。ただ手を繋いで、家に帰るしかなかった。気の利いた言葉など浮かんできやしない。
 こうして琴葉と手を繋いで帰るのは、初めてデートをした時以来だ。あの時は手を繋いでいるだけでドキドキして、甘酸っぱい気持ちに覆われていた。
 それが今では、切なさと虚しさと、この現象を創り出している誰かへの怒りしかなかった。どうしてこんな想いをしなくちゃいけないんだという理不尽さ、どうしてこんなに彼女を苦しめるんだという怒り、それらが海殊の胸のうちを覆っていた。

「あ、おかえりー……って、終業式にしては早くない?」

 家の玄関扉を開けると、丁度今夜勤から帰ってきたらしい春子が出迎えてくれた。
 今靴を脱いだところといった様子で、いきなり玄関が開いたので驚いている様子だった。

「母さんもお帰り。まあ、終業式だし、別に出なくてもいいかなって」

 海殊は微苦笑を浮かべて答えた。

「ほう、あの真面目な海殊クンがおさぼりねえ? まあ、いいんじゃない? あんた真面目過ぎたから、それくらいの方がお母さんは安心よ」

 春子は笑みを浮かべて、そう言った。
 母親のいつも通りさに海殊は安堵の息を吐いた時だった。

「あ、良い事思い付いたわ!」

 春子が唐突に明るい声を上げて、振り向いた。

「せっかく海殊も学校サボった事だし、久々に"親子水入らずで"ランチでも行こっか? お母さん車借りてきちゃうわよ?」
「えっ……?」

 思わず、声を詰まらせた。
 海殊の隣には、今も変わらず琴葉がいる。しかし、春子は琴葉の方を見向きもせず『親子水入らずで』と言った。
 海殊と同じ期間だけ琴葉と過ごした春子にさえ、もう琴葉は見えていなかったのだ。

「母さん……一個だけ訊いていい?」
「ん? なあに? どっか行きたい場所でもあるの?」
「いや……そうじゃなくてさ。俺の隣に、誰かいる?」

 息子の不自然な言葉に、春子は一瞬固まった。
 そして、彼の左右を見ては怪訝そうに首を傾げる。

「ん? それは何かの謎かけ? あ、夜勤明けだからって心配してるなー? 大丈夫大丈夫、お母さんこう見えて身体は──」
「ごめん、母さん。今日はやめとくよ。母さんはゆっくり休んで」

 海殊は母の言葉を遮ると、琴葉の手を引いて再び玄関扉から出て行った。
 そのまま彼女の手を引いて、駅に向かう。
 琴葉は何も言わずにただ俯いて、海殊の後をついてきていた。駅前に着くと、ATMでお金を三万程引き出す。春子から毎月いくらか小遣いを渡されているが、本代以外は殆ど使い道がなくて、貯金に回していた。昨年の夏にしたバイト代もまだ全然余っているし、数日どこかに行ける分くらいの貯金はあった。

「……どこ、行くの?」

 三千円程パスモにチャージをしている海殊を見て、琴葉が訊いた。

「どこか……ここじゃない場所」

 こうとしか答えようがなかった。
 どこか明確に行先があるわけではない。ただ、ここから離れたかった。琴葉の存在を否定するかの様なこの場所から、ただただ離れたかったのだ。
 そのまま彼女の手を引いて、駅の改札に入っていく。皮肉な事に、二人で同時に改札を潜っているのに誰も不自然には思わなかったし、駅員どころか改札機も反応しなかった。
 とりあえず山梨方面の電車に乗った。東京から遠く離れた場所で、できるだけ人が少ない場所、いや、どこか二人きりになれる場所に行きたかった。
 他に誰も人がいなくて、二人きりで過ごせる場所なら周囲の目を気にしなくていいはずだ。もう自分だけが琴葉を見えていたなら、それでいい──海殊はその様に考えていた。
 まだ朝の通勤時刻だからか、下り電車にも関わらず多かった。海殊は琴葉が乗客に押しつぶされないように、必死に隙間を作って彼女を守って見せる。もしかすると、他の乗客からすれば、一人で踏ん張って車両の隅っこにスペースを作っている謎の高校生に見えているのかもしれない。
 しかし、そんな周囲の目はどうでもよかった。海殊にとっては目の前に大切な女の子がいて、その子を守る事など当たり前だったからだ。

「無理しなくていいよ」

 琴葉は力なく、そして申し訳なさそうにそう言った。
 だが、海殊は何も聞き入れなかった。無理などしてるつもりはなかったからだ。むしろ、今の彼にとっては一番やりたい事がそれだったのである。
 大きな市駅を超えたあたりで人はぐっと減り、ようやく座席に腰掛ける事ができて、一息吐く。繋いでいない方の手でスマートフォンを取り出し、画面をタップしてみると、春子や祐樹達から心配のメッセージがいくつか届いていた。

「……ごめんね」

 隣の琴葉が唐突に謝った。何に謝っているのかわからなかった。

「謝るな。お前は……何も悪くないだろ」

 海殊はそう答えて、メッセージ欄を閉じてからブラウザを起動する。
 どこか二人で過ごせそうな場所を探す必要があったからだ。

「俺は……諦めないから。絶対、諦めないから」

 何を諦めないのか……それは、もう海殊自身もわからなかった。
 だが、この不条理な世界に対してだけは抗いたかった。
 例えこの世界が琴葉を拒絶したとしても、自分だけは彼女の隣に立っていたかったのである。
 海殊と琴葉が辿り着いた場所は、山奥にあった素泊まりコテージだった。
 電車での移動中に調べていたところ、価格もそれほど高くなくて、駅からバスでいけるコテージを見つけたのだ。今の海殊の持ち金でも何泊かできる。それに、コテージひとつひとつが離れていて、他の利用客と接触する可能性もなさそうだ。今の海殊達にとってはうってつけの場所だった。
 他の人達に琴葉が見えないのなら、二人きりで過ごして周囲の視線を気にしなくていいという問題もある。
 ただ、明日は琴葉が見たがっていた花火大会があるので、一度家に戻る事になるだろう。その際に、春子にどう話せばいいのか、未だ何も思いついていない。
 だが、今はそんな後先よりも、琴葉と過ごす時間を大事にしたかった。というより、既に現実離れしている問題が生じているのに、後先など考えていられなかった。その時その時になってから、目の前にある問題を解決していくしかないのだ。尤も、今海殊が採っている手段は現実逃避に他ならないのだけれど。
 二人はキャンプ場の最寄駅前にあるスーパーで食べられそうなものを色々買い込んだ。今の琴葉では調理も難しい事から、インスタント食品やスナック菓子、琴葉の好きな甘いお菓子……買い込み過ぎて、二日でも食べきれない程の量になっている。

「こんなに食べたら太っちゃうよ」
「夏だし、ちょっと運動したら痩せるよ」

 そんな会話のやり取りをして、バスに乗り込む。コテージはここからバスで一時間弱だ。
 バスに乗り込む際、運転手が怪訝な顔をして海殊を見ていた。明らかに地元の人間でない者が、"ひとりで話ながら"大量の食べ物を持っているのだ。きっと、彼からすれば気味が悪かっただろう。
 今はそれらに関して、一切気にしない。もうここに来るまでの間、散々変な目で見られたのだ。今更気になるわけがなかった。
 一応であるが、制服で移動するのは色々面倒事もありそうだったので、途中でTシャツだけ買った。下は制服ズボンであるが、上がシャツであればそれほど不審がられる事もないだろう。
 琴葉も何か着るものを買おうかと尋ねると、彼女は物悲しげに微笑んで、首を横に振っただけだった。
 それから、海殊達以外に乗客がいないバスの一番後部座席に座って、琴葉と見える景色についてああだこうだ語らいながら、バス移動を楽しんだ。
 さっきまであった憂鬱な気分はどこかに消えて、何だか駆け落ちをしているみたいでドキドキした。そうして他に誰もいない空間だと、純粋に二人の時間を楽しめたのだ。それは琴葉も同じ様で、先程までの物悲しそうな表情は消えていた。
 およそ一時間近いバス移動を終えた海殊は、受付で料金を先払いして鍵を貰ってから、早速与えられたコテージへと向かう。
 年齢は偽って大学生という事にしたので、そのあたりを疑われる事はなかった。少し大人っぽい雰囲気だったのが功を奏したのかもしれない。
 ただ、一人で人のいないコテージに素泊まりするという点については訝しまれたので『芸大生で、コンクールに出す為のネタを探す為に自然の中に浸りたい』とだけ言っておいた。最近読んだ小説の設定だったが、こう言えば大抵『そんなものか』と思ってくれるので、便利なのだ。
 実際に海殊は芸大生事情などわからないが、それは他の一般人も同じである。芸大生ならそんな事もするのかもしれない、と思ってもらえるというだけである。
 受付がある建物の外で待たせていた琴葉と合流すると、二人でそのままコテージへと向かった。まだ夏休み前だからか人は殆どおらず、コテージまで誰とも会わずに辿り着く事ができた。

「おお……値段の割に本格的なんだな」
「うん、素敵!」

 コテージの中に入ると、海殊と琴葉がそれぞれ感嘆の言葉を漏らした。
 コテージはログハウスになっていて、室内は木の香りで覆われていた。建物は一階建てだが、リビングに風呂、トイレ、台所がある。部屋の隅に布団が三つ程並んでいて、寝床にも困らなさそうだ。ネット回線も繋がっているらしくて、本当にここで生活できてしまえそうだった。

「ちょっとご飯食べたらさ、周りの森探検しにいかない? 色々新しい発見がありそう!」

 琴葉が笑顔で提案してくる。
 さっきまで元気がなかった琴葉だが、バスに乗ってからはややテンションが高い。歩く速度や握力なども戻っていた。
 周囲から人がいなくなってから、琴葉の体調はかなり回復した様に感じる。歩く事や何かを持つ事も苦ではないらしく、受付からコテージまでは一人で歩いていても問題なさそうだった。
 全く原理などわからないが、認識されるべく人が多ければ多いだけ、より彼女の生命力みたいなものが消費されていたのかもしれない。

