「よっ、海殊! 今日皆でカラオケ行くってなったんだけど、お前も来いよー!」
帰りのホームルームが終わるや否や、滝川海殊の席を友人の須本祐樹が訪れてそう言った。
海殊は小さく溜め息を吐くと、祐樹に申し訳なさそうな笑みを向ける。
「悪い、今日は図書館に寄らないといけないんだ。返却日なんだよ」
言いながら彼に鞄の中の本を見せてやる。そこには市立図書館で借りた本が三冊入っていた。
「もうすぐ学期末テストだし、ついでに勉強でもしていこうと思って。祐樹も来るか?」
「かーッ、真面目か! お前、今が何月かわかってんのか!?」
「は? 七月だろ」
海殊は黒板の文字をちらりと見て言った。
黒板には七月一日と書かれている。今日から七月で、一学期最後の月が始まったのだ。そして、それと同時にそれは高校生活最後の一学期末テストである事も意味していた。
海殊は推薦入試枠を狙ってるので、この学期末を落とすわけにはいかないのである。
「そうだよ、七月だよ! 七月と言えば何があると思う? そう、夏休みだよ! 夏休みと言えば、お祭りや花火といった恋人のイベントが盛り沢山。カノジョとこのイベントを迎える為には今頑張らなきゃいけない。そうだろ? その為のカラオケだよ! 僕と一緒にカノジョ作ろうぜ! 二組の真昼ちゃんも来るんだしさ!」
訊いてもいないのに、祐樹が語り出す。
無論、そんな事は訊かずとも海殊もわかっていた。彼が昨年末のクリスマス前から恋人作りに熱心な事も、その全てが失敗に終わっているという事も知っている。
それもそのはずで、彼はいつも海殊に一緒にカノジョを作ろうと誘ってきていたからだ。その都度、海殊は断り文句を探しては流していた。
ちなみに、二組の真昼ちゃんとやらについては全く知らない。海殊はそういった同級生の女の子情報に疎く、せいぜい同じクラスの女の子の名前と顔が一致している程度なのだ。
「悪いな、頑張ってカノジョ作って夏を楽しんでくれ」
「釣れねーなぁ、おい。お前、顔そこそこ良いんだからその気になればすぐにカノジョ作れるだろ」
「んな事ないって。祐樹のがモテるよ。んじゃな」
祐樹を待っているであろうクラスの男子が視界の片隅に入ったので、話を終わらせた。
彼らにも適当に挨拶をして、そのまま教室を出る。祐樹の残念そうな視線が背中に突き刺さっている事には気付いていたが、敢えて気付かないふりをした。
図書館には本当に行くつもりだったのだが、本の返却日は明日だし、まだ本は読み終えていない。別に今日でなくても良かったのだが、どうにもカラオケやら合コンやらに興味を抱けず、断り文句として図書館を使ったのだ。
恋愛それ自体に興味がないわけではない。ただ、海殊は大人びた性格をしているせいか、周囲の生徒とテンションを合わせたり騒いだりするのが苦手なのである。
物は試しだと思い、先月は体育祭の打ち上げとやらにも参加したが、居心地が悪くて全く楽しめなかった。むしろ、騒いでいる事で周囲の客に迷惑を掛けているのではないかと申し訳なく思えてしまった程だ。
社交性はそこそこあるのでぼっちというわけではないが、クラスにとっては居ても居なくても良い存在、という立ち位置を保っている。彼自身がそれを望んでいたのだ。海殊は友達と騒ぐよりも、一人で本を読んだり、ゲームをしたりする方が好きなのである。
最近はゲームにも飽きてきて、図書館で借りた本を読み漁っている事の方が多い。その本の中にある別の人の思想や人生に触れる事に喜びを感じる様になったのだ。
ただ、そうした方向にいくと、どんどん自分が周囲と離れていく事を海殊は知っていた。現に、クラスメイト達との価値観が離れていっている。彼は可愛い同級生にも恋愛イベントにも、ショートムービーアプリにもUtubeにも興味が全く持てないでいたのだ。
こんな事をしていては自分がどんどん時代に取り残されていくのは海殊自身わかっていた。しかし、それでも興味を持てないものには持てないのだから、仕方がない。
きっと、自分はこのまま一人で過ごすのだろう──何となくだが、海殊はそんな風に自分を評価していた。
*
「ふう……」
海殊は一冊の本を読み終えると、小さく息を吐いた。
