㉘
河川敷に降りる階段は手摺もなく急傾斜で、足を滑らせたら大変だ。
サトシさんは階段ではなく芝の上を滑るように降りて行く。
わたしがベンチのある場所までたどり着いた時には、もうサトシさんはグラウンドの向こう、数段降りた先の川になっている場所にいた。
誰かと話している。
紺色の雨合羽を着ているその人は、サトシさんより少し背が低いけれど大人の男性だった。
「水かさが上がってきたんで、釣り舟を引き上げに来たんだ。子どもは見てないなぁ」
雨の音にかき消されないように声を張り上げているのか、そんな声が聞こえてきた。
「あの傘は?」
「ああ、ありゃ儂が持って来たんだ。息子が小さい時に使ってたやつだよ」
叶夢君じゃなかった。
ほっとして体から力が抜ける。
その後、サトシさんはおじさんが舟を繋ぐのを手伝わされ、二人ともびしょ濡れになって車の所まで戻った。
その格好で車に乗せて貰うのも気がひけて、わたしたちは小学校まで歩いていこうとしたけれど、星さんのお母さんが構わないからと乗せてくれることになった。
サトシさんはどんどん顔色が悪くなるし、正直、サトシさんにこれ以上無理をさせたくない気持ちもあったのでとても助かった。
小学校に着く頃には時刻は夕方の6時を過ぎていた。
職員室にはまだ先生が残っていて明かりが点いている。
わたしとサトシさんは玄関まで送ってもらい、星さんのお母さんに何度もお礼を言って別れた。
「何かあったらいつでも連絡しなさいね。おばさん、サトシ君の親代わりのつもりなんだから、遠慮なんかしちゃだめよ!」
お母さんはサトシさんにそう言って、わたしにも今度ゆっくり遊びに来てねと、あたたかな笑顔を残して帰っていった。
星さんの家の今朝の食卓が思い出された。賑やかで、みんな地に足がついていて、押しても引いても倒れない。そんなしなやかな強さが感じられる。
きっと大丈夫だ。今はそう信じるしかない。
小さくなっていく車を見送りながらそう自分に言いきかせた。
サトシさんとわたしは保健室でタオルを借りて、職員室の隅で温かいお茶を飲んで星さんを待っていた。
学校の周囲は他の先生が探してくれているようで、時折連絡が入るがまだ叶夢君は見つかっていない。
それから数分後に星さんからメッセージが届いた。
学校に着いたと言うので、わたしとサトシさんは玄関へ向かった。
玄関に横付けされた車から、星さんが降りてくる。そして後部座席のスライドドアを開けたかと思うとそこにはなんと叶夢君がいた。
「星さんが叶夢君を見つけてくれたんですね。無事で良かった……」
「新聞社からサトシに何回も連絡がいってたみたいなんだけど、繋がらないって俺のとこに回ってきた」
「どういうことですか?」
「叶夢が、自分が給食に農薬を入れたんだって新聞社に言いに行ったみたいなんだ。けど、証拠もないし子どもの言うことを鵜呑みにもできない」
「なんで警察じゃなく新聞社に……?」
「明野農園《う ち》を救うため。叶夢が新聞社に来るちょっと前に、うちの名前と事件のことが匿名で新聞社のホームページに書き込まれてたらしい」
「そんな……」
「で、思ったんだけどコレ、単なる復讐とかそんなもんじゃない。うちを潰して利益を得る奴がいる」
わたしたちが話している間に、サトシさんは叶夢君のお母さんに連絡をして病院へ叶夢君を送って行くことになった。
「サトシ、着替え置いてある?」
星さんがサトシさんを振り返る。
「ジャージがある。燿子、貸してやるから着替えてこい」
サトシさんはわたしに向かってそう言っだけれど、サトシさんの方が着替えるべきだ。
「わたしはいい……」
「耀子ちゃんは俺がなんとかするから、先に病院行っといて」
星さんはそう言うとわたしを車に乗せ走り出した。
「どこ行くんですか?」
「先ずは着替えを用意しないと」
そう言って大通り沿いの店に車を停めた。衣類の全てが揃う世界的チェーン店だ。
「暖房つけとくから、ちょっと待ってて」
そう言って店内に入って行くと、しばらくして大きな袋を持って戻ってきた。
「お待たせ」
そして次はスーパー銭湯だった。
「ゆっくりあったまっておいで。あ、でものぼせないように! 倒れても女湯まで助けに行けないからさ」
こんなことしてる余裕あるんだろうか、そう思いながらも久しぶりにお風呂に入れるのは素直に嬉しい。
冷えきった体を温め、濡れた髪を乾かすとほっとして眠気すら湧いてきた。
星さんが選んでくれた洋服一式に着替えて出て行くと、雑誌を読んでいた星さんが顔を上げて親指を立てた。