「ああ。じゃあ、カップ麺食って早速探検しにいくか」
「うん! お湯沸かすね」

 いそいそと準備をし始める琴葉と並んで、一緒に仕度をする。
 なんだか、同棲を開始したカップルみたいで。でも、この時間はそう長くは続かない事も頭の片隅ではわかっていて。
 もしかすると、琴葉もそれがわかっているから、明るく振舞っているのかもしれない。
 それから夜までの間、海殊と琴葉は夏を満喫した。
 昼食を食べた後はコテージを出て、周囲の森を散策。琴葉は蛇や虫を見てキャーキャー騒いだり、小川に足を浸しながら気持ちいいと言ったり、野生の兎を見つければ可愛いと顔を輝かせたりしていた。色とりどりの自然と同じくらい多彩に輝く彼女の顔を見ていると、海殊はそれだけで幸せな気持ちになれた。
 それと同時に、この時間はそう長くは続かないのだろうと心の何処かで感じてしまって、泣きたくもなってしまう。それだけは琴葉に悟られまいと、普段より大袈裟に喜んだり驚いたりしてみせて、夏を精一杯満喫してみせた。彼女と過ごすこの夏だけは、絶対に忘れないに。
 夕暮れになってコテージに戻ると、二人でインスタントな夕食を食べる。
 本当は琴葉に何か作ってもらった方が絶対に美味しいのだが、もう多くは望まない。彼女と一緒に食事を摂れるだけでも、今の海殊にとっては幸せだったのだ。そうした食事をしている間にも、いつ終わるかわからないこの時間を少しでも良いから長引かせてくれと何かに祈っていた。
 ちなみに、春子には『今日は外泊する。琴葉も一緒だから心配しないでくれ』とだけメッセージを送ってある。今の彼女にとって『琴葉』が認識できるかどうかわからないが、これはせめてもの抗いだった。
 こうしてメッセージに残しておけば、琴葉という存在が残ってくれるのではないか、春子が琴葉を思い出してくれるのではないか……そんな淡い希望を抱いてのものだった。

「天気良いし、外出て見ない? 流れ星見えるかも!」

 二人ともシャワーを浴び終えて、夜の九時を過ぎたあたりだ。髪を乾かし終えた琴葉が、唐突にそんな提案をした。
 このあたりは一切の街灯がないので、コテージの電気さえ消してしまえば外の明かりは一切なくなる。山の上でもあるので、きっと夜空が綺麗に見えるだろう。

「お、それいいな。俺、流れ星見た事ないんだよ」
「実は私も。今夜見れるといいね」

 二人は笑みを交わし合って、電気を消してから外に出た。
 七月の下旬でもう夏なのに、外はクーラーが不要なくらい涼しくて気持ちが良い。都会人は田舎をバカにする傾向があるが、こうした空があるなら田舎も悪いものではないと思わされた。
 コテージの前の芝生に二人して並んで寝っ転がって、真っ暗な世界から夜空を見上げた。

「わ、ぁ……凄く綺麗」

 隣の琴葉が感嘆の声を上げた。

「ああ。凄いな。星に手が届きそうだ」

 海殊は無意識にその星空に向けて手を伸ばしていた。
 都会から見るより空が近くて、なんだかもう少し手が長ければその星が掴み取れそうな気分になってくる。夜空から星が降ってきている様にひとつひとつの星々がくっきりと見えていて、それぞれ輝いていた。

「あれがデネブでしょ? あっちがアルタイルで、それでこっち側にあるのがベガ」

 琴葉が夏の大三角をそれぞれ指差して言った。

「なんか昔流行った曲の歌詞みたいだな」

 海殊達が小学生くらいの頃に流行った楽曲だった。どこにいっても流れていたので、そのフレーズには聞き覚えがあったのだ。

「えへへ、バレた?」

 悪戯げに微笑んで、琴葉は海殊の手をそっと握った。その手を握り返して、夜空を眺める琴葉の横顔を盗み見る。
 琴葉はご機嫌な様子で、その楽曲の鼻歌を歌っていた。彼女の鼻歌を聞きながら、視線の先を横顔から夜空へと戻す。

「……私の事、もう全部判ってるんだよね?」

 鼻歌が途切れたかと思うと、琴葉が唐突にそう訊いてきた。

「いや……俺が知ってるのは、君が水谷琴葉じゃなくて、二年前まで同じ学年だった柚木琴葉って事だけかな」

 海殊は少し躊躇したが、そう答えて続けた。

「後は……その柚木琴葉が事故に遭って以降、ずっと眠り続けてるって事くらい」
「それ、殆ど全部知ってるって事だよ」

 少し茶化した様子で、琴葉が笑った。
 今もまだ右手には琴葉の手があって、彼女の感触がある。それにほっと海殊は小さく安堵の息を吐いた。この話題を出したからと行って、唐突に彼女が消えてしまうといった事はなさそうだ。

「いや、全然判ってないよ。お前がもし病院で寝ているなら……俺が毎日話していて、今こうして触れているお前は何なんだよ」

 ずっと心に秘めていた疑問を、遂に口に出す。
 これを実際に言うのは、少し勇気が必要だった。だが、琴葉からこの話題を出したという事は、もう話してくれる気になったという事だろう。
 琴葉は「ごめんね」と前置いてから続けた。

「何で私がここにいるのかは……正直、自分でもわからないの」
「わからない?」
「うん……ずっと、夢を見てて。毎日夢を見てて……でも、そうして夢を見る時間もどんどん減っていって。きっとこのまま行くと、私は消えちゃうんだろうなって……思ったの」

 琴葉曰く、事故に遭って以降は毎日眠っている時間と夢と現実の狭間の様な状態を交互に繰り返していたのだと言う。感覚的にいうと、ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返している状態が近いそうだ。
 レム睡眠の様な状態になった時、彼女は自分の意識や思考を自覚できて、自分が生きているのだと実感できたそうだ。その状態の時にはうっすらと母親の声が聞こえている事もあって、彼女なりに精一杯身体を動かして自分が生きている事を伝えていたのだという。
 しかし、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、眠ったままの少女は理解ができなかった。彼女にとってはそれが毎日の繰り返しで、時間の概念もなかったらしい。
 しかし、ある時を境に、そんな彼女の毎日に異変が生じた。所謂意識がある状態の時でも、その意識に白い靄(もや)がかかり始めたのだ。その靄は日に日に濃くなっていき、それが濃くなるにつれ、自分の意識がどんどん薄れていくのを感じたのだと言う。
 海殊はその話を聞きながら、それが明穂の言う『容態が悪くなってきた』状態なのだろうな、と察した。

「それで……私、願ったの」
「願った?」
「うん……もう少しだけ時間が欲しいって。ほんの少しでいいから、希望を下さいって……強く、神様に念じたの」

 そう念じて強い光を感じた後、気付くとあの場所にいたのだという。即ち、海殊と出会ったあの公園だ。海殊が彼女に話し掛けたのは、それから間もない事だったらしい。
 そこで彼女は初めて自分がこの世界に存在していて、誰かに認識された事を実感したのだそうだ。

(そっか……それで、あの時泣いてたのか)

 初めて琴葉と話した日の事を思い出して、納得する。
 彼女は海殊に話し掛けられると、唐突に涙していた。当時はその理由がわからなかったが、今ならわかる。あれこそが自分が誰かに見えていて、誰かと接する事ができると実感できた瞬間だったのだ。
 夢だと思っていた事が、夢ではなかったと実感できた時だったのである。

「それで……実はね、今私はこっちで起きている時に寝ていて、こっちで眠るとあっちで起きているの」
「え? どういう事?」
「つまり……解りやすく言うと、ノンレム睡眠の時が今の私って事」

 琴葉の説明によると、こちらで起きている時は本体が寝ていて、こちらが寝ている時に本体が起きているのだという。

「だから、こっちの体が目覚める度、毎日安心して泣きそうになってた。まだ私はここにいていいんだって……でも」

 最近になってまた靄が濃くなったの──琴葉はそう付け足した。
 彼女自身、どういう原理でこの現象が起きているのかはわかっていない。いわば、これは完全な奇跡だ。だが、その奇跡もいつまでも続くわけではない。この靄の存在が、彼女にそれを教えていた。
 靄が濃くなっていって、彼女の本体の意識が薄まれば薄まっていく程、こっちの身体が弱っていくのだという。それが顕著となったのがここ数日だ。
 靄が濃くなると、琴葉から遠い順──親しくない順──に見えにくくなっていって、覚えている人も徐々に少なくなっていった。そして、遂には今日、よく話していた祐樹達や春子にも見えなくなり、彼らの記憶からも消えてしまったのである。

「でも、今のお前は少し調子が良いじゃないか。回復している兆しなんじゃないか?」

 駅を降りてからくらいだろうか。琴葉の調子は、今朝よりも大分良くなっていた様に思う。
 森の中の獣道も普通に歩けたし、握力も戻っている。朝は手を握り返す事すら殆どできていなかったが、今ではしっかりと手を握り返してくれている。海殊からみれば、回復している様にも思えるのだ。
 しかし、琴葉は首を横に振る。

「多分ね……今は、風前の灯火なんだと思う。もうすぐ消えちゃうってわかってるから……もう後先考えずに、海殊くんとの時間を楽しみたいって。それが今の私が、一番したい事なんだと思う。でも……」

 そこで、ぐすっと鼻を鳴らしたかと思うと、声が潤んだ。

「琴葉?」

 慌てて身体を起こして隣を見ると、そこには泣きじゃくる琴葉の姿があった。

「海殊くんに忘れられるのは、やだ……やだよ」

 涙声でそう言った時、遂には我慢の限界に達したのだろう。琴葉は海殊の身体に縋りつく様にして、啼泣(ていきゅう)した。
 誰かの記憶から抜け落ち始めた時から、そして誰かの視界に映らなくなり始めてから、彼女はずっとそれを恐怖していたのだろう。誰に言えるわけでもない。もし海殊に言おうものなら、それは自分がこの世ならざる存在だと言ってしまう事になる。
 その間、本体が弱っていくのを感じながら、そしてこちらの自分の存在が薄れていくのを感じながら、その恐怖に耐えていたのだ。たった独りで、その孤独と恐怖に耐えていたのである。
 そして、今……それを話したのはきっと、いつまでこの姿を保っていられるのか、彼女自身もうわからないからだ。

「嫌だ……そんなの嫌だ! お前の事、忘れたくねえよ……!」

 海殊の瞳からも涙が零れ落ちていた。ただその細い体を抱き締めて、彼女の体温を感じて、例え無理だとわかっていても、その存在を脳裏に刻む事しかできなかった。

「こんなに誰かの事を好きになったのなんて、初めてなんだ……ずっと一緒にいたいって思ったの、初めてなんだよ。なあ琴葉、頼むよ……傍に、いてくれよ」

 無理だとわかっていた。
 なぜなら、今ここにいる琴葉は……本当の琴葉ではないからだ。人ならざる者によって奇跡が(もたら)されて、夢の中の彼女が現れているだけに過ぎないのである。