彼は良い本に出会った時、それ以外の事に一切興味が持てなくなってしまうタイプだ。読み終えた時の読了感を満喫するのが最も好きな時間だった。読み終えて満ち足りた気持ちと物語が終わってしまったという寂しさが、何とも言えない感覚で好きなのだ。
今読み終えたものは、『君との軌跡』という長編小説だ。何冊にも渡って、主人公とヒロインの出来事や試練、そして互いを信じ合いながら成長していく様が描かれていた。グランドフィナーレでは涙腺が思わず緩んでしまった程である。
(俺も、こんな風に誰かを好きになる事があるのかな)
海殊はカウンターに本を返却しつつ、ふとそう考える。
先程、祐樹には恋愛には興味がないようなそぶりを見せていたが、全く興味がないわけではない。彼がいつも心揺さぶられる作品は恋愛模様を描いているものが多かったし、きっとどこかで恋に恋をしているのだと思う。
だが、それはクラスメイト達が望んでいる恋愛とはどこか違っていて、もっと心が燃える様な恋だと思うのだ。それ以外の事などどうでもよくなってしまって、人生を賭して相手の女性を想いたくなる様な恋愛を夢見ている。
今読んだ物語の主人公の様に、一生懸命人を愛せる日が来るのだろうか。そんな日が来たとして、自分は一生懸命になれるのだろうか。
恋を知らぬ海殊には、自分がそういった時にどうなるのかさえわからなかった。
(あ、やべ。もう閉館か。急いで帰らないと)
海殊はスマートフォンを見て、時刻を確認する。八時五十五分だ。それと同時に、閉館のアナウンスが流れ始めた。
この市立図書館は夜九時まで開館しているので、勉強や読書に勤しむ高校生としては大変有り難い施設なのである。
海殊は慌てて身支度をして、その足で図書館を出た。
今日は母親が日勤の日なので、もう帰って夕飯を作って待っているだろう。彼女は自分が早く帰れる日くらい一緒にご飯を食べろとうるさいのである。
とは言え、プログラマーとして働きながら、女手ひとつでここまで育ててくれた母には感謝している。大学に進学すれば一人暮らしをする予定なので、それまでの間はできるだけ母と過ごしたいと思っていた。
「うっわ……降ってきやがった」
海殊は図書館から出るや否や、大きな溜め息を吐いて傘を差す。
日中は晴れていたのだが、今夜は雨の予報が出ていたのだ。念の為傘は持ってきていたが、梅雨の雨ほど鬱陶しいものはない。無駄に汗もかいてしまうし、とにかくジメジメとして気持ちが悪い。
こんな日は早く帰るに限ると帰路を早歩きで進んでいたが、彼の足はふと途中で立ち止まった。
そこは、図書館の近くにある公園だ。その公園自体に何か不思議な事があるわけではない。いつもと変わらぬ地味な公園だった。
だが、その日はいつもと違う点がある。公園の隅っこのベンチに、女の子の姿があったのだ。
(……あの子、同じ高校か? 何してるんだろう)
目を凝らして見てみると、そのベンチには海殊と同じく海浜法青高校の制服を着た女生徒の姿があった。
長い黒髪で、華奢な女の子だ。遠目で見ている限り、少女は恋愛に疎い海殊でさえも惹かれてしまう程可愛らしく、そして美しかった。公園の街灯に照らされた彼女はどこか浮世離れしていて、それでいて消えてしまいそうなくらい儚かったのである。
きっと、いつもの海殊ならば気にせず帰路を急いだだろう。だが、彼の足はそこで止まっていた。自然と惹きつけられて、彼女から視線を外せなかったのだ。
今は七月だ。今日はジメジメしていて、かなり暑い。それにも関わらず、彼女は冬服のブレザーを羽織っていた。明らかにそれが不自然だったのだ。
少女は目を強く閉じて、どうしてか雨に打たれている。身体がほんの少し震えているところを見ると、冷えてきてしまっているらしい。
それに気付いた時、海殊の足は自然に彼女の方へと向かっていた。
「あの……大丈夫か? もうすぐ夏って言っても、あんまり雨に当たると風邪引くと思うけど」
海殊は彼女の上に、傘を翳して声を掛けた。
少女は驚いて目を開くと、はっとして彼を見上げた。青み掛かった瞳はまるで宝石の様に美しく、吸い込まれそうだった。
彼女はその大きな瞳でまじまじと彼を見つめていた。まるで、話し掛けられた事を驚いている様な表情だ。
そして、驚いていたかと思えば、少女の瞳から一滴の雫が零れ落ちた。
