私は萩本くんに案内されながら、マキビシさんのスタジオへと向かう。
 てっきりスタジオというのは、どこかのビルでレンタルしているものだと思っていたけれど、近付いてきた大きな住宅街の中の大きな家を見て、私は唖然としてしまった。
 庭には家庭菜園が広がり、季節の野菜が少しずつ成長している。大きな家は、私には三階建てに見える。

「あの……マキビシさん、家がすごい……」
「そりゃまあ。あの人。自分で曲を歌うだけでなく、あちこちのCMソングとかテーマソングとかでお金稼いでるから。あとあっちこっちで後進を育てるためのスクールもやっているから」
「そ……んな人が、私たちに曲をつくっていたの……?」
「でも家の大きさで、俺たちの歌の上手い下手って決まらないよね?」

 私がひとりで震えている中、萩本くんは相変わらずの強靱な心臓を見せてくれた。私が震えている中でも、「大丈夫大丈夫」と繋いだ手を上からきゅーっと握ってくれ、そのおかげで少しだけ落ち着いた。
 やがてチャイムを鳴らしたら、すぐにマキビシさんが出迎えてくれた。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「……お、邪魔、します……」
「あらぁ、【カイリ】さん怖がっちゃった?」
「えっと……すみませ、ん……」

 私と萩本くんが手を繋いでいることもスルーして、さっさとマキビシさんは家に上げてくれた。もうしばらくしたら、かなたんさんもやってくる。こちらは手土産に小さな箱に有名洋菓子店のドーナッツをふんだんに持ってきてくれた。

「こんにちはー。全員揃いましたか?」
「うん。先に収録する? それとも、お菓子をお腹に入れたほうが歌いやすいかな? ちなみに空腹じゃないと歌えない子も、空腹のほうが歌える子もどちらもいるから、歌いやすいほうを選んでね」

 そう言いながら、スタジオに入る前にリビングに通される。
 どうも今日はご家族は買い出しに行っているらしく、庭にあからさまに駐車スペースがあるにもかかわらず車が停まってない上に、あちこちに家族写真が立てられていた。
 マキビシさんは喉に関しては神経質になる萩本くんに気を遣ってか、出してくれたのは麦茶だった。
 私が返答に困っていたら、かなたんさんはクスクスと笑う。

「【カズ】くんは間違いなく、食べてからじゃないと歌えない子ですけどねえ。普段から唐揚げ無茶苦茶食べてますし」
「いや、ドーナッツとかも好きです。喉に脂が入れば別になんでも」
「ほらぁー。ちなみに【カイリ】さんはどっち?」
「ええっと……私、あんまりお腹空く空かないで調子は考えたことがなくって……」

 素直に薄情したら、萩本くんは指摘する。

「でも山中さん。緊張してるときに空腹だったら、余計に余計なこと考えるから、食べたほうがいいよ」
「うっ……」

 相変わらず神経の太い言動で、私は妙に納得して、「それじゃあ、先にいただきます……」と皆でドーナッツを食べはじめた。
 有名洋菓子店のドーナッツは、見た目はオーソドックスな形ながら、たしかに揚げてあるはずなのにしつこくない、卵の味が際立ったおいしさだ。そして意外なほどに麦茶と合う。
 食べてから、手を洗わせてもらってから、スタジオへと向かう。
 驚いたのは、スタジオは地下に存在したことだ。そもそも民家に地下室があるっていうのが珍しくて、私はひたすら挙動不審に辺りを見回してしまう。
 私があたふたしている中、かなたんさんが助け船を出してくれた。

「【カイリ】さん、珍しい? 地下にスタジオって」
「えっと……スタジオっていうと、ビルの中にあるものだとばかり思ってたんで、そもそも住宅街にスタジオがあるなんて、知らなくって……」
「わかるー。私も初めてマキビシさんと一緒に他の歌い手さんに曲提供する際に、収録どうしようって誘われたとき、びっくりしたから」
「防音加工はどこでだってできるけど、家族団らんの場所にスタジオつくりたくなかったんですよ。子供が悪戯しない場所って言ったら、駐車場潰してスタジオつくるか、地下に増設するかの二択になりまして。奥さんに駐車場潰したら実家に帰ると言われたので地下になりました」
「なるほど……」