「私だって……忘れて欲しくない。離れたくない。こんなにも海殊くんの事、好きなのに……大好きなのに!」

 琴葉は海殊の首根っこに腕を回して、哭しながら続けた。

「好きな人と過ごせる毎日を手に入れたのに……こんな夢みたいな生活を手に入れたのに。どうして私だけこうなるの……!? どうして……? ねえ、誰か教えてよ……!」

 流涕(りゅうてい)しながら誰かに哀訴する琴葉を、海殊はただ抱き締めてやる事しかできなかった。自身も落涙で咽びながら、ただ泣きじゃくる彼女の髪を撫でてやる。ただただ己の無力さを呪う事しかできなかった。
 だが、人なる者に人ならざる者の事などわかるはずがない。ましてや、どの様な原理で彼女がここにいるのかさえわからないのだ。不条理の中にある不条理など、誰に訴え掛ければいいのかさえわからない。
 二人は互いを抱き締め合いながら、この不幸を呪い、歔欷(きょき)するしかなかったのである。夏の夜空の下、二人はそれから暫く啼泣していた。それ以外に何もできる事がなかったからだ。

「ねえ……海殊くんは、誰かとキス、した事ある……?」

 二人の啼泣がすすり泣きに変わった頃だった。琴葉が顔を上げて、海殊に訊いた。

「……あるわけないだろ。年齢=カノジョいない歴だぞ」

 そう言ってやると、彼女はくすっと笑った。

「よかった……私も同じ」
「知ってる。本の中の恋愛にしか興味なかったんだろ?」
「もう。人の過去を詮索しないでよ。恥ずかしい」

 琴葉は少し怒った顔を作ったものの、すぐに顔を綻ばせた。

「何かの本で読んだけど、男の子ってファーストキスの相手は一生憶えてるっていうじゃない? あれってほんとかな……?」
「さあ……」

 海殊は何も返せなかった。したことがないのだから、わかるはずがない。
 だが、その話は海殊もどこかで聞いた事があった。何かの小説だったかもしれないし、映画かもしれない。或いは、別の媒体の可能性もある。

「じゃあさ……試してみない?」

 涙で潤ませた瞳で、おそるおそる琴葉が上目で海殊を見つめて言った。

「試す?」
「うん。ファーストキスの相手なら忘れないのかどうか……私達で試してみるの」

 まるで、子供みたいな提案。藁にも縋りたいというのは、まさしくこういった状況を指すのだろう。今の彼らにはそんな事しか縋れるものがなかったのだ。

「こんな可愛い子と初めてのキスをしたら、忘れるわけがない」
「ほんとかなぁ」
「絶対に忘れない。絶対だ」

 琴葉の目を見据えて、しっかりとそう宣言してみせる。
 無駄な抵抗かもしれない。その時がきたら忘れてしまうのかもしれない。だが、何か一つでも強く印象に残る事があれば、覚えていられる可能性もあるのではないだろうか。それならば、その一縷の望みに賭けてみたい。
 いや……そうではない。海殊はただ、彼女と過ごした証が欲しかったのだ。彼女と過ごしたこの時間を覚えていたいし、彼女が存在した証が欲しいのである。
 目を合わせて、お互いに相手をじっと見つめる。
 夏の夜空がその綺麗な瞳に反射しいていて、いつも輝いている瞳がより輝いて見えた。
 どちらともなく顔を寄せて……二人の唇が重なる。一度してからは、止まらなかった。何度も何度も唇を重ね合わせて、記憶の隅々にまでその存在を刻み込んでいく。
 初めてのキスの味は、予想外にしょっぱかった。二人の涙がまじりあっていたせいだ。
 だが、それでも二人の口付けは止まらなかった。一回一回のキスの味、感触、息遣い、体温、それら全てを脳裏に刻んで行く。
 それから暫くの時を経て、唇を離した時に、琴葉は涙を流しながらこう言った。

「私の事……ちゃんと憶えててね?」
 翌朝──海殊が目覚めると、そこはコテージの中だった。
 周囲を見渡しても、人がいる気配はない。寝具は海殊が寝ていた分だけが敷かれていて、もう一人の分は一式綺麗に折り畳まれていた。

「あ、れ……? 何で俺、こんなところにいるんだ?」

 自分の記憶を整理してみるが、どうして自分がここにいるのか、よく覚えていなかった。
 確か昨日は、終業式のはずだ。だが、登校中に何か嫌な事があって、出席せず家に帰ったのである。そして帰宅後、春子にも何か不愉快な気持ちを抱いて、そのまま家を出てこのコテージに来た──という事までは覚えている。
 だが、その肝心な部分が思い出せない。

(待て……俺は、一体何にあれだけ怒っていたんだ?)

 これまで真面目一貫で優等生をしてきた海殊である。ちょっと嫌な事があったくらいで学校を休んだり、ましてや春子に怒りを覚えたりするはずがない。
 だが、それなのに、その肝心な部分──何に怒りを覚えたかについては一切思い出せなかったのだ。それにも関わらず、どうしてか家を飛び出し、そのまま電車の下り方面に乗って、ここのキャンプ場に辿り着いたのは覚えている。
 このキャンプ場では、探検したり夜空を見上げたりして、とても楽しかった記憶がある。そして、その後にとても悲しい気持ちになった事も、覚えていた。
 しかし──それが何に対して、誰に対してそれらの感情を抱いたのか、という記憶は綺麗さっぱり抜け落ちていた。
 釈然としないまま海殊は起き上がると、布団を畳んで部屋の隅の布団の横に並べる。
 それからもう一度記憶の断片を取り戻すべく、コテージの中を見て回った。
 部屋の中は綺麗に片付けられていて、それはまるで誰かが掃除をしてくれた後の様であった。無論、海殊にはそれらを掃除した記憶はない。
 念の為ゴミ箱の中を覗いてみたが、そこには昨夜食べたであろうスナック菓子やカップラーメンの容器があっただけだった。

(あれ……?)

 海殊はそのゴミ箱の中に何か違和感を感じて、ゴミを取り出した。
 そこには、一人で食べる分には些か多いスナック菓子と、二人分のカップラーメンの容器と割り箸。そして、海殊が好まない様な甘いお菓子もあった。

「これを、食ったのか? 俺が……?」

 甘くて避けていたお菓子の袋を見て、愕然とする。
 海殊からすれば、何かゲームで負けた際の罰ゲームでないと食べないようなお菓子だ。だが、彼の靄がかかった記憶の中にも、お菓子やカップラーメンを食べた記憶が微かにある。おそらく、この甘いお菓子も食べたのだろう。

「おいおい、勘弁してくれよ……この年で記憶障害は堪ったもんじゃないぞ」

 海殊はぼやいて洗面台に行くと、そこにはアメニティの歯ブラシが"二本"置かれていた。どちらも使用済で、そのうちの一本昨夜は自分が使った事で間違いない。だが、もう一本は……?
 先程から、そこかしこにある違和感。それは海殊以外に誰かがいたのではないか、と思わされるものだった。
 だが、海殊の記憶には一人でこのコテージに来た記憶しかないし、一人で過ごした記憶しかない。
 何とも気持ちの悪い感覚だけが、彼の周囲に残っていた。その気持ち悪さは決して気味の悪さではなくて、『何かが足りない』というモヤモヤとした何かだった。自分にとって大切なものが欠けている気がしてならないのだ。
 スマートフォンの記録を辿ろうにも、電池が切れてしまっていて、うんともすんとも言わない。充電器が入っている学校の鞄を家の玄関に叩きつけてそのままここに来てしまったので、充電できなかったのだ。
 仕方なしに帰り仕度をして、そのままコテージを後にする。代金は昨日に払ってあるので、もう帰るだけだ。
 駅までのバスが運よく来ていたので、それに飛び乗って山を後にする。
 バスの中から見る景色は、どこか虚しかった。寂しくて胸が痛くなる。だけれど、どうして自分がそんな気持ちになるのか、海殊にはさっぱりわからなかった。
 それに、行きのバスでは楽しかったのを覚えている。これで人の目を気にせずとも良い、と気楽に"笑い合っていた"記憶があった。

(待て……俺は、誰と笑い合っていた?)

 昨日、このバスには誰かと乗っていた気がする。しかし、それが誰だか思い出せない。

(地元の子と仲良くなった、とかか? それで、コテージで遊んでいた、とか?)

 そう考えて、待て待て、と自分の思考を否定する。
 そう、彼の記憶には、昨日一人で過ごした記憶しかないのだ。だが、その記憶はとてもあやふやで、まるでキツネにつままれたかの様な気分でもあった。
 記憶はないのに、誰かと過ごしていた形跡と感覚が、海殊の中には確かにあるのだ。

(神隠しに遭った気分ってのは、こんな感じなのかな)

 結局、バスの窓から景色を眺めていても、記憶の手がかりは一切なかった。ただ虚しい気持ちと喪失感、それとはっきりしないモヤモヤだけが彼の中に残っていた。
 それは家に帰るまでの電車の中でも同じだった。ただただ何かが欠落した感覚と、どこか悲しい気持ちだけが胸を締め付けていた。
「あれ、あんた一人だったの?」

 昼頃に家に着いて玄関扉を開けると、仕事の準備をしていた春子がやや驚いた声を上げた。

「え? そうだけど……?」
「だってあんた、昨日どこかに誰かと泊まりにいくって連絡寄越してたじゃない。電話にも出ないし、心配したんだから」

 スマートフォンを持って、少し怒った様にして春子が言った。
 そうだ、とそこで海殊は思い至った。昨日に母を心配させないようにメッセージを送ってあったのだ。
 そこに何かの答えがあるのかもしれない。今朝からずっと抱いている違和感の答えが。

「それ! それ、なんて書いてあった!?」
「ちょ、ちょっと……どうしたの、ほんとに」

 息子が血相を変えて詰め寄ってくるので、春子は無意識に身体を仰け反らせてスマートフォンを引いた。

「俺、昨日なんて送った!?」
「なんて送ったって……あんた、自分のスマホ見ればわかるじゃない」

 呆れた様な、訝しむ様な表情をしつつ、春子がパスコードでロックを解除してメッセージを見せてくれた。
 そこには『今日は外泊する。●▲も一緒だから心配しないでくれ』とだけ記載があった。確かに自分が送ったものだし、何となくこれを送った記憶もある。
 しかし、肝心の名前の箇所だけ文字化けしており、それが誰かは読み取れなかった。

