もう十数年、顔を見ていない。
私の記憶にあるその人は、いい加減な人で、当時は分からなかったけれど、もしかすると育児放棄に近いものもあったのかもしれない。
世間一般の家庭育つ子供のように、たまに遊びには連れて行ってもらった。
記憶の限りでは中学を卒業するまで三回、お出かけをした。
新潟の湯沢温泉、沖縄の美ら海水族館、新潟の佐渡ヶ島。
その全部は楽しかったけれど、それが楽しかったからこそ、普段の母親の姿が惨めに見えた。
小学三年の時、母親は私にぽつりと言った。
初めて聞いた、世界で一番悲しい言葉だった。
「どうしてあんたなんか産んだんだろうね」
力のない言葉だった。
月明りすらも差さない部屋で俯いて、決して顔を上げることはない。それは本心から出た言葉だと証明していた。
私は何も言えなかった。
その代わり、心の中で「わたしもママの子供になんかなりたくなかった」と、反射的に思ってしまった。
父親もいないのに、たった一人の親に否定された気分だった。
その頃の私には分からなかった。
だって小学生といえば、全て自分が中心の世界に生きている。
自分に気に食わないことがあれば、耳を塞いで聞こえないふりをするし、目を瞑って見えないふりをする。
母親の口から意識なく、泥のように溢れる私を産んだ後悔を、私は聞こえないふりをした。
母親の無意識な行動。夜な夜な、旅行の思い出の写真をフォルダから削除する姿を、目を瞑って見ないふりをした。
でも、聞こえないふりをしても、見えないふりをしても、やっぱり心の奥の底には届いていた。
やがて私は母親のことを心底嫌うようになり、中学を卒業した直後に家出した。
それから先の五年間は苦しいものだった。
中卒の年収はたかが知れていた。しかも田舎だ。
寝るに困り、食うに困った。
何度も死にたくなった。
でも、家で寝るまで母親が言う「産まなきゃよかった」を聞き続けるよりは、ずっと楽だ。
そう言い聞かせて頑張って働いた。
そんな私だけど、その職場である男性と出会った。
私よりも六つ上で、聞き上手で、何でもできちゃう人。
別に顔は好みではなかったし、性格もタイプではなかったけれど、その人に惹かれた。
そして結婚した。
さらに子宝にも恵まれ、可愛い女の子が産まれた、
のだけれど、そんな幸せも長くは続かず、夫は事故死をした。
享年二十七歳だった。
残ったのは私と、三歳の娘だけ。
気づけば私はあの人と同じ、シングルマザーになっていた。
頼れる伝手《つて》もなく、施設を利用するお金もない。
仕方なく、家に娘を置いて一人で仕事に行くことにした。
でも、しんどくて、しんどくて、しんどくて。
仕事を辞めたくて、育児を辞めたくて、人生をやめたくなって。
どうしようもなくなって、娘が三歳を迎えたある日、私は娘を抱きかかえて夜の海へと向かった。
荒れる海、髪を吹き荒らす強風。
冬の日本海は極寒だ。しかも波も高いから、死ぬにはもってこいの日。
私はようやく解放されると、ゆっくりと水面に足を付けた。
波が足をさらって、転んで尻もちをついた。でも、丁度いい。
そのまま娘を抱きかかえたまま、私は海に引きずりこまれていた。
飛沫が顔にかかる。
波にのまれる瞬間、走馬灯がよぎった。
もう十年も前のことだ。
忘れたくて、ずっと脳の奥の方に追いやっていた記憶。
『なんであんたなんか産んだんだろうね』
同じように、私も娘に対して思っていた。
なんでお前なんか産んだんだろうなって。
でも、今、分かった。
やっと今、分かった。
どうしようもなくしんどくて、頼れる人もいなくて、ずっと一人で私を支えようとしていてくれたんだって。
どうしようもなく辛かったんだって、苦しかったんだって。
そうして、今、気づいた。
腕の中で溺れて息をしていない、うっとおしくて堪らないこの子が、世界一大切な私の宝物だったって。
気づいて、私は急いで砂浜へと戻った。
たった数メートルの海が、しける波のせいで三十分もかかった。
その頃には私の身体は極限まで冷え切って動かなくなって、娘はもう、この手の中にはいなかった。身体だけが腕に残されていた。
気づくのが遅かった。
どうしようもなく苦しかっただなんて。
そう言ってくれればよかったのに。
葬式を終えて、娘に関することを一通り終えた私は、母親を訪問した。
しかし既に母親は引っ越していて、家のあった近隣の人は誰も知らず、母親についての情報を見つけるのには五年もかかった。