「似合ってるよ」
スモーキーピンクのスエットパーカーにデニムのスカート。
ピンクの服は自分では買わないし、スカートも滅多に履かないから少し恥ずかしいのと、星さんが似合うと言ってくれたのが嬉しすぎるのとで、上気した頬がさらに熱くなる。
星さんはちょっと笑って、自販機でコーヒー牛乳を買ってきてくれた。
「風呂上がりはコレっしょ」
なんだかあんなに大変だった一日が嘘みたいに、星さんは落ち着いているし、コーヒー牛乳は冷たくて美味しい。
「サトシさんと別行動にしたのってもしかしてサトシさん……尚也さんに、聞かせたくない話があるっていうことですよね?」
何となく、そう考えてみれば、さっきの星さんの態度に納得がいく。
最初は、叶夢君とサトシさん二人だけの方が叶夢君も話しやすいだろうという配慮かとも思った。もちろんそれもあるだろうけど、星さんが具合の悪そうなサトシさん一人に叶夢君を送って行かせるのはやっぱりらしくないと思えてしまった。
「うん、耀子ちゃんいい勘してるね」
「尚也さんのお母さんには会えたんですか?」
「それが見つからなくてさ。それより耀子ちゃん腹減ってない? あー病院の夕飯は6時だから、今から戻っても冷めちゃってるよ。とりあえず飯食って、話はそれから。さ、行こう」
星さんが連れていってくれたのは、小さなうどん屋さんだった。
「耀子ちゃん何にする? うどんがダメだったら、お粥とか雑炊とか、頼めば何でも出てくるから」
テーブル席が四つと、壁に向かってカウンター席がいくつかあり、奥の方に畳の席があった。
壁にかかった木札のメニューを見ながら、店の奥の畳の席に向かう。
星さんは釜玉うどんの大盛り、わたしはきつねうどんを頼んだ。
お客さんは親子連れと、作業着姿のおじさんが一人いるだけだ。
「星さん、わたしにまだ言ってないことがあるって言ってましたよね。それって……」
星さんは鼻の頭をポリポリとかいて、話そうかどうしようかと迷っているようだ。
しばらくして、星さんはポケットから小さな小瓶を取り出した。
一瞬ドキリとした。叶夢君から預かったあの小瓶かと思ったのだ。
でも違った。
透明な瓶は多分市販の薬の瓶で、何には色褪せた星型の折り紙が入っていた。
細長く切った紙の端を結ぶようにして五角形を作る。それをくるくると辺に合わせて追っていき、小さな五角形を作る。
辺の真ん中を爪で凹ませるとできる小さな立体の星。
小さい頃よく作って遊んでいたのを懐かしく思い出した。
「これ、耀子ちゃんがくれたの覚えてる?」
星さんは瓶の中の星を愛おしそうに眺める。
「わたしが、ですか?」
「今、燿子ちゃんが入院してる病院に、俺も子どもの頃何度か入院したことがあってさ。
小学校一年の時、人は死んだら星になるって言うのを絵本かなんかで見て、自分の名前がすっげー嫌いになってさ。俺は生きてるのに、病気ばっかで死んでるみたいだ。星なんて名前のせいだって、母さんと大げんかして家飛び出して。結局熱出して肺炎起こして入院。
その時、燿子ちゃんに会った。
死んだら星になるんだって。僕はすぐ死んじゃうから星なんて名前なんだって俺が言ったら、燿子ちゃんが、「でもお日様みたいに長生きするって書いてあるよ」ってベッドのとこに掛けてあった名札を指さして言ったんだ」
きっとまだ星っていう字が読めなかったんだな、その時のわたし。
「俺、すっごいびっくりしてさ。この子天才なんじゃないかって思ったよ。しかもお守りまでくれたんだ」
それがこの星の折り紙だった。
星さんに会ったことも、そんなことを言ったことも全く覚えていないけれど、その星には確かに見覚えがあった。
その当時流行っていたアニメ「星の子キッキ」。主人公のキッキが、魔法のステッキで幸せの星を出すのを真似していた時期があった。
新聞広告を細長く切ってもらって作った星を、ポーチに入れて持ち歩いていたっけ。
でもまさか、二十年も経って自分の作ったそれを目にするとは思わなかった。星さん、どれほど大切に持っていてくれたんだろう。きっと潰れないように瓶に入れて持っていてくれたんだ。
わたしは何も言えなくて、その小さな色褪せた黄色い星を見ていた。
「だからさ、燿子ちゃんは言わば俺の女神なんだよ。燿子ちゃんが気付いてないだけでさ、きっといっぱい誰かを幸せにしたり、喜ばせたりしてると思う。いなければ良かったなんて、そんなこと絶対ないから! それをずっと伝えたかった」
星さんはそう言って真っ直ぐにわたしを見ていた。