「今朝見たら、なんか名前のとこだけ読めないから余計に心配になっちゃって。でも、昨日これを見た時は全然何も思わなかったのよね。なんでかしら?」

 春子は首を傾げて、怪訝そうにしている。
 おそらく、海殊が抱いている違和感に近いものを彼女も抱いているのではないかと思わされた。そう思った時──

「にゃー」

 居間の方から、可愛らしい愛玩動物の鳴き声が聞こえてきて、とことこと海殊の方まで歩いてきた。
 今月から買い始めた子猫の〝きゅー〟だ。

「あ、きゅー。どうした? ご飯か?」

 海殊は撫でようと屈んで手を差し出すが、海殊の横を素通りしていって──彼の少し後ろの(くう)にすり寄った。

「全く……全然俺には懐いてくれないな」

 どうしてか唐突にぺろぺろと(くう)を舐めているきゅーを見て、嘆息する。
 こいつは男にはあまり懐かないのだ。海殊に寄ってくる時は腹が減っている時だけである。

「ってか、何で猫飼い始めたんだっけ?」

 ふと思い立って、春子に訊いた。
 春子が猫を飼いたがっていたという話を最近になって知ったが、その関係で拾ってきたのだろうか。いまいち、このきゅーを飼い始めた経緯についても記憶があやふやだった。

「はあ? あんたが捨て猫を拾ってきたんじゃない。雨の日に、川に流されそうだったからって」
「え? ……あ、ああ。そういえば、そうだった」

 春子の言葉で、その日の出来事を思い出す。
 確か台風が来るか来ないかといった日で、この子猫が川に流されそうになっているところを海殊が飛び込んで助けたのだ。

(いや……そうだったか?)

 その時の光景を思い出していると、自分以外にも誰かがいたような気がした。
 そもそも、台風で水位が上がっている川に飛び込む様な真似は海殊ならばしない。彼にそれをさせるだけの別の事情があったはずだ。

(……だめだ、さっぱり思い出せない)

 相変わらず、記憶に靄が掛かっていて肝心の事が思い出せない。
 何か掴めそうだと思ったのに、その記憶がするりと手から抜け落ちていく感覚。今朝からそんな事ばかりが繰り返されていて、さすがに辟易してくる。
 とりあえず手と顔を洗おうと洗面台に行くと、そこには見慣れない歯ブラシやコップがあった。明らかに若い女の子が使う様なファンシーなものだ。
 それだけでなく、部屋の隅々にも見覚えのない小物がちらほらある。これも海殊や春子の趣味ではなかった。どちらかというと十代の女子が好みそうなものばかりだ。

「なあ、母さん趣味変わったの? さすがにちょっと若過ぎない?」

 海殊が洗面台に置かれていた歯磨き用のプラスチックコップを手に持って訊いた。
 可愛らしいファンシーな絵柄が描かれていて、ちょっと自分の親が使うにしては恥ずかしい。

「え、それあんたのじゃないの? あたしはそんなの使える歳じゃないわよ」

 春子が驚いて海殊を見る。その表情から見て、嘘やからかいではない事は明らかだった。

「……そう、だよな」

 海殊は納得しつつも、今日何度目かに味わう奇妙な感覚に苛立つ。

(何度目だよ、これ)

 誰かがいたかの様なコテージ、自分が絶対に食べないであろうお菓子に自分が送った謎のメッセージ、そして家の中の小物や子猫……自分達以外の誰かがいたかの様な痕跡がそこかしこにある。
 しかし、その全てがふわふわしていて、春子も海殊も思い出す事ができない。そして、それらの小物を見ていると、それだけで胸がきりきり痛くなって、切なくなってくるのだ。
 どうにもならない居心地の悪さだけが、海殊の胸の中を満たしていった。そんなモヤモヤを振り払おうと二階の自室に向かおうとした時──来客を告げるインターフォンが鳴った。

「あ、ごめん海殊。あたし今手が離せないから、ちょっと出ておいてー」
「……うい」

 化粧鏡の前で化粧をしている母の言葉に応えて玄関扉を開くと、そこにはクリーニングの配達員の姿があった。
 海殊は配達員からその品を受け取ると、眉を顰めた。

(……浴衣?)

 それは浴衣だった。一瞬配達間違いかと思ったが、宛名は滝川春子となっている。どうやら、春子が浴衣のクリーニングを出した事には間違いないらしい。
 それに、この浴衣は海殊も見覚えがあった。海殊でさえも見た事があるかどうか、というくらいに、若かりし頃の母が着ていた浴衣だ。保存状態がよかったのと、殆ど着られていなかった事から、まるで新品の様に綺麗になって返ってきている。

「なあ、母さん。何で浴衣?」

 コンシーラーを塗っていた母に、配達員から受け取った着物を見せて訊いてみる。
 春子は「え? 浴衣?」と驚いてこちらを振り向いて、海殊の手に持つものをまじまじと見つめた。

「あー……それ確かにあたしの浴衣よね。何で浴衣なんてクリーニングに出したんだろう? もうこんなの着れる歳じゃないのにね」

 春子は微苦笑を浮かべて「誰かに譲ろうとしてたのかしら?」と首を傾げた。
 どうやら、クリーニングに出した本人でさえも覚えていない様だ。

「ごめん、仕事から帰ってから仕舞うから、ちょっとテーブルの上に置いておいて。きゅーが届かないところにね」

 母の言葉に頷いて、その指示通りにテーブルの上に浴衣を置いた。
 だが、どうしてだろうか。
 この浴衣が届く事を、楽しみにしていた自分がどこかにいるのも事実だった。誰かがこれを着るのを楽しみにしていた自分が、確かにいたのだ。

(……ああ、もう。ほんとむしゃくしゃするな)

 海殊は大きく溜め息を吐くと、冷蔵庫の中の麦茶をラッパ飲みする事で、その苛々を沈めようと努めるのだった。
 それから間もなくして、春子は家を発った。
 母を見送ると、海殊は冷凍庫から作り置きしておいたチャーハンを取り出し、レンジで解凍して食べてから、自分の部屋に戻った。
 窓を開け放って、部屋の中の熱気を解放する。空気を入れ替えてから冷房を入れれば、すぐに快適な空間を作れるだろう。
 なんだか色んなものがモヤモヤしていて、気持ちが悪かった。ただ、色々不自然な事は起こっているものの、今日から夏休みである事には変わらない。受験勉強など諸々やる事は多いが、今日くらいはもう寝てしまおう──そう思ってベッドにどさりと寝転がった瞬間だった。
 窓の外から少し強い風が入ってきて、その拍子に勉強机から一枚の紙がひらりと床に落ちる。

(ん……?)

 見覚えがなかった上に、紙がカラフルだった事もあって視線が奪われた。
 その紙に妙に惹かれてしまい、身体を起こして手に取る。それは、今夜開催の花火大会のチラシだった。

(あ、れ……?)

 そのチラシを見た瞬間に、誰かの声が聞こえた気がした。

『えっと、じゃあ……』

 誰かがきゅーを降ろしてこのチラシを持ってきて、彼にこう言ったのだ。

『これ、行きたい』

 その言葉と声が脳裏を()ぎった瞬間、頭の中で欠けていたピースがハマっていく。記憶と"ある少女"の面影が紐づいて、鮮明に"彼女"の面影が蘇った。彼女の名前を思い出したのはそれと同時だ。

「──琴葉!」

 "愛しい人"の名前を呼んでドアの方を振り返ると、そこには寂しげに笑う琴葉の姿があった。何かを諦めた様な、でもそれを受け入れるかの様な笑みだった。
 琴葉の足元には、きゅーが擦り寄っている。彼女はずっと……海殊の後ろにいたのだ。

「お前……ずっと、一緒にいたのかよ」

 海殊が言葉を絞り出すと、琴葉は相変わらず微笑んだまま頷いた。
 その瞬間、海殊は自己嫌悪で死にたくなった。昨夜の誓い、いや、ここ数日彼女を想っていた自分を自分が全否定してしまった様に感じてしまったのだ。自分自身を殴れるのなら全力で殴り飛ばしたかった。

「ごめん……ごめん琴葉! 俺、お前の事忘れないって……昨日の夜誓ったばっかなのに!」

 海殊は琴葉を抱き締めて、涙ながらに謝罪をした。
 自分が最低に思えてならなかった。最低だと彼女に罵倒して欲しかった。
 だが、彼女は柔和に微笑んだまま、首を横に振る。

「仕方ないよ……これは自然な事だから」

 でも、と言葉を区切らせてから、琴葉は鼻を鳴らして海殊の胸に顔を埋めた。

「想い出してくれて……ありがとう」

 涙声で、絞り出す様にして彼女はそう呟いた。
 海殊は自らも涙を流しながら、そんな彼女を力強く抱き締めてやる事しかできなかった。
 本当なら存在しないはずの声、身体、そして体温……きっと、そう遠くない未来に今朝と同じ事が起こるのは明白だ。その時が来たら、祐樹達や春子の様に、海殊も琴葉の事を綺麗さっぱりと忘れてしまうのである。それをまざまざと見せつけられた気がした。

「お前との……琴葉との、デートの約束の日なんだ。忘れて堪るかよ……花火行こうって、約束したじゃねえか……!」

 琴葉はすすり泣きながら、海殊のその言葉に何度も何度も「ありがとう」と御礼を言った。
 しかし、何も礼を言われる事ではない。好きな子から花火大会に行きたいと言われて、それに一緒に行きたいと思っただけだ。高校生同士の惹かれ合う男女として、当たり前の約束をしたに過ぎない。きっと、今夜の花火大会に訪れる多くのカップルと同じ理由だ。その過程とその後に訪れる結果が、少し違うだけである。
 それから夜の花火大会までは、ずっと二人でくっついたまま過ごした。二度と見失わない様にしっかりと手を繋いで、ただ海殊の部屋でぼんやりと身を寄せ合う。
 よくある質問で『もし世界が明日滅びるなら何をする?』というものがある。物語の中だけでなく、テレビ番組や日常の話題でもこのトピックはなくならないところを見ると、人類にとっての永遠の疑問なのだろう。
 美味しいものを食べたい、お金を使い切りたい、映画や音楽などを見尽くしたい、趣味に没頭したい、家族と過ごしたい、恋人と過ごしたい……千差万別の答えがそこにはあるだろう。
 しかし、それぞれが"今"思い浮かぶ答えをその日に実行しているかと言われると、謎である。
 そんな中、海殊はその答えを"今"自分で出していた気がした。
 きっと、彼は世界が滅びる最後の一日を、琴葉とこうして手を繋いで過ごすのだろう。何かを語るわけでもなく、何かをするわけでもない。ただその存在を感じ取っていたくて、最後の瞬間まで一緒にいたくて、彼女と身を寄せ合っているに違いない。
 なぜなら……今、彼らはその世界の終わりを経験しようとしているのだから。
 海殊と琴葉の世界は、もうすぐ終わる。それを、二人ともが実感していた。
 もしここにいる彼女の存在が消えてしまえば、おそらく海殊の記憶からは彼女が消える。そして、彼女の意識が完全に戻らぬものとなれば、それは記憶していないに等しい。
 二人の記憶から互いの記憶が消えてしまうのであれば、それは死に等しいのではないか。