私の記憶にあるその人は、いい加減な人で、当時は分からなかったけれど、もしかすると育児放棄に近いものもあったのかもしれない。
世間一般の家庭育つ子供のように、たまに遊びには連れて行ってもらった。
記憶の限りでは中学を卒業するまで三回、お出かけをした。
新潟の湯沢温泉、沖縄の美ら海水族館、新潟の佐渡ヶ島。
その全部は楽しかったけれど、それが楽しかったからこそ、普段の母親の姿が惨めに見えた。
小学三年の時、母親は私にぽつりと言った。
初めて聞いた、世界で一番悲しい言葉だった。
「どうしてあんたなんか産んだんだろうね」
力のない言葉だった。
月明りすらも差さない部屋で俯いて、決して顔を上げることはない。それは本心から出た言葉だと証明していた。
私は何も言えなかった。
その代わり、心の中で「わたしもママの子供になんかなりたくなかった」と、反射的に思ってしまった。
父親もいないのに、たった一人の親に否定された気分だった。
その頃の私には分からなかった。
だって小学生といえば、全て自分が中心の世界に生きている。
自分に気に食わないことがあれば、耳を塞いで聞こえないふりをするし、目を瞑って見えないふりをする。
母親の口から意識なく、泥のように溢れる私を産んだ後悔を、私は聞こえないふりをした。
母親の無意識な行動。夜な夜な、旅行の思い出の写真をフォルダから削除する姿を、目を瞑って見ないふりをした。
でも、聞こえないふりをしても、見えないふりをしても、やっぱり心の奥の底には届いていた。
やがて私は母親のことを心底嫌うようになり、中学を卒業した直後に家出した。
それから先の五年間は苦しいものだった。
中卒の年収はたかが知れていた。しかも田舎だ。
寝るに困り、食うに困った。
何度も死にたくなった。
でも、家で寝るまで母親が言う「産まなきゃよかった」を聞き続けるよりは、ずっと楽だ。
そう言い聞かせて頑張って働いた。
そんな私だけど、その職場である男性と出会った。
私よりも六つ上で、聞き上手で、何でもできちゃう人。
別に顔は好みではなかったし、性格もタイプではなかったけれど、その人に惹かれた。
そして結婚した。
さらに子宝にも恵まれ、可愛い女の子が産まれた、
のだけれど、そんな幸せも長くは続かず、夫は事故死をした。
享年二十七歳だった。
残ったのは私と、三歳の娘だけ。
気づけば私はあの人と同じ、シングルマザーになっていた。
頼れる伝手《つて》もなく、施設を利用するお金もない。
仕方なく、家に娘を置いて一人で仕事に行くことにした。
でも、しんどくて、しんどくて、しんどくて。
仕事を辞めたくて、育児を辞めたくて、人生をやめたくなって。
どうしようもなくなって、娘が三歳を迎えたある日、私は娘を抱きかかえて夜の海へと向かった。
荒れる海、髪を吹き荒らす強風。
冬の日本海は極寒だ。しかも波も高いから、死ぬにはもってこいの日。
私はようやく解放されると、ゆっくりと水面に足を付けた。
波が足をさらって、転んで尻もちをついた。でも、丁度いい。
そのまま娘を抱きかかえたまま、私は海に引きずりこまれていた。
飛沫が顔にかかる。
波にのまれる瞬間、走馬灯がよぎった。
もう十年も前のことだ。
忘れたくて、ずっと脳の奥の方に追いやっていた記憶。
『なんであんたなんか産んだんだろうね』
同じように、私も娘に対して思っていた。
なんでお前なんか産んだんだろうなって。
でも、今、分かった。
やっと今、分かった。
どうしようもなくしんどくて、頼れる人もいなくて、ずっと一人で私を支えようとしていてくれたんだって。
どうしようもなく辛かったんだって、苦しかったんだって。
そうして、今、気づいた。
腕の中で溺れて息をしていない、うっとおしくて堪らないこの子が、世界一大切な私の宝物だったって。
気づいて、私は急いで砂浜へと戻った。
たった数メートルの海が、しける波のせいで三十分もかかった。
その頃には私の身体は極限まで冷え切って動かなくなって、娘はもう、この手の中にはいなかった。身体だけが腕に残されていた。
気づくのが遅かった。
どうしようもなく苦しかっただなんて。
そう言ってくれればよかったのに。
葬式を終えて、娘に関することを一通り終えた私は、母親を訪問した。
しかし既に母親は引っ越していて、家のあった近隣の人は誰も知らず、母親についての情報を見つけるのには五年もかかった。