それが、後の彼の人生を大きく変える少女との出会いだった──。
帰りのホームルームが終わるや否や、滝川海殊の席を友人の須本祐樹が訪れてそう言った。
海殊は小さく溜め息を吐くと、祐樹に申し訳なさそうな笑みを向ける。
「悪い、今日は図書館に寄らないといけないんだ。返却日なんだよ」
言いながら彼に鞄の中の本を見せてやる。そこには市立図書館で借りた本が三冊入っていた。
「もうすぐ学期末テストだし、ついでに勉強でもしていこうと思って。祐樹も来るか?」
「かーッ、真面目か! お前、今が何月かわかってんのか!?」
「は? 七月だろ」
海殊は黒板の文字をちらりと見て言った。
黒板には七月一日と書かれている。今日から七月で、一学期最後の月が始まったのだ。そして、それと同時にそれは高校生活最後の一学期末テストである事も意味していた。
海殊は推薦入試枠を狙ってるので、この学期末を落とすわけにはいかないのである。
「そうだよ、七月だよ! 七月と言えば何があると思う? そう、夏休みだよ! 夏休みと言えば、お祭りや花火といった恋人のイベントが盛り沢山。カノジョとこのイベントを迎える為には今頑張らなきゃいけない。そうだろ? その為のカラオケだよ! 僕と一緒にカノジョ作ろうぜ! 二組の真昼ちゃんも来るんだしさ!」
訊いてもいないのに、祐樹が語り出す。
無論、そんな事は訊かずとも海殊もわかっていた。彼が昨年末のクリスマス前から恋人作りに熱心な事も、その全てが失敗に終わっているという事も知っている。
それもそのはずで、彼はいつも海殊に一緒にカノジョを作ろうと誘ってきていたからだ。その都度、海殊は断り文句を探しては流していた。
ちなみに、二組の真昼ちゃんとやらについては全く知らない。海殊はそういった同級生の女の子情報に疎く、せいぜい同じクラスの女の子の名前と顔が一致している程度なのだ。
「悪いな、頑張ってカノジョ作って夏を楽しんでくれ」
「釣れねーなぁ、おい。お前、顔そこそこ良いんだからその気になればすぐにカノジョ作れるだろ」
「んな事ないって。祐樹のがモテるよ。んじゃな」
祐樹を待っているであろうクラスの男子が視界の片隅に入ったので、話を終わらせた。
彼らにも適当に挨拶をして、そのまま教室を出る。祐樹の残念そうな視線が背中に突き刺さっている事には気付いていたが、敢えて気付かないふりをした。
図書館には本当に行くつもりだったのだが、本の返却日は明日だし、まだ本は読み終えていない。別に今日でなくても良かったのだが、どうにもカラオケやら合コンやらに興味を抱けず、断り文句として図書館を使ったのだ。
恋愛それ自体に興味がないわけではない。ただ、海殊は大人びた性格をしているせいか、周囲の生徒とテンションを合わせたり騒いだりするのが苦手なのである。
物は試しだと思い、先月は体育祭の打ち上げとやらにも参加したが、居心地が悪くて全く楽しめなかった。むしろ、騒いでいる事で周囲の客に迷惑を掛けているのではないかと申し訳なく思えてしまった程だ。
社交性はそこそこあるのでぼっちというわけではないが、クラスにとっては居ても居なくても良い存在、という立ち位置を保っている。彼自身がそれを望んでいたのだ。海殊は友達と騒ぐよりも、一人で本を読んだり、ゲームをしたりする方が好きなのである。
最近はゲームにも飽きてきて、図書館で借りた本を読み漁っている事の方が多い。その本の中にある別の人の思想や人生に触れる事に喜びを感じる様になったのだ。
ただ、そうした方向にいくと、どんどん自分が周囲と離れていく事を海殊は知っていた。現に、クラスメイト達との価値観が離れていっている。彼は可愛い同級生にも恋愛イベントにも、ショートムービーアプリにもUtubeにも興味が全く持てないでいたのだ。
こんな事をしていては自分がどんどん時代に取り残されていくのは海殊自身わかっていた。しかし、それでも興味を持てないものには持てないのだから、仕方がない。
きっと、自分はこのまま一人で過ごすのだろう──何となくだが、海殊はそんな風に自分を評価していた。
*
「ふう……」
海殊は一冊の本を読み終えると、小さく息を吐いた。