 車を停めるスペースなくなったら、そりゃ怒るだろうしなあ。
 私はそう納得しながら、スタジオに入った。ここは動画なんかでもよく見るような、ウッドテイストの部屋で、不思議と音が広がるような気がする。
 音の調整機械。マイクの収録室。本当に本格的だなあ。

「それじゃあ、先にどっちから収録する?」

 マキビシさんに促されてたら、萩本くんが「【カイリ】さん」と声をかけてきた。

「じゃんけん。最初はグー」
「えっと……じゃんけん」

 私はパー。萩本くんはチョキ。
 萩本くんは気怠げにチョキを出したまま「俺が行きます」とマスクを外した。
 ガラス一枚隔てた収録室にスタスタと向かって、マイクの電源を入れる。

「それじゃ、音楽お願いします」
「はい」

 途端に、先程までのドーナッツと麦茶を皆で囲んでいたまったりとした空気は、すぐに引き締まった。
 萩本くんは双眸を細め、存外に長い睫毛を見せつけるようにしてマイクを睨むと、歌を歌いはじめた。
 私は再生の歌だと思った歌は【カズスキー】さんにかかると、真夏の気怠げな空気と一緒に寂しさを纏わせるお別れの歌に聴こえる。あれだけヒマワリが咲き誇っていたのが一転、晩夏に入った途端に悲しくなってくる。
 すごいなあ。同じ曲でも、こんなに変わるんだ。
 表現力もアプローチも、これだけ変わるんだ。その引き出しに、私はついつい羨ましくなる。やがて、曲は余韻を残して終わりを迎える。曲を聴きながら抉られた部分はそのままに。

「どうでしたか?」

 萩本くんが振り返ると、腕を組んでマキビシさんは考え込むそぶりを見せる。隣に座っていたかなたんさんは「すごかったよ」と声をかけてくれた。

「歌詞のイメージから、ヒマワリをここまで曇らせるなんて!」
「それ、褒めてますか?」
「どうしてもヒマワリって夏真っ盛りってイメージが拭いきれないから。でも本物のヒマワリだって、お盆シーズンに入ったらもう枯れかけてるのにねえ。夏の半分も乗り切れない」

「まあ……そうですね」

 かなたんさんの言葉に萩本くんが相槌を打っている間に、「【カイリ】さん」とマキビシさんに声をかけられる。

「は、はい……」
「次入って。【カズスキー】くんのアプローチはあくまで彼のものだから。【カイリ】さんは【カイリ】さんのアプローチで歌って」
「は、はい……!」

 後攻で入ると、ついつい萩本くんの歌と比べちゃうなあ。でも。
 私が前に萩本くんに伝えたアプローチを思い返す。
 晩夏を悲しいだけのものにはしたくないなあ。そう思ったら、自然と声が出た。
 普段はさんざんウィスパーボイスだって言われているけれど、気のせいか今日はずいぶんと明るい歌声になったような気がする。自分でも人に聴かれたときの反応までは操れないから、どう取られるのかは不安だ。
 やがて。曲が終わる。もっと歌っていたかったなという気分だけを残して。
 ガラス越しに皆を見ると、相変わらずかなたんさんは「すごい!」と言いながら拍手を送ってくれる。一方で萩本くんは既にマスクを付けているものの、少しばかり目を丸くしているように見える。腕を組んでいたマキビシさんは、背中を少し伸ばした。

「君たち面白いねえ……前の曲もだけれど、今回も曲のアプローチが真逆で。ヒマワリが枯れて種だけ残ったという歌詞だと、だいたいお盆の空気が漂って、死臭漂うイメージになっちゃうのに」
「もう! 私さすがにそこまでは考えてませんってば!」