河川敷に降りる階段は手摺もなく急傾斜で、足を滑らせたら大変だ。
サトシさんは階段ではなく芝の上を滑るように降りて行く。
わたしがベンチのある場所までたどり着いた時には、もうサトシさんはグラウンドの向こう、数段降りた先の川になっている場所にいた。
誰かと話している。
紺色の雨合羽を着ているその人は、サトシさんより少し背が低いけれど大人の男性だった。
「水かさが上がってきたんで、釣り舟を引き上げに来たんだ。子どもは見てないなぁ」
雨の音にかき消されないように声を張り上げているのか、そんな声が聞こえてきた。
「あの傘は?」
「ああ、ありゃ儂が持って来たんだ。息子が小さい時に使ってたやつだよ」
叶夢君じゃなかった。
ほっとして体から力が抜ける。
その後、サトシさんはおじさんが舟を繋ぐのを手伝わされ、二人ともびしょ濡れになって車の所まで戻った。
その格好で車に乗せて貰うのも気がひけて、わたしたちは小学校まで歩いていこうとしたけれど、星さんのお母さんが構わないからと乗せてくれることになった。
サトシさんはどんどん顔色が悪くなるし、正直、サトシさんにこれ以上無理をさせたくない気持ちもあったのでとても助かった。
小学校に着く頃には時刻は夕方の6時を過ぎていた。
職員室にはまだ先生が残っていて明かりが点いている。
わたしとサトシさんは玄関まで送ってもらい、星さんのお母さんに何度もお礼を言って別れた。
「何かあったらいつでも連絡しなさいね。おばさん、サトシ君の親代わりのつもりなんだから、遠慮なんかしちゃだめよ!」
お母さんはサトシさんにそう言って、わたしにも今度ゆっくり遊びに来てねと、あたたかな笑顔を残して帰っていった。
星さんの家の今朝の食卓が思い出された。賑やかで、みんな地に足がついていて、押しても引いても倒れない。そんなしなやかな強さが感じられる。
きっと大丈夫だ。今はそう信じるしかない。
小さくなっていく車を見送りながらそう自分に言いきかせた。
サトシさんとわたしは保健室でタオルを借りて、職員室の隅で温かいお茶を飲んで星さんを待っていた。
学校の周囲は他の先生が探してくれているようで、時折連絡が入るがまだ叶夢君は見つかっていない。
それから数分後に星さんからメッセージが届いた。
学校に着いたと言うので、わたしとサトシさんは玄関へ向かった。
玄関に横付けされた車から、星さんが降りてくる。そして後部座席のスライドドアを開けたかと思うとそこにはなんと叶夢君がいた。
「星さんが叶夢君を見つけてくれたんですね。無事で良かった……」
「新聞社からサトシに何回も連絡がいってたみたいなんだけど、繋がらないって俺のとこに回ってきた」
「どういうことですか?」
「叶夢が、自分が給食に農薬を入れたんだって新聞社に言いに行ったみたいなんだ。けど、証拠もないし子どもの言うことを鵜呑みにもできない」
「なんで警察じゃなく新聞社に……?」
「明野農園《う ち》を救うため。叶夢が新聞社に来るちょっと前に、うちの名前と事件のことが匿名で新聞社のホームページに書き込まれてたらしい」
「そんな……」
「で、思ったんだけどコレ、単なる復讐とかそんなもんじゃない。うちを潰して利益を得る奴がいる」
わたしたちが話している間に、サトシさんは叶夢君のお母さんに連絡をして病院へ叶夢君を送って行くことになった。
「サトシ、着替え置いてある?」
星さんがサトシさんを振り返る。
「ジャージがある。燿子、貸してやるから着替えてこい」
サトシさんはわたしに向かってそう言っだけれど、サトシさんの方が着替えるべきだ。
「わたしはいい……」
「耀子ちゃんは俺がなんとかするから、先に病院行っといて」
星さんはそう言うとわたしを車に乗せ走り出した。
「どこ行くんですか?」
「先ずは着替えを用意しないと」
そう言って大通り沿いの店に車を停めた。衣類の全てが揃う世界的チェーン店だ。
「暖房つけとくから、ちょっと待ってて」
そう言って店内に入って行くと、しばらくして大きな袋を持って戻ってきた。
「お待たせ」
そして次はスーパー銭湯だった。
「ゆっくりあったまっておいで。あ、でものぼせないように! 倒れても女湯まで助けに行けないからさ」
こんなことしてる余裕あるんだろうか、そう思いながらも久しぶりにお風呂に入れるのは素直に嬉しい。
冷えきった体を温め、濡れた髪を乾かすとほっとして眠気すら湧いてきた。
星さんが選んでくれた洋服一式に着替えて出て行くと、雑誌を読んでいた星さんが顔を上げて親指を立てた。