彼は良い本に出会った時、それ以外の事に一切興味が持てなくなってしまうタイプだ。読み終えた時の読了感を満喫するのが最も好きな時間だった。読み終えて満ち足りた気持ちと物語が終わってしまったという寂しさが、何とも言えない感覚で好きなのだ。
今読み終えたものは、『君との軌跡』という長編小説だ。何冊にも渡って、主人公とヒロインの出来事や試練、そして互いを信じ合いながら成長していく様が描かれていた。グランドフィナーレでは涙腺が思わず緩んでしまった程である。
(俺も、こんな風に誰かを好きになる事があるのかな)
海殊はカウンターに本を返却しつつ、ふとそう考える。
先程、祐樹には恋愛には興味がないようなそぶりを見せていたが、全く興味がないわけではない。彼がいつも心揺さぶられる作品は恋愛模様を描いているものが多かったし、きっとどこかで恋に恋をしているのだと思う。
だが、それはクラスメイト達が望んでいる恋愛とはどこか違っていて、もっと心が燃える様な恋だと思うのだ。それ以外の事などどうでもよくなってしまって、人生を賭して相手の女性を想いたくなる様な恋愛を夢見ている。
今読んだ物語の主人公の様に、一生懸命人を愛せる日が来るのだろうか。そんな日が来たとして、自分は一生懸命になれるのだろうか。
恋を知らぬ海殊には、自分がそういった時にどうなるのかさえわからなかった。
(あ、やべ。もう閉館か。急いで帰らないと)
海殊はスマートフォンを見て、時刻を確認する。八時五十五分だ。それと同時に、閉館のアナウンスが流れ始めた。
この市立図書館は夜九時まで開館しているので、勉強や読書に勤しむ高校生としては大変有り難い施設なのである。
海殊は慌てて身支度をして、その足で図書館を出た。
今日は母親が日勤の日なので、もう帰って夕飯を作って待っているだろう。彼女は自分が早く帰れる日くらい一緒にご飯を食べろとうるさいのである。
とは言え、プログラマーとして働きながら、女手ひとつでここまで育ててくれた母には感謝している。大学に進学すれば一人暮らしをする予定なので、それまでの間はできるだけ母と過ごしたいと思っていた。
「うっわ……降ってきやがった」
海殊は図書館から出るや否や、大きな溜め息を吐いて傘を差す。
日中は晴れていたのだが、今夜は雨の予報が出ていたのだ。念の為傘は持ってきていたが、梅雨の雨ほど鬱陶しいものはない。無駄に汗もかいてしまうし、とにかくジメジメとして気持ちが悪い。
こんな日は早く帰るに限ると帰路を早歩きで進んでいたが、彼の足はふと途中で立ち止まった。
そこは、図書館の近くにある公園だ。その公園自体に何か不思議な事があるわけではない。いつもと変わらぬ地味な公園だった。
だが、その日はいつもと違う点がある。公園の隅っこのベンチに、女の子の姿があったのだ。
(……あの子、同じ高校か? 何してるんだろう)
目を凝らして見てみると、そのベンチには海殊と同じく海浜法青高校の制服を着た女生徒の姿があった。
長い黒髪で、華奢な女の子だ。遠目で見ている限り、少女は恋愛に疎い海殊でさえも惹かれてしまう程可愛らしく、そして美しかった。公園の街灯に照らされた彼女はどこか浮世離れしていて、それでいて消えてしまいそうなくらい儚かったのである。
きっと、いつもの海殊ならば気にせず帰路を急いだだろう。だが、彼の足はそこで止まっていた。自然と惹きつけられて、彼女から視線を外せなかったのだ。
今は七月だ。今日はジメジメしていて、かなり暑い。それにも関わらず、彼女は冬服のブレザーを羽織っていた。明らかにそれが不自然だったのだ。
少女は目を強く閉じて、どうしてか雨に打たれている。身体がほんの少し震えているところを見ると、冷えてきてしまっているらしい。
それに気付いた時、海殊の足は自然に彼女の方へと向かっていた。
「あの……大丈夫か? もうすぐ夏って言っても、あんまり雨に当たると風邪引くと思うけど」
海殊は彼女の上に、傘を翳して声を掛けた。
少女は驚いて目を開くと、はっとして彼を見上げた。青み掛かった瞳はまるで宝石の様に美しく、吸い込まれそうだった。
彼女はその大きな瞳でまじまじと彼を見つめていた。まるで、話し掛けられた事を驚いている様な表情だ。
そして、驚いていたかと思えば、少女の瞳から一滴の雫が零れ落ちた。
それが、後の彼の人生を大きく変える少女との出会いだった──。