*

 足を前に進めるたびに、空気が冷たくなるように感じる。
 袴の袖から冷気が入ってきて寒い。
 遭難しているひとも、凍えてないか心配だ。

「大丈夫ですかーっ」

 声を上げてみるも、反応なし。
 桔梗さまのところに戻った方がいいかな。
 そう思って、来た道を振り返って絶望する。
 戻り方が分からない。
 目印になるようなものは何もなくて、ただ鬱蒼(うっそう)と木が茂っているだけ。

「わたし、帰れるかな……」

『帰らせないわ』

 さっきとは比べ物にならないくらい、急に寒くなった。
 気のせいなんかじゃない。
 確実に気温が下がってる。
 まるで、冷凍庫に放り込まれたみたいに冷たくて、空気が突き刺さるような感覚だ。
 
 それに、声が聞こえた。
 『たすけて』って言ったのと、同じ声。
 嫌な予感がするからか、それとも寒いからか、鳥肌が立つ。

 一歩地面を踏みしめると、サクッと音が鳴る。
 雪だ。
 びゅうびゅう吹き荒れる風に混じって、雪が降っている。
 吹雪のせいで、視界が真っ白になって、動くに動けない。

 へなへなと雪にへたり込む。
 冷たい。
 そんなことは考えられるのに、これからどうするべきかが考えられない。

「桔梗さま……っ」

 威勢よく飛び出して行ったのに、結局桔梗さま頼りの自分が情けない。

『ねぇ、聞こえてるでしょう? あなた、すごく綺麗な心をしてるわ。とても美味しそう』

 吹雪のせいで見えないけれど、声が近づいてくる。
 今度こそ喰われてしまうかもしれない。
 (魔除けのお守り)を捨ててしまったから。
 震える腕をもう片方の腕でさすりながら、唇を噛みしめる。

『そうよ。もっと怯えなさい。恐怖で死んでしまったあなたを喰うのもいいわね』

 声は、もうすぐそこだ。

『なぜここに人間がいるの? 人間があやかしの世にいるなんて、自分から命を差し出してるようなものよ。私が喰ってやるわ』

 空気が、凍った。
 その瞬間、目の前に現れた、ひと型のあやかし。
 吹雪になびく、雪みたいに真っ白な髪。
 それと同じくらいの、冴え冴えと白い着物。
 真っ白な世界の中で禍々しく光る、紅い瞳。
 たぶん、雪女だ。

「ねぇ、あなたいくつ? 若い人間ほど美味いものはないわ」

 紅い瞳が細まると、驚くほど恐ろしい。
 雪女は、ゆっくりと、わたしに近寄ってくる。
 ぺた、ぺたと鳴る足音が薄気味悪い。
 足を引くと、何か硬いものに足がぶつかった。
 木だ。もう、後ろには逃げられない──!

 わたしの頬に雪女の指が触れる。
 とたん、焼けるような、突き刺すような痛みが頬に走る。
 
「……っ!」
「あなた、顔が本当にきれい。喰べないままは勿体ないけど、氷漬けにして保存するのも悪くない」

 痛みがどんどん広がっていく。
 指がかじかんで動かない。

「ききょうさまっ、たすけて……っ」

 風に乗って震える声が流れていく。
 

「紬は絶対に喰わせないよ」
 
 
 凛と響く優しい声。
 凍りついたまつ毛をまたたくと、目の前にわたしを庇うように立つ、大きな背中。
 彼の束ねた髪の先が、すでに凍り始めている。
 彼は、わたしを振り返って、ふっと優しく微笑んだ。

「名前を呼んでくれてよかった。安心しておくれ。きみのことは必ず守る。少し目を閉じておいておくれ。紬には見せたくない」

 桔梗さまに言われた通り、手で目を覆って視界を遮る。
 だけど、少し気になってしまって、指と指の間からそっと目をのぞかせた。

「邪魔しないでちょうだい。せっかく獲物を見つけたのに。そもそも、おまえは何? 耳だけ生やして、すごく弱そう。そんなので守るなんて、よく言えるわね」

「ぼくは、送り犬だ」

 今まで聞いたこともない、低くうなるような声。
 桔梗さまの耳が、ピンと立つ。
 目の前で風が起こって、あたりの木の葉を舞い散らす。
 あまりの突風に目を閉じた瞬間、桔梗さまが消えた。
 そして、桔梗さまがいた場所で、白い毛並みの熊みたいに大きな犬が雪女を威嚇していた。

「噛み殺されたくなければ──いや、噛み殺すなんて生ぬるいな。おまえは紬を傷つけた。それの何倍もの惨たらしいやり方で、殺してやる」

 いつもと見た目は違うけど、桔梗さまと同じ声だ。
 つまり、これは、桔梗さま──送り犬の本当の姿……?
 雪女が、腰を抜かす。
 その顔は、恐怖で歪んでいる。
 このままじゃ、桔梗さま、本当に殺してしまう──!?

「桔梗さま、もうやめてくださいっ!」

 目の前の、大きな毛玉に飛びつく。
 わたしを捉えた瞳は、ギラギラと紅く光っている。

「こんなの、わたしが大好きな桔梗さまじゃない。わたしが愛する桔梗さまは、優しいお方だ! わたしのために、誰かを殺したりなんてしない!」

 彼の怪しく光る瞳は、だんだんもとの色を取り戻していって──、
 犬の姿からひとに戻った。

「すまない。久々に力を使うと、加減が効かないね。危ないところだった。止めてくれてありがとう、紬。──それと」

 桔梗さまは、座り込んだままの雪女に手を伸ばす。

「きみにも悪いことをした。自分の力を抑えきれずに──いや、言い訳はよそう。愛しいと思う気持ちは、怖いね」

 雪女を立ち上がらせて、桔梗さまはわたしを見つめる。
 その眼差しが、何を意味しているのかが分からなくて、なぜだか胸がキュッとなる。

「送り犬さま、申し訳ございません。まさか、山の長がこの様な姿だとは思わず……」
「謝るべきは、ぼくじゃないだろう」
「紬さんも、ごめんなさい。綺麗な顔と心に、傷をつけてしまったわ」
「紬、怖い思いをさせたね。これが、あやかしの本能なんだ。雪女のこと、許してやっておくれ。そして、ぼくからも。本当にごめんよ」

 あやかし2人に頭を下げられて、わたしは慌てて手を振る。

「か、顔を上げてくださいっ! 確かに怖かったけど、わたし、もう怒ってないので! だけど、もしよかったら、お願い、聞いてくださいますか?」

 2人は揃って顔を上げて、目を瞬く。

「あのっ、雪女さんも、一緒に着いてきてくれませんか?」
「私が? 怖い思いをさせたでしょ?」
「一緒だったら、もっと楽しいだろうなって思ったんです! それに、桔梗さまに何かあっても、わたしじゃできることは限られてます。だから、雪女さんがいてくださると安心です」

 そう言うと、彼女は顔を輝かせる。
 そして、腕を組んで不思議な表情を浮かべる桔梗さまを見やった。

「送り犬さま、よろしいのですか? お2人で旅がしたいのでは……」
「紬がそう言うのなら、ぼくは賛成だよ」
「やったぁ! 桔梗さま、ありがとうございます」

 きゃっきゃと喜ぶわたしたちに、桔梗さまは苦笑い。
 いつの間にか吹雪は止んで、3人で歩く山道に、きらきら日差しが降り注いでいた。