「似合ってるよ」
スモーキーピンクのスエットパーカーにデニムのスカート。
ピンクの服は自分では買わないし、スカートも滅多に履かないから少し恥ずかしいのと、星さんが似合うと言ってくれたのが嬉しすぎるのとで、上気した頬がさらに熱くなる。
星さんはちょっと笑って、自販機でコーヒー牛乳を買ってきてくれた。
「風呂上がりはコレっしょ」
なんだかあんなに大変だった一日が嘘みたいに、星さんは落ち着いているし、コーヒー牛乳は冷たくて美味しい。
「サトシさんと別行動にしたのってもしかしてサトシさん……尚也さんに、聞かせたくない話があるっていうことですよね?」
何となく、そう考えてみれば、さっきの星さんの態度に納得がいく。
最初は、叶夢君とサトシさん二人だけの方が叶夢君も話しやすいだろうという配慮かとも思った。もちろんそれもあるだろうけど、星さんが具合の悪そうなサトシさん一人に叶夢君を送って行かせるのはやっぱりらしくないと思えてしまった。
「うん、耀子ちゃんいい勘してるね」
「尚也さんのお母さんには会えたんですか?」
「それが見つからなくてさ。それより耀子ちゃん腹減ってない? あー病院の夕飯は6時だから、今から戻っても冷めちゃってるよ。とりあえず飯食って、話はそれから。さ、行こう」
星さんが連れていってくれたのは、小さなうどん屋さんだった。
「耀子ちゃん何にする? うどんがダメだったら、お粥とか雑炊とか、頼めば何でも出てくるから」
テーブル席が四つと、壁に向かってカウンター席がいくつかあり、奥の方に畳の席があった。
壁にかかった木札のメニューを見ながら、店の奥の畳の席に向かう。
星さんは釜玉うどんの大盛り、わたしはきつねうどんを頼んだ。
お客さんは親子連れと、作業着姿のおじさんが一人いるだけだ。
「星さん、わたしにまだ言ってないことがあるって言ってましたよね。それって……」
星さんは鼻の頭をポリポリとかいて、話そうかどうしようかと迷っているようだ。
しばらくして、星さんはポケットから小さな小瓶を取り出した。
一瞬ドキリとした。叶夢君から預かったあの小瓶かと思ったのだ。
でも違った。
透明な瓶は多分市販の薬の瓶で、何には色褪せた星型の折り紙が入っていた。
細長く切った紙の端を結ぶようにして五角形を作る。それをくるくると辺に合わせて追っていき、小さな五角形を作る。
辺の真ん中を爪で凹ませるとできる小さな立体の星。
小さい頃よく作って遊んでいたのを懐かしく思い出した。
「これ、耀子ちゃんがくれたの覚えてる?」
星さんは瓶の中の星を愛おしそうに眺める。
「わたしが、ですか?」
「今、燿子ちゃんが入院してる病院に、俺も子どもの頃何度か入院したことがあってさ。
小学校一年の時、人は死んだら星になるって言うのを絵本かなんかで見て、自分の名前がすっげー嫌いになってさ。俺は生きてるのに、病気ばっかで死んでるみたいだ。星なんて名前のせいだって、母さんと大げんかして家飛び出して。結局熱出して肺炎起こして入院。
その時、燿子ちゃんに会った。
死んだら星になるんだって。僕はすぐ死んじゃうから星なんて名前なんだって俺が言ったら、燿子ちゃんが、「でもお日様みたいに長生きするって書いてあるよ」ってベッドのとこに掛けてあった名札を指さして言ったんだ」
きっとまだ星っていう字が読めなかったんだな、その時のわたし。
「俺、すっごいびっくりしてさ。この子天才なんじゃないかって思ったよ。しかもお守りまでくれたんだ」
それがこの星の折り紙だった。
星さんに会ったことも、そんなことを言ったことも全く覚えていないけれど、その星には確かに見覚えがあった。
その当時流行っていたアニメ「星の子キッキ」。主人公のキッキが、魔法のステッキで幸せの星を出すのを真似していた時期があった。
新聞広告を細長く切ってもらって作った星を、ポーチに入れて持ち歩いていたっけ。
でもまさか、二十年も経って自分の作ったそれを目にするとは思わなかった。星さん、どれほど大切に持っていてくれたんだろう。きっと潰れないように瓶に入れて持っていてくれたんだ。
わたしは何も言えなくて、その小さな色褪せた黄色い星を見ていた。
「だからさ、燿子ちゃんは言わば俺の女神なんだよ。燿子ちゃんが気付いてないだけでさ、きっといっぱい誰かを幸せにしたり、喜ばせたりしてると思う。いなければ良かったなんて、そんなこと絶対ないから! それをずっと伝えたかった」
星さんはそう言って真っ直ぐにわたしを見ていた。