『人のアイデンティティはどこにあるのか?』

 世界最後の日の問いと同じく、これもよく出る話題だ。海殊はその問いの答えも今見つけた様に思う。
 人のアイデンティティ……それは、記憶だ。
 人は記憶があるからこそ、その存在を認知できる。誰かの記憶に残っているからこそ、アイデンティティを見い出せるのだ。
 もし、全ての人の記憶から消えてしまったならば、それこそが本当の意味の死だ。あらゆる人の記憶から消えた瞬間に、その人の存在は消えてしまう。
 そして今、世界は彼女の記憶を消そうとしている。存在を消そうとしている。
 海殊が出会った琴葉という女の子を……否定しようとしているのだ。

(ふざけるなよ、ちくしょう!)

 海殊は琴葉の手を強く握って、手の感触と手のひらから伝わってくる体温を感じながら、部屋の天井を睨みつけた。

(例えお前が琴葉を拒絶したとしても……俺だけは絶対に忘れない。こいつの存在を、消すわけにはいかない。俺にとって何よりも大切なこいつを……消されて堪るか!)

 一度手を離して、琴葉の小さな頭を自分の方に抱え込む。
 柔らかくてサラサラした髪の感触を脳裏に刻み込む為に何度も撫でて、その香りをも忘れない様に鼻腔へと流し込んでいく。
 琴葉はくすぐったそうにしていたが、海殊の方に身体を擦り寄せる事で彼の気持ちに応えていた。
 日が暮れるまで、二人はずっとそうして互いの存在を感じ合っていた。
「……似合ってる?」

 琴葉は自分の姿を全身鏡で見ながら、海殊に訊いた。
 そこには春子の浴衣を身に纏った琴葉の姿があった。淡い青色を基調とした、シャボン玉風の模様がある浴衣だ。
 シャボン玉が描かれているものの、決して子供っぽくなく大人仕様なデザイン。まだ高校生の琴葉には少し大人っぽ過ぎるのではないかと思ったが──髪を結ってうなじを出せば、恐ろしいほどの色気が出ていて、思わず固唾を飲んでしまった。

「もう。ぼーっとしてないで何か言ってよ」

 見惚れて言葉を失っていた海殊に、琴葉が呆れた様にして言った。

「ご、ごめん。あんまりにも可愛過ぎてさ……」
「ほんと?」
「この世界に誓って」
「うわあ。海殊くん、ちょっと気障(きざ)だよ」

 そうして茶化しているものの、琴葉は顔を少し赤らめて嬉しそうにはにかんでいた。どうやらその気障な言い回しが気に入っているらしい。

「じゃあ、行こうか。穴場スポットまで少し距離があるから、そろそろ出ないと」

 海殊は壁に掛けられた時計を見て言った。
 花火の打ち上げまでにはまだ時間があるが、穴場スポットまでは少し距離がある。先程調べた感じでは、軽く一時間弱程はかかりそうだ。

「忘れ物はないか?」
「うん」

 琴葉が元気に頷いて、手に持った巾着袋を見せた。
 この巾着袋も春子の浴衣セットの中に入っていたものだ。あとは、浴衣の色に合わせた草履を履けば問題ない。
 草履を履いてから家を出る前に、きゅーが玄関まで見送りにきた。心なしか、寂しそうにみゃーみゃー鳴いている。
 琴葉は一瞬泣きそうな顔になると、それを隠すようにきゅーを抱き上げて頬擦りした。

「元気でね……きゅーちゃん。ちゃんと海殊くんとも仲良くね?」

 そして、涙声でそう呟く。それはまるで永遠の別れの様な言葉だった。
 海殊はその言葉には気付いていたが、何も触れなかった。いや、触れたくなかった。二人の世界が終わる事など、信じたくなかったのだ。
 別れを済ませた琴葉はきゅーをゲージに入れると、そっと海殊の手を握ってきた。そのまま二人して、手を繋いだままスポットへと向かう。
 道中の会話は何もなかった。
 ただ迫りくる世界の終わりを覚悟する様に、ただ死を待つ様に、その時を待つ。
 こうして手を繋いでいられるのは、あと何時間くらいなのだろうか。それとも、もう一時間もないのだろうか。
 海殊にはわからなかったが、琴葉の方は自分の身体の事なので何となくわかるのだろう。先程よりも海殊を握る手に力が入っていた。
 穴場スポットは本当に穴場というべき場所で、少し行き難い場所だった。車も入れないし、少し山道を登らないといけないしで、浴衣の琴葉は少し大変そうだった。

「足、大丈夫か?」
「うん。草履だから助かっちゃった」

 琴葉の足場を気にしてやりながら、ゆっくりとその山道を登っていく。
 二〇分程その山道を登った頃だろうか。ようやくスマートフォンの地図マップが目的地の到着を告げた。
 その場所はまさしく穴場スポットというべき場所で、街を見渡せる高台にあって、山の中にある木々の隙間から花火の全景を見れる様になっていた。行き難い場所であるからかして、周囲にも人がいない。まさしく、二人きりの場所だ。

「着いたね」
「ああ。打ち上げ時間にギリギリ間に合ったってところかな」

 スマートフォンのデジタル時計を見ると、打ち上げ時刻の五分前だ。
 海殊がシャツで汗を拭っていると、琴葉が巾着袋からハンカチを出して、海殊の首元に当ててくれた。
 俺の事はいいから自分を、と言いかけてから、彼女を見てその言葉を押し留める。
 琴葉はもう、汗すらかいていなかったのだ。
 今は七月の下旬で夕方と言えども気温も高い。結構な山道を登ってきたので、汗をかいていない方がおかしいはずだ。それにも関わらず、彼女の表情は涼しげで、その涼しげな様子は彼女がこの世ならざる者である事を証明している様でもあった。

「お水、飲む?」

 巾着袋から小さなペットボトルを取り出して、訊いてくる。
 海殊は「ありがとう」と言ってそれを受け取って半分ほど飲んでから返すと、彼女もそのペットボトルに口をつけてこくこくと飲んでいた。
 その水を飲み終えると、巾着袋の中にペットボトルを仕舞ってから、もう一度海殊の手を握った。

「暑いね……」

 そう呟く彼女は、どこまでこの蒸し暑さを感じているのだろうか。
 その涼しげな横顔からは、もうそれさえもわからない。ただ、繋いでいる手からは熱が感じられた。
 まだ彼女はここにいる。それは間違いなかった。

「私ね、夏ってほんとはあんまり好きじゃなかったの」

 遠くから花火開始のアナウンスが聞こえてくると、琴葉が話し出した。

「え、何で? 水泳得意なんだろ?」
「水泳が得意だからって夏が好きとは限らないよ」

 琴葉は呆れた様な顔をして、眉を下げた。

「それに、泳ぐのが得意だったってだけで、競技としての水泳が好きかっていうとそうじゃなかった気もするし」

 だから高校は水泳部がないところに入ったんだと思う、と彼女は付け足した。
 海殊達が通う高校にはプールがないので、水泳部どころか水泳の授業もない。高校では水泳を続ける気がなかったのだろう。

「で? 何で夏があんまり好きじゃなかったんだ?」
「だって、暑いんだもん」

 そのままの理由過ぎて海殊がぷっと吹き出すと、琴葉もくすくす笑っていた。

「でも……今は夏が好き。こんな風に暑さを感じられるのも、暑いって思えるのも……それは意識があるからなわけで。本当の私は、もう暑さも寒さも感じられないから」

 海殊が彼女の名を呼ぼうとした時に、花火が上がり始めた。
 夏の夜空に火の華が打ち上がって、「わあ、始まったよ」と感嘆の声を上げて海殊の方を向いた。その瞳は輝いていて、本当に夏が好きになったというのが伝わってくる。

「それに……好きな人と過ごせた夏は、凄く素敵だったから。これで暑いのがやだって言ってたら……罰当たりだよ」

 琴葉は穏やかに微笑んでから顔を伏せると、海殊の腕に自分のそれを絡ませた。

「海殊くんはね……私にとって救世主だったよ」
「大袈裟だな。俺はただの高校生だぞ」

 琴葉は小さく首を振ると、「そんなことない」と花火をその瞳に映しながら言った。

「何の説明もなくこの世界に放り出されて途方に暮れてたところに、手を差し伸べてくれたんだもん。それからも親切にしてくれるし、困ってたら助けてくれるし……好きになるなっていう方が、無理だよ」
「俺だって……何の下心もなしに、手を差し伸べたわけじゃないよ」

 海殊がそう返すと、「そうなの?」と琴葉は少し驚いてから「それは……ちょっと嬉しいかも」とはにかんだ。

「初めておうちに行った時……本当は凄く緊張してたんだよ? 男の子の家なんて初めてだったし、おばさんにどう説明するんだろうとか、私は他の人に見えるのかなっていう不安とかもあったし……でも、おばさんも優しくて、あったかくて……」

 一瞬だけ言葉が途切れて、彼女が小さく鼻を鳴らした。

「それから毎日一緒に登校したのもね、ほんとは全然慣れなくて。毎日毎日、ドキドキしてた。もし海殊くんと出会ってたら、こうして海殊くんと高校生活送って、好きな本について語り合ってたのかなって思うと、それだけで嬉しくなったし、同時にもうその未来はないんだって思うと……すっごく寂しかった」

