日も暮れた夜。壁際に有る灯りに照らされながら、トオゥは白い布に刺繍を施す。静かな部屋の中で、糸が布に擦れる音だけが微かに聞こえる。
ふと、窓の方から物音がした。何かを思う間もなく窓の方を向くと、猫の鳴き声が聞こえてきて、何事もないのだというのがわかった。
そう、何事もないのだ。窓を見つめたまま、トオゥは手を止め、物思いに耽る。ここひとつきほどだろうか、今まで数日に一回は自分の元にやって来ていた夢魔を見掛けていない。そう。日出ずる国から氷のような翡翠を持ってきたなら、嫁いでもいいと言ったあの日から、すっかり姿を見せなくなったのだ。
さすがに飽きたのか、それとも自分に愛想を尽かしたのか。トオゥはそう考えてから頭を振る。だからどうしたというのだろう。あの夢魔のことを、自分は厄介だと思っていたはずだし、来なくなったのならそれに超したことはない。けれども何かが心に引っかかった。
あの夢魔は、ほんとうに日出ずる国へ行ったのではないか。そんな考えが頭を過ぎる。けれどもトオゥはその考えを否定する。そんなはずはない。自分のようななんの取り柄もない女のために、娘の精気を食べて生きるという夢魔がそんな事をしてなんの益があると言うのだろう。
もし益があるとするのならば、この家の財産くらいの物。実際に、この家の財産欲しさにトオゥに求婚する男はいるにはいる。しかし、夢魔に人間の財産が魅力的に映るとは思えない。
やはりあの夢魔は自分に飽きたのだ。そこに思い至ると、何故だか視界が滲んだ。
それから、何日、何ヶ月、何年経っても夢魔はトオゥの元に現れなかった。窓の外で物音がする度そこを見ても、なんの人影も無いのだ。
なぜいつまでも、自分はあの夢魔のことを気にしているのだろうと、トオゥは思う。きっとあれは自分に飽きただろうのに。そして、自分ももう若くはないだろうのに。
取り柄もない、飛び抜けて美しくもない自分の元に求婚しに来る男は、みな財産目当てだ。お見合いの時に男達が話すのは、両親とばかり。トオゥには目もくれない。けれども、トオゥにも自尊心はある。自分を蔑ろにするような男との婚姻は、頑として受け入れなかった。
月日だけが過ぎていく。
トオゥにはもはや若さという物すら残されていなかった。夢魔が訪れていた時に比べて、随分と手の皺が増えた。肌の瑞々しさも、心許なくなった。
すっかり近所では気難しい行き遅れとして噂されるようになり、財産目当ての求婚も減ってきた。お見合いの回数が減ったことは、別に負担では無い。むしろ心が軽いくらいだ。
布に刺繍を施し、それを売り、財を蓄える。そんな日々を送るトオゥの元に、久方ぶりに求婚者がやって来たという。両親の話では、若々しく物腰の柔らかな青年で、トオゥのために手土産も持ってきているという。
そんな若い男が求婚してくるだなんて、きっとまた財産目当てに違いない。訝しがりながら、トオゥは華やかな衣装に着替え、両親に案内されるままに、求婚者が待っているという応接間へと向かう。
きっとまた、自分を放ったまま両親と話でもするのだろうなと思いながら応接間に入り、そこで待っていた人物を見て、トオゥは目を疑った。
「トオゥ、久しぶり」
にっこりと笑って声を掛けてきたその男は、以前よりもしっかりとした顔つきになった、あの夢魔だった。
トオゥは向かいの倚子に座り、呆然としたまま問いかける。
「……今更、なにをしに来たの」
震えて、掠れたその声に応えるように、夢魔は小さな螺鈿の箱を取りだし、蓋を開けてみせる。その中には白く透き通った、歪な形の石が入っていた。
「氷のような翡翠を、日出ずる国から持ってきたよ。
だから、約束通りお嫁さんになってくれないかな」
まさか、本当に日出ずる国へ行っているとは思わなかった。トオゥは頼りなく手を伸ばして、その箱を受け取る。受け取って、間近でその石を見て、今までたくさん来た求婚を全て断っていた本当の理由に気づいた。
目から涙が止めどもなく零れてくる。その様子を見て、夢魔はもう一度言う。
「僕のお嫁さんになってくれる?」
トオゥはなにも言わず、頷くことしか出来なかった。しゃくり上げながら何度も頷いて、ただただ泣いていた。
それから数日経って。トオゥは夢魔に連れられて、街から少し離れた所に有る山を訪れた。麓には村があって、明るいうちであるのなら、女ひとりでも人気のある所へ出られるという場所だ。
山の中にある洞穴へと、トオゥと夢魔と、夢魔の弟とで、トオゥがこれからここで暮らすために必要な物を運び込んだ。荷物自体はそんなに多くは無い。多少の着替えと、布団と、刺繍の道具くらいの物だ。トオゥの両親は持参金を持たせようとしたのだが、それはいらないと、夢魔が断った。その代わりに、夢魔が住む山で暮らすことになったのだ。
これから不便な生活になるけれど。夢魔はそう言ったけれど、トオゥはそれでも構わないと、そう返す。