 作詞担当のかなたんさんが抗議すると、マキビシさんは「ごめんごめん」と笑う。

「でも……君たち本当に面白いねえ」

 そうしみじみと言われてしまった。

****

 その日、私たちが普段聴いている曲や好きな歌手の話をたくさんした。
 私なんてほとんど耳で覚えていて、曲でろくに覚えていないのに、萩本くんも含めて皆詳しい。そりゃマキビシさんもかなたんさんもプロだから当然だけれど、ふたりについていける萩本くんも相当だ。

「しかしあれだねえ……本当だったら【カズスキー】くんにはすぐにでもプロになれって言いたいところだけれど。君の顔が出せないっていう奴。あれ絶対に事務所所属になったらあれこれ口出される奴だからねえ」
「はい……それが原因で、ときどきスカウトの連絡もらっても、断ってました」
「うん。芸能界に直接入るとなったら、どうしても心身のどれかを削ることになるからねえ」

 マキビシさんはそうしみじみと言う。かなたんさんは「ちなみに【カイリ】さんは?」と尋ねられ、私は思わず首を振った。

「わ、たしは……【カズスキー】さんほど歌上手くないですし、知名度もそこまでありませんから……」
「そう? 【カイリ】さんのウィスパーボイスだったら、たしかにメジャー路線はいけないかもしれないけれど、CMソングとかに一定需要があると思うよ? そこだったら、たくさん歌わないといけないけど、顔出しもそこまで必要じゃないし」
「なるほど……」

 歌を歌うっていうのは、人気歌い手さんみたいにコンサートをする、ライブをするっていうのばかり考えていたけれど、そういう抜け道もあったんだ。
 そろそろ夕方だしと、マキビシさん宅を後にするとき、「デビューしたいってときは相談に乗るよ」とふたりが言ってくれたのにお礼を言いながら、手を繋いで帰って行った。
 空は金色で、目を細めないと目を開けてられない。暑いのに手を繋いでくれる萩本くんの手の温度を感じながら、私は言った。

「すごかったね。マキビシさん家。びっくりしちゃった」
「うん。ご家族いるから、家で仕事できるようにって改装したんだと。仕事のトラブルで奥さんの出産に立ち会えなかったのが嫌だったから、それに懲りてスタジオを自前にしたんだと」
「ふーん」
「ねえ、山中さんは歌で食べていきたいって思う?」

 そう尋ねられて、私は目をパシパシとさせる。
 私たちはまだ高校生だ。大人の都合で、いきなり高校三年生から大人ですって言われてしまったけれど、まだ二年も猶予があるし。
 そもそも高校を出たあとは、大学に行って就職するっていう当たり前なことを考えていた私は、自分が歌って稼ぐという選択肢があったということを、今日言われるまで気付かなかった。

「考えたこともなかったから、少しびっくりしている」
「……そう」
「萩本くんは? もうあちこちで歌っているじゃない。お金はもらっていたの?」
「一応は。でも本当に微々たるものだし、確定申告も自力でできるくらいしか稼いでない」
「かくていしんこく……」
「税金のことってちゃんとしてないと、親に迷惑かけるから」

 私は一学期の時点で、拗ねてしまっていた。
 既に地元グループができてしまって、どこのグループにも溶け込めそうもなかった上に、クラスメイトの人数が多過ぎて、顔と名前が一致せず、どうすればいいのかなんてわからなかった。
 ただ私と同じようにぼーっとしていると思っていた萩本くんは。既に私と同い年で将来について見据えていたなんて、考えだにしていなかった。

「私、もっとちゃんとしたいなあ」
「山中さんは充分してるでしょ」
「そうかもしれないけれど、どれだけじゃなくって……」
「そういえば、海に行かない?」

 話の流れ。全然合ってない。
 唐突過ぎる提案に、私は黙り込んでいたら、金色の夕日を浴びながら、萩本くんは私に言った。

「一緒に海を見たいんだ」