 花火は今も夜空に華を咲かせていた。
 どんどん、と低音が大気を震わせて、心臓までその振動が伝わってくる。
 海殊は言葉を返さなかった。いや、返せなかった。何か言葉を発すると、それだけで泣いてしまいそうだったからだ。
 琴葉が我慢しているのに、自分が泣くのはあんまりだ。それはカッコ悪い。海殊は何とかそう自分に言い聞かせて、彼女の言葉に耳を傾ける。

「毎日一緒の家から出て、帰って、一緒に買い物に行って献立考えて……何だか、同棲カップルみたいだなって思って毎日私がドキドキしてたの、どうせ海殊くんは気付いてなかったんでしょ?」
「まあ……うん」
「鈍いもんね、海殊くん」
「ごめん」

 本音を言うと、それは海殊も同じだった。
 唐突に現れた下級生の女の子と毎日一緒に暮らす事になるなど、誰が予想しようか。だが、その生活はドキドキと同時に満ち足りた何かを海殊に(もたら)していたのも事実だった。生まれてからずっと春子と二人だけの生活をしてきたが、そこに初めて彩りが訪れたのである。

「海殊くんとの初デートも……すっごく楽しかった。ちゃんとプラン考えてくれてて、下見までしてくれて……一生懸命考えてくれてるのが伝わってきて、初めて手繋いだ時なんてほんとに幸せだったんだから」

 後半になると、もう涙声になっていた。
 鼻もぐずぐず言っていて、きっともう落涙しているのだろう。それを見ると海殊も我慢できなくなってしまうので、何とか花火を見てやり過ごす。
 だが、いつしかその花火もぼやけはじめていて、夜空を彩る華を楽しむのも難しそうだった。

「きゅーちゃんを助ける為に川に飛び込んでくれたのも、本当の私の事を知ってからも気付いてないふりしてくれてたのも、嬉しかったよ? 海殊くんと出会ってから毎日が幸せで……幸せだから、終わって欲しくなくて。もっと海殊くんと一緒に過ごしたくなっちゃって……」

 琴葉の肩が震えて、俯いたまま繋いでいない方の手の甲で目元を覆った。
 その様子を横目で見た時、海殊の瞳からも堪えていたものが零れ落ちた。
 きっと、もう時間がないのだ。それは身体の持ち主である彼女が一番自覚しているのだろう。それが彼女の手のひらを通して伝わってくるのが、何よりも切なかった。

「海殊くんと一緒に海に行ってみたかった。二人で花火もしたかった。体育祭で海殊くんの応援したかった。文化祭も一緒に回りたかった。紅葉も見に行きたかったし、ハロウィンで一緒に仮装もしてみたかった。雪が降ったら一緒に遊んで、クリスマスは一緒にプレゼント選び合いっこしてケーキを食べて……他にも、バレンタインとかお花見とか……たくさん、したかった事あるのに! もっともっと一緒に色んな事したいのに!」
「琴葉!」

 海殊は正面から向き合うと、彼女を力一杯抱き締めてその名を叫んだ。
 もう我慢などできなかった。感泣しながら彼女を抱き締めて、ただその存在を感じてやる事しか彼にはできなかったのだ。

「俺も同じだよ……! 俺だって、同じ気持ちなんだ。お前としたい事を並べれば、キリがない」

 泣きじゃくる琴葉を抱き締めながら、海殊はそう彼女の耳元で言った。
 何も特別な事などなくてよかった。ただこれまでの様に毎日を琴葉と過ごしたかった。毎日顔を合わせて、一緒に登校して、一緒にお昼や放課後を過ごして、どこかに出掛けたい。それだけだ。それ以上の事など何も望んでいない。
 だが、もうそれすら叶わなくなる。

「海殊くん……好き、大好き……! 離れたく、ないよぉ……」

 琴葉も海殊を抱き締め、必死に気持ちを伝えてくれていた。
 どうにもならない願い。離れないどころか、ただ好きでいる事さえ許されない関係、いや、いつ両者から互いの存在が消えてしまうのかわからない関係……それが海殊と琴葉の関係だった。
 二人共それがわかっていた。だからこそ抱き合いながら、涙を流す事しかできなかったのだ。
 夜空には今もたくさんの華が上がっていた。その低音とパチパチと火花を散らす音が、二人の歔欷(きょき)の声を掻き消していく。
 それから三〇分ぐらい経過した頃、花火会場からは最後の大玉のアナウンスがなされていた。

「次、最後だから……最後の花火くらい、一緒に見よ?」

 琴葉は少しだけ身体を離して言った。
 相変わらず涙声だが、少しは落ち着いている様子だった。

「そうだな……ってか、全然花火見てなかったな」
「ほんとだよ。花火見る為にこんなところまで来てるのに」

 二人は泣きはらした顔で笑みを交わすと、花火が打ち上がる方角へと身体を向けた。
 手はしっかりと繋がれたまま、夜空へと視線を送る。

「昨日の言葉、撤回するね」

 その姿勢のまま、琴葉が唐突にそう言い出した。
 何を、と訊き返そうとして彼女の方を向いた時──海殊は言葉を失った。
 そこにあったのは、あまりに綺麗な笑顔だったのだ。
 きっと、どんなに凄い花火よりも綺麗で儚くて、この世界の『美しい』をどれだけ集めてもこの笑顔には劣るだろうと思えてしまう程の、笑顔。それはきっと、花火の様に散る寸前だからそう見えてしまうのだろう。それを本能的に感じ取ってしまって、再び海殊の瞳からじわりと涙が込み上げてくる。

「私の事は……もう忘れていいよ」

 彼女は瞳から涙を零しながら、こう続けた。

「大好きだよ、海殊くん。幸せになってね」

 彼女がそう言った時に、最後の花火が上がった。そして、その花火が夜空に今夜一番の華を散らした瞬間──先程まで手の中に握られていたものがなくなって、ぽとりと何かが落ちる音がした。

「え……?」

 咄嗟に隣を見ると、そこには"誰か"が持っていたであろう巾着袋だけが、地面に寂しげに取り残されていた。
 周囲を見渡しても、人の姿はどこにもいなかった。海殊は山の中で一人で花火を見ていたのだ。

「あ、ああっ……」

 それを認識した時、海殊はわけもわからず泣き崩れてその巾着袋を抱き寄せた。
 自分の隣に誰かがいた事だけは、何となく覚えていた。その人の事がとても大好きで、とても大切で、きっとずっと一緒にいたいと思っていたはずだ。
 だが、海殊の頭からはその人の事だけがすっぽりと抜け落ちていて、もう顔も思い出せなかった。
 ただただ、悲しい。寂しい。その感情だけが海殊を襲い続けて、泣いている間に何が悲しいのかもわからなくなっていた。
 夏休みの始まりの日は、"何かが終わった日"だった。
 何が終わったのかはわからない。だが、海殊はその夜その場所に留まったまま、声が枯れるまで泣き続けた。
「はあ……今日からここが俺の家になるのか」

 海殊はがらんとした部屋を眺めて、そう独り言ちた。
 先程引っ越し業者に荷物を運んでもらい、新たな住処に荷運びを終えたところだ。
 新たな住処といっても、それほど大層なものではない。どこにでもある、六畳一間でロフト付きのワンルームアパートだ。
 駅から徒歩一〇分と少し離れているが、近くにコンビニもあって、閑静な住宅街にある事から、喧噪さもない。快適な暮らしが待っている事に間違いなさそうだ。
 海殊は高校を卒業し、大学進学を期に一人暮らしを始める事にしたのだ。念願の国立大に受かり、来月からはキャンパスライフが始まる。
 大学は家からそれほど離れていなかったので、実家から通う事も可能だった。だが、春子には無理を言って、二年でいいから一人暮らしをさせて欲しいと頼み込んだのである。
 人生経験として一人暮らしをしておきたい、大学の一年と二年は必修科目が一限に集中している事から大学の近くに住みたい、などと色々なそれらしい理由を述べると、春子は意外にも簡単に承諾してくれた。条件は一つだけで『週に一度は家に帰ってくる事』だった。

(ほんとは……もうちょっと帰る頻度を減らしたいんだけどな)

 そう心の中で漏らすも、我儘を通してもらっている手前、条件を飲むしかない。
 海殊が一人暮らしをしたかった理由は、朝の早起きが不安な事でもなければ、人生経験の為でもなかった。
 ただ、家から少し離れたかったのだ。生まれてから十八年暮らしてきたあの家にいるのが、急に辛くなってしまったのである。
 理由はよくわからない。家が嫌いなわけでも、母親が鬱陶しいわけでもなかった。強いて言うなら、家のところどころにある"身に覚えのないもの"、が原因と言えるかもしれない。
 親子諸共いつ買ったのか記憶にない可愛らしい小物の数々や、ファンシーな洗面台のグッズ、それにいつからか飼い始めていた猫のきゅー……それらを見ていると、何故か寂しさと悲しさを感じてしまう様になっていたのだ。
 不思議な事に、それらの小物を捨てようとは思わなかったし、猫のきゅーもいつしか懐く様になっていたので、可愛らしく思っていた。
 ただ、何故かそれらを見ていると、時折とてつもなく悲しくなって、泣きたくなってしまうのだ。そう思ってしまう原因については全く心当たりがないにも関わらず。
 ただ、あの家を辛く思う明確な原因があるわけではない。少しの間家から離れればそれらの感情を抱かなくなるかと思い、一人暮らしを申し出たのである。無論、そんな理由までは春子には言えやしないのだけれど。

「さて、と……んじゃ、さっさと荷解きしますか」

 積み上がった段ボールを見て、もう一度溜め息を吐く。
 それほど荷物は多くないにせよ、この荷解きというものは面倒だ。どこに何を置くか、という事を考えながら出していかないといけない為、ただ段ボールに詰めれば良いだけの荷造りよりも遥かに面倒臭い。

「祐樹達に手伝いに来てもらえばよかったな。どうせ春休み暇してるんだろうし」

 段ボールのガムテープを剝がしながら、まずは物を出していく。荷造りの時に面倒になって適当に詰め込み過ぎて、どこに何が入っているのかさっぱりわからなかったのだ。
 ちなみに祐樹達友人もそれぞれ別々の大学に受かり、それぞれがそれぞれの進路へと進んでいた。今はまだ大学が始まっていないのでやり取りを頻繁にしているが、来月になればきっとそれも殆どなくなるのだろう。