これからの多少の不便など、日出ずる国へ行き、何年も苦労することになった夢魔ほどの決意が必要なわけでは無いのだから。
ふと、窓の方から物音がした。何かを思う間もなく窓の方を向くと、猫の鳴き声が聞こえてきて、何事もないのだというのがわかった。
そう、何事もないのだ。窓を見つめたまま、トオゥは手を止め、物思いに耽る。ここひとつきほどだろうか、今まで数日に一回は自分の元にやって来ていた夢魔を見掛けていない。そう。日出ずる国から氷のような翡翠を持ってきたなら、嫁いでもいいと言ったあの日から、すっかり姿を見せなくなったのだ。
さすがに飽きたのか、それとも自分に愛想を尽かしたのか。トオゥはそう考えてから頭を振る。だからどうしたというのだろう。あの夢魔のことを、自分は厄介だと思っていたはずだし、来なくなったのならそれに超したことはない。けれども何かが心に引っかかった。
あの夢魔は、ほんとうに日出ずる国へ行ったのではないか。そんな考えが頭を過ぎる。けれどもトオゥはその考えを否定する。そんなはずはない。自分のようななんの取り柄もない女のために、娘の精気を食べて生きるという夢魔がそんな事をしてなんの益があると言うのだろう。
もし益があるとするのならば、この家の財産くらいの物。実際に、この家の財産欲しさにトオゥに求婚する男はいるにはいる。しかし、夢魔に人間の財産が魅力的に映るとは思えない。
やはりあの夢魔は自分に飽きたのだ。そこに思い至ると、何故だか視界が滲んだ。
それから、何日、何ヶ月、何年経っても夢魔はトオゥの元に現れなかった。窓の外で物音がする度そこを見ても、なんの人影も無いのだ。
なぜいつまでも、自分はあの夢魔のことを気にしているのだろうと、トオゥは思う。きっとあれは自分に飽きただろうのに。そして、自分ももう若くはないだろうのに。
取り柄もない、飛び抜けて美しくもない自分の元に求婚しに来る男は、みな財産目当てだ。お見合いの時に男達が話すのは、両親とばかり。トオゥには目もくれない。けれども、トオゥにも自尊心はある。自分を蔑ろにするような男との婚姻は、頑として受け入れなかった。
月日だけが過ぎていく。
トオゥにはもはや若さという物すら残されていなかった。夢魔が訪れていた時に比べて、随分と手の皺が増えた。肌の瑞々しさも、心許なくなった。
すっかり近所では気難しい行き遅れとして噂されるようになり、財産目当ての求婚も減ってきた。お見合いの回数が減ったことは、別に負担では無い。むしろ心が軽いくらいだ。
布に刺繍を施し、それを売り、財を蓄える。そんな日々を送るトオゥの元に、久方ぶりに求婚者がやって来たという。両親の話では、若々しく物腰の柔らかな青年で、トオゥのために手土産も持ってきているという。
そんな若い男が求婚してくるだなんて、きっとまた財産目当てに違いない。訝しがりながら、トオゥは華やかな衣装に着替え、両親に案内されるままに、求婚者が待っているという応接間へと向かう。
きっとまた、自分を放ったまま両親と話でもするのだろうなと思いながら応接間に入り、そこで待っていた人物を見て、トオゥは目を疑った。
「トオゥ、久しぶり」
にっこりと笑って声を掛けてきたその男は、以前よりもしっかりとした顔つきになった、あの夢魔だった。
トオゥは向かいの倚子に座り、呆然としたまま問いかける。
「……今更、なにをしに来たの」
震えて、掠れたその声に応えるように、夢魔は小さな螺鈿の箱を取りだし、蓋を開けてみせる。その中には白く透き通った、歪な形の石が入っていた。
「氷のような翡翠を、日出ずる国から持ってきたよ。
だから、約束通りお嫁さんになってくれないかな」
まさか、本当に日出ずる国へ行っているとは思わなかった。トオゥは頼りなく手を伸ばして、その箱を受け取る。受け取って、間近でその石を見て、今までたくさん来た求婚を全て断っていた本当の理由に気づいた。
目から涙が止めどもなく零れてくる。その様子を見て、夢魔はもう一度言う。
「僕のお嫁さんになってくれる?」
トオゥはなにも言わず、頷くことしか出来なかった。しゃくり上げながら何度も頷いて、ただただ泣いていた。
それから数日経って。トオゥは夢魔に連れられて、街から少し離れた所に有る山を訪れた。麓には村があって、明るいうちであるのなら、女ひとりでも人気のある所へ出られるという場所だ。
山の中にある洞穴へと、トオゥと夢魔と、夢魔の弟とで、トオゥがこれからここで暮らすために必要な物を運び込んだ。荷物自体はそんなに多くは無い。多少の着替えと、布団と、刺繍の道具くらいの物だ。トオゥの両親は持参金を持たせようとしたのだが、それはいらないと、夢魔が断った。その代わりに、夢魔が住む山で暮らすことになったのだ。
これから不便な生活になるけれど。夢魔はそう言ったけれど、トオゥはそれでも構わないと、そう返す。
これからの多少の不便など、日出ずる国へ行き、何年も苦労することになった夢魔ほどの決意が必要なわけでは無いのだから。