「えーっと? これはここで、フライパンは……」

 段ボールから調理器具を出していって、ふとフライパンを見て手が留まった。

「……今日、チャーハンでも作るか」

 そして、何故かそんな事を思ってしまう。
 これも自分の中で不思議な事だった。海殊はあまり料理が得意な方ではないのだが、ことチャーハン作りにかけては何故か上手くなっていたのだ。
 いつどこでチャーハン作りを学んだのかさえ、記憶にない。だが、春子も絶賛する程の腕を自分でも知らない間に身につけていたのである。海殊自身も、外で食べるチャーハンよりも自分のものの方が美味しいとさえ思っている。

(なんか、夏ぐらいから不思議な事があるよな)

 家の至る所で身に覚えのない小物の数々が増えたのも、きゅーが飼われていたのも、チャーハン作りが上手くなったのも、全て夏休みが始まるかどうかといった時期の出来事だ。
 そして、不思議と言えば、海殊自身にも不思議な事があった。なんと彼は花火大会の穴場スポットに一人で行っていて、一人で泣いていたのである。春子によると、その前日にも海殊は一人でキャンプ場のコテージに行っていたのだという。
 確かにそのコテージにひとりで行った記憶はあるのだが、どうして終業式をサボってまで行こうと思ったのか、動機が全くの不明だった。振り返ってみれば、昨年の七月の自分の行動はあまりにも謎だった。

(受験前で追い詰められていたのかな)

 その時期にあまり追い詰められていた記憶はないのだが、そうとしか思えなかった。
 実際は追い詰められていたというよりは虚無感に襲われていたのだけれど、それの理由もよくわからなかった。その虚無感から逃れる為に勉強をしていたといっても過言ではない。
 その御蔭で大学には難なく受かったのだが(ちなみに推薦はダメだった)、高校最後の一年はあまり良い想い出がなかった。

(あー……これは本か。また本棚に本並べ直すの面倒だよなぁ)

 海殊は大きく溜め息を吐いて、本がぎっしりと入った段ボール箱を見下ろした。
 本棚に関してはそのまま実家から持ってきているので、中身を詰め込むだけだ。ただ、順番などや読み直す本、そして大学に入ってから使うであろうスペースなどを考えながら詰めるとなると、これまた面倒な作業だった。

(引っ越し、もうしたくねえなぁ)

 自分から言い出したくせに、早速後悔している海殊である。
 段ボールの中の本を一冊一冊、作者名や作品名を見ながら並べていく。その際、ふと一冊の本が目に留まって、海殊は「あっ」と声をあげた。
 それは『記憶の片隅に』という映画原作になった小説だ。昨年の夏に映画も公開され、映画館にわざわざ見に行ったのである。

(あれ……? 一人で見に行った、んだよな?)

 ふとその時の記憶を探っていると、隣に誰かがいた気がしなくもない。それと同時に、ドキドキしていた心地よい鼓動を少し思い出す。

「いやいや、こんな恋愛映画を一緒に見に行く友達いないし……って、あれ?」

 そう自分にツッコミを入れて、その本を本棚に入れようとした時である。一切れのメモ用紙が本の隙間からはらりと落ちた。
 その紙を手に取ってみると、そこには病院名と病室が書いてある。誰かの手書きだが、誰の文字かはわからない。少なくとも海殊や春子の字ではなかった。

「鷹野病院って、ここの近くじゃないか」

 メモに書かれていた病院は、海殊が住むアパートから歩いて二〇分もしないところにある大きな病院だ。大きさから鑑みて、病床数も多そうだ。
 ただ、そんな事はどうでもよかった。自分の人生には関係ないはずの病院だ。
 だが、このメモを見てから、海殊は妙な胸のざわつきを覚えていた。うなじのあたりの毛穴が広がって妙にぴりぴりして、不自然にそわそわしてくる。
 それと同時に、何か大切な事を忘れている感覚が襲ってきた。昨年の夏によく陥っていた感覚だ。
 気付けば海殊は、そのメモを財布に入れて部屋を飛び出していた。
 何を忘れているのか、そしてこの病室に誰がいるのかはわからない。ただ、居ても立っても居られなくなってしまったのだ。
 それはまるで、身体の全ての細胞がここへ行けと自分に命じている様でもあった。
 目の前に大きな病院が(そび)え立っていた。
 鷹野病院は救急医療などには対応していない、療養型の病院だ。療養型の病院は長期的な治療を目的としており、何年も入院する人が多い。寝たきりの患者を受け入れる施設でもあるという。
 海殊の知り合いには寝たきりの人などいないので、到底自分に関係がある場所とは思えなかった。
 だが、本の中にここのメモ書きがあった。『記憶の片隅に』の本は新品のものを買った上、誰かに貸した記憶もないので、赤の他人のメモ書きが混ざっているとは考えにくい。おそらく自分に関する誰かが、この病院の中にいるのだ。
 その記憶はない。だが、何故か胸の高鳴りが収まらなかった。緊張感と高揚感が同居していて不思議な気持ちだ。海殊自身が、ここに自分に関する誰かがいるのだと教えてくれている様にも思えた。
 海殊は一度深呼吸をしてから、鷹野病院に足を踏み入れた。
 看護師に場所を訊こうかとも思ったが、誰の面会に来たのかと尋ねられたら答える術がない。怪しまれて摘まみだされてしまう危険があったので、自分で探すしかないだろう。
 院内案内の看板を見ている限り、建物は大きいが棟がいくつもあるわけではない。療養病棟へ行って、メモ書きにある病室に行くだけで済みそうだ。

(行って知らない人だったらどうする?)

 今更ながら、躊躇する。さすがに誰がいるのかわからない病室に行くのは緊張が過ぎる。
 だが、せっかくここまできたのだ。病室の前の名札だけでも見れば、知人かどうかくらいわかるだろう。
 メモには五〇三号室と書かれていたので、エレベーターで五階に向かった。
 エレベーターには、お婆さんとお見舞いにきたであろう親子と一緒に乗った。入院施設独特の色んなものが混ざった臭いがエレベーターの中に入ると一気に濃くなって、咽返りそうになる。
 どうしてこんなに入院病棟は不健康な臭いがするのだろうか、と考えてみたが、健康な人なら入院なんてしないか、とすぐに思い至った。
 五階に辿り着くと、親子のお父さんの方が『開く』のボタンを押してくれていたので、海殊はぺこりと頭を下げて先に降りた。
 廊下では入院患者達が点滴を携えたまま歩いていたり、看護師さんが歩き回っていたりと忙しない。何より、思った以上にザ・病院という空間で、海殊は思わずたじろいでしまった。
 病院にいるので当たり前なのだが、親族とも特に付き合いがない彼にとっては、これほど病院らしい空間にくる機会が人生に於いて殆どなかったのである。

(名札を見るだけ、見るだけ……)

 そう自分に言い聞かせつつ、若干挙動不審ながらも病棟内を進んでいった。
 五〇三号室は建物の端っこの方らしいので、その分緊張が長引く。すれ違うお婆さんがどういうわけか会釈をしてくれたり、ご丁寧に看護師さんも「こんにちは」と挨拶してくれたりするものだから、その度に不審人物と疑われるのではないかと冷や冷やした。
 尤も、他の患者さんや看護師さんからすれば、海殊が誰のお見舞いにきたのかなど知る由もないのだが、それでも慣れていないのだから緊張はしてしまう。
 そうして遂に五〇三号室の前に辿り着いた。ドアの横のネームプレートを恐る恐る見やると……その瞬間、ごくりと自分が固唾を飲んだのがわかった。
 そこにあった名前は──柚木琴葉。女性の名前だった。

(女性、なのか……? でも、何でこの名前に既視感があるんだ? それに、何なんだ……この変な感じは)

 柚木琴葉という女性に心当たりはなかった。初めて見た名前であるはずだ。
 だが、それにも関わらず、何故かその名前を見ただけで海殊は泣きそうになってしまった。胸がぐわっと熱くなって、口元が震えている。
 そのネームプレートを見たまま立ち尽くしていると、病室入口扉の曇りガラス窓に人影が近付いてきて、ガラガラと引き戸が開けられた。
 病室から出てきたのは、春子と同じくらいの年齢の女性だった。綺麗な女性だ。だが、顔はやつれ、どこか疲れている感じがする。
 おそらく病室の前で立ちすくんでしまっていたのが中からも見えて、不審に思って出てきたのだろう。

「あの、どうかしま──あら!」

 引き戸を開けて目が合った瞬間、海殊が言い訳を考えるより早くにその女性は顔を輝かせた。
 疲れて薄まった顔色に、少し生気が戻った様にも思える。

「滝川さん、でしたよね? お見舞いに来て下さったんですね……!」

 その女性は柔和に微笑むと、「どうぞ」と部屋へ入る様に促してくれた。
 何かがおかしい、と海殊は感じた。海殊からすれば、この女性は初対面のはずだ。
 しかし、この女性は海殊を知っていた。そして、ここの場所を知っていて当然という様に接している。病室の場所も、この中に誰がいるのかも海殊が知っていて当然と言わんばかりの接し方だった。

「あ、あの……」
「ああ、いいんですよ。気なんて遣わなくて。お見舞いに来てくれただけで嬉しいんですから。それにしても、去年の夏頃ですから、随分久しぶりですねー」

 海殊の困惑を他所に、その女性は話し続けた。思ったより口数が多く親し気なので、戸惑いを隠せない。
 しかし、これだけはわかった。海殊と彼女は、話した事があるのだ。それも、結構な親密具合で。
 少なくとも、彼女は海殊がここに来た事を心から喜んでくれていた。それは間違いない。

「あ、もう卒業式は終わったんですよね? 娘も同じ日に高校を卒業できたら良かったのですが」
「むす、め……?」

 その言葉に、どくんと心臓が大きく高鳴って、次の瞬間はっとする。
 記憶の片隅に、嫣然(えんぜん)とした笑みを浮かべている可愛らしい女の子が一瞬だけ映ったのだ。この女性と同じ青み掛かった瞳をしていて、黒髪の可愛らしい女の子。その子が自分の名を呼んでいる気がしたのである。

「是非顔も見てやって下さい。ちょうどさっき髪を洗って顔も拭き終わった後なので、男の子に見られても大丈夫だと思います。滝川さんが知っているこの子とは少し変わってしまっているかもしれませんが」

 今も可愛らしい寝顔をしてるんですよ、とその女性は微笑んだ。
 促される様にして病室に入ると、海殊はおそるおそる奥へと進んで行く。
 そして、彼の視界に入ってきたのは──病床で横たわったままの少女だった。長い黒髪の少女は眠ったまま、胸を上下させてすーすーと小さく寝息を立てている。

「あっ……ああっ……」

 声にならない声が、海殊の口から漏れていた。
 初めて会うはずの少女なのに、初めてではないと彼の身体が覚えていたのだ。
 昨年の夏から、何かが欠けている様な日々を送っていた。虚無に近い感情を抱いていた。その正体が彼女だったのだ。
 自分の人生から彼女が欠けていて、だからこそ何をしても満ち足りなかった。彼女を見た瞬間に、それを確信してしまったのである。
 ふらふらとした足取りで、海殊はベッドに近づいていく。そして、顔を覗き込んだ瞬間、頭の中で何かが弾けた。

『私の事は……もう忘れていいよ』

 少女の涙声と共に最後の言葉が蘇って、失われていた記憶がフラッシュバックしていく。彼女との色々な想い出が、まるで映画の回想シーンの如く頭の中を駆け巡った。
 雨の日の公園で少女が佇んでいた事、困っていたその少女を放っておけずに家に連れ帰った事、それから数週間だけ一緒に暮らしてデートもした事、一緒に台風の日の川に飛び込んで子猫を助けた事、二人きりで外泊をして星空の下でキスをした事、そして最後に二人で花火を見た事……その全てを想い出したのである。
 どうして実家に彼の知らぬ小物が沢山あったのか、どうしてそれを見て悲しくなるのか、どうしてチャーハンに限って作るのが上手くなっていたのか、それはもはや明白だった。彼女との想い出がそこにあったからである。
 この子とは確かに初めて会ったはずだ。だが、海殊はこの子を知っていた。知っていて当然なのだ。
 彼が大好きで、人生で初めて誰かを愛していると実感できた人なのだから。

「琴葉……琴葉ぁッ!」

 彼女の名を口にした瞬間、海殊は泣き崩れた。

「琴葉、ごめん……ごめん!」

 眠っている彼女の手を取って、ただ彼女の名を呼んで謝る事しかできなかった。

「俺、絶対に忘れないって誓ってたのに……琴葉!」

 忘れないと誓った筈だった。だが、『忘れていいよ』と言われた瞬間に全てを忘れていたのだ。
 それはもしかすると、本来なかった事だからかもしれない。彼女はあの場にいるはずがなくて、彼女と過ごした日々も本来有り得ないものだったのだから。
 だが、それでも忘れたくなかった。例えまやかしでも、幻でも、琴葉を好きだった事には変わりないのだから。

「え、滝川さん!? どうし──」

 いきなり見舞いにきた娘の同級生が泣き崩れたので、琴葉の母・明穂も慌てたのだろう。しかし、海殊に駆け寄ったその時、その明穂は不自然に言葉を詰まらせた。

「嘘……⁉」

 明穂が愕然として呟いたので、海殊も怪訝に思って顔を上げて彼女の方を見た。

「琴葉が、涙を……!」

 明穂は信じられないという様な顔をして、手を震わせて琴葉を指差した。
 その指先を追って琴葉の方を見ると、眠ったままのはずの彼女の頬に、涙が伝っていた。無論、まだ意識が戻っているわけではない。だが、海殊から何かが伝わって、彼女も彼と同じ気持ちでいてくれたのだ。

「ああっ、琴葉! 琴葉!」

 明穂が縋りつく様にして、ベッドに横たわる娘に抱き着いて感泣した。
 それはもはや大号泣に近いものだった。娘の回復を信じて疑わず、諦め様としなかった明穂の苦渋が報われた瞬間でもあったのだ。
 そこからは三人で喜びの涙を流して……という状況にはならなかった。いきなり病室から大きな声と泣き声が聞こえてきたので、慌てて看護師が駆け込んできたのだ。そして、涙している琴葉を見るや否や看護師も大慌てで医師を呼んで、それからすぐに緊急検査の流れとなった。
 てんやわんやのまま琴葉は検査室に連れて行かれてしまい、感動の再会はそう長くは味わえなかった。だが、それよりももっと良い事があった。誰もが未来を諦めていた少女に、回復の兆しが見えたのだ。
 海殊は明穂と一緒に、検査の結果が終わるのを検査室の前で待っていた。その間、明穂が昨年にあった事を少しだけ話してくれた。
 昨年の夏以降から一切琴葉の脳波に反応がなくなってしまって、もう回復の見込みは絶望的だと医師から告げられたそうだ。医療費の事もあるし、脳死認定をして延命治療を終わらせる事も勧められた。それは奇しくも、夏の花火大会があったあの日だった。
 しかし、明穂は娘の回復を諦められなかった。夏に唐突に家を訪れた『娘に一目惚れをした』と告げた同級生の為にも諦めたくなかったし、不慮の事故のせいで娘の未来が完全に閉ざされてしまうなど、認めたくなかったのだ。
 医師の言う通り医療費の事もあり、いつまでも入院を継続できるわけではない。だが、本当にどうにもならなくなるまで、最後のその瞬間まで娘の回復を信じて待ってみようと決意したそうだ。

「二人は……会った事があるんですね。ここじゃない、どこかで」

 話終えた時、明穂がぽそっと呟いた。
 それはまるで現実的ではない言葉だ。だが、彼女はそれを確信している様だった。

「……はい」

 海殊は少しだけ躊躇したが、もう隠す必要はないかと思い、話す事にした。
 きっと、他の誰かに話しても絶対に信じられないし、何なら海殊の頭の心配をされるだろう。だが、この奇跡を前にした明穂ならば、それを疑う様な真似はしないと思ったのだ。

「ほんの数週間だけでしたけど……あいつと一緒の時間を過ごしていました。一緒に学校に行ったり、デートをしたり、花火を見に行ったり……去年の夏は、たくさんあいつと想い出を作ったんです」
「そうだったんですね。納得です」

 明穂は微笑んでから、小さく頷いた。
 予想通り、彼女は海殊の言葉を何も疑わなかった。この奇跡を前にしては、それを信じざるを得なかったのだろう。いや、きっと二人のその時間があったからこそ生じた奇跡なのだと思っているのかもしれない。

「もしよかったら、聞かせてくれませんか? あなたの知る娘の事を。もちろん、話せる範囲の事で構いませんから」
「はい……是非!」

 それから海殊は検査が終わるまでの間、琴葉との想い出について話した。
 明穂はその話を真剣に聞いてくれていた。相槌を打ちつつ時折驚き、時折笑い、そして涙ぐみながら。
 海殊の知る琴葉は、明穂の知る琴葉よりも積極的で驚いた様だ。自分に残されていた時間が少ない事を何となく察していた琴葉は、後悔がない様に生きようと思ったのだろう。いや、最後の最期まで、彼女は『生きる』という事を諦めなかったのかもしれない。だからこそ、記憶からは消えても海殊の中で琴葉は生き続け、今日という奇跡を起こしたのだ。
 それから数時間を経て、検査結果が出た。
 検査結果は『植物状態からの回復の見込みあり』。それを聞いた瞬間、海殊と明穂がもう一度泣き崩れたのは言うまでもない。

「本当にこれは奇跡です……いやはや、人間の脳というのは全く以て我々の想像を超えています。まだまだ勉強不足ですね」

 担当医はそう苦笑いを浮かべながらも、素直にその回復を喜んでくれていた。それと同時に延命治療の終了を促した事を悔いていて、何度も明穂に謝っていた。
 検査室から戻ってきた琴葉は既に涙も収まり、またすやすやと安らかな寝息を立てながら眠りについていた。眠っているのは同じだが、いつもより顔色が良いと明穂が言っていたので、本当に回復の兆しが見えてきたのだろう。その確信が海殊にも持てた。

「あの……俺、これからも見舞いに来ていいですか? こいつが目覚めるまで、できるだけ毎日来たいんです。俺にできる事があれば、何でも手伝います」
「滝川さん……ええ、もちろんです。宜しくお願いしますね」

 明穂は迷わず海殊のその願いを聞き入れた。
 きっと彼女も、自分と同じ願いを持つ者に出会えた事が嬉しかったのだろう。暗く疲れ切っていた表情に、輝きが戻った様に思う。
 こうして、この日を境に海殊の新しい生活は、予想もつかない形で開幕した。
 消えてしまった女の子との日々を想い出し、その女の子との想い出を作り直す日々が始まろうとしている。
 琴葉がいつ目覚めるのか、それは誰にもわからない。半年後なのか、一年後なのか、それとも三年後なのか、五年後なのか。それはきっと、途方もない時間だろう。
 それでも海殊は、ずっと琴葉が目覚めるまで待ち続けようと思っていた。そうでなければ、彼女と過ごした日々を思い出した意味がないからだ。
 明穂が渡してくれたメモを見つけて、吸い寄せられる様にしてこの病院に辿り着いた。それはまるで、琴葉に(いざなわ)れている様でもあった。
 いや、違う。
 記憶にないどこかで、海殊自身がそれを望んでいたのだ。
 それは『この世界が琴葉を拒絶したとしても、お前と過ごした夏は絶対に忘れない』という強い想いと誓い。その想いと誓いが、こうした奇跡を生んだのである。
 思い返してみれば、奇跡は過去に何度も起きていた。そもそも、琴葉と過ごしていたあの夏そのものが奇跡に他ならない。
 ここまで来れたら、もう何だってできる気がした。
 そして、彼女が目覚めるという確信も持っていた。眠ったままの琴葉の手を握っていると、彼女の手のひらからその未来を感じ取れたのだ。
 海殊が少し手のひらを握ってやると、それに応える様にして指がほんの少しだけ動く。海殊の決意に、彼女が応えようとしてくれている様に思えて、それだけで嬉しかった。

「なあ、琴葉。俺、待ってるからさ。目覚めて元気になったら……また楽しい想い出たくさん作ろうな」

 琴葉の寝顔に、そう語り掛ける。
 その時の彼女の寝顔は、ほんの少しだけ微笑んでいるかの様だった。
 これまでは、奇跡に頼り切っていた。
 この奇跡は琴葉が起こしたのか、或いは人ならざるものが起こした奇跡なのかはわからない。
 だが、こうして再び再会できて、記憶も戻ったのならば……後はもう、海殊と琴葉の問題だ。
 少ないながらにできる事をやって、海殊は琴葉の回復を信じて待つしかないし、彼女もきっとそれに応えようと頑張ってくれるに違いない。
 その日が訪れるまで、何日でも何か月でも何年でも待とう。
 海殊はその安らかな寝顔に、そう誓ったのだった──。