ガラン、ガラン。
賽銭箱の上に垂れ下がっている汚れた鈴緒を力いっぱい引っ張ると、ところどころ錆びて黒くなった大きな鈴が鈍い音で鳴る。
おばあちゃんがくれたちりめん柄のがま口財布からプラスチックの百円玉を取り出すと、天河 彩寧はそれにしっかりと願を込めてから、賽銭箱に投げ入れた。
「どうか、どうか、パパとママが前みたいに仲良くなりますように」
顔の前で小さな手を合わせてぎゅっと目を閉じると、彩寧はこれでもう何度目になるかわからないお願い事をつぶやいた。
横浜の自宅から田舎のおばあちゃんの家に来て、今日で二週間。
おばあちゃんは忙しそうで、夏休みやお正月の帰省のときほど彩寧に構ってくれないし、ママは一日中パソコンやスマホを睨んでばかりで話しかけ辛い。
暇を持て余してひとりで外を彷徨いていたとき、彩寧はおばあちゃんの家の裏山に小さな古い神社を見つけた。
朽ちた木製の鳥居は微妙に傾いていてるし、小さなお社を守っている二匹の石の狛犬には、ところどころ深緑の苔が生えている。いつ建てられたものなのか、お社は古くてボロボロだし、賽銭箱の上に垂れ下がる鈴は錆びてくたびれている。
初めて訪れたその場所は、少し怖いところのように見えた。
緑色の木々に守られるようにひっそりと社を構えている神社の鳥居の前で、前にも後ろにも進めずに立ち尽くしていると、不意に強い風が吹いてきた。
ザザァーッと木々の葉が一斉に音をたてて揺れ、風が過ぎたあとに異様なほどの静寂が訪れる。
空気が……、世界の境界が変わったのが、幼い彩寧にもわかった。どうしようもなく、身体が芯から震えた。
それが恐怖からくるものなのか、それとも全く別のものなのかはわからない。
ただ、一歩でも前に踏み出せば、そのまま静寂の世界に飲み込まれてしまいそうな気がして。彩寧は神社に背を向けると、全力疾走でおばあちゃんの家へと駆け戻った。
「ああ、あそこは古くからこの辺りを護ってくれてる氏神様の神社なんだよ」
家に戻ってから彩寧が古い神社のことを訊ねると、おばあちゃんがそんなふうに教えてくれた。
「最近はこの辺りもおばあちゃんみたいな年寄りばかりだから、なかなか手入れやお詣りに行けなくなってしまって、すっかり寂しくなってたでしょう。商売、健康、学問、恋愛、いろんなご利益があるってことで、昔はお詣りに来る人も多かったんだけどねえ」
「ご利益って?」
「そうだねえ。お願い事が叶うってことかな」
「お願い事……」
おばあちゃんの話を聞いてから、彩寧は毎日欠かさず神社にお詣りに行くようになった。彩寧には、どうしても神様に叶えてもらわなければならないお願い事があったのだ。
二週間前、もともとあまり仲の良くなかった彩寧の両親が今まで一番の大喧嘩をした。
何が原因で、どっちが悪いのかはわからないが、大喧嘩のあと、ママは彩寧を連れて田舎のおばあちゃんの家に逃げだした。
ママはとても怒っていて、「パパとはもう一緒に暮らせない」と言っている。
彩寧はママのことが大好きだけど、パパのことも同じくらいに大好きだった。だから、このままパパに会えなくなるのは悲しいし、一緒に暮らせなくなるのはもっと悲しい。家族がバラバラになってしまうのは絶対に嫌だった。
それで、彩寧は毎日のようにお詣りに来て神様に祈っているだが……。彩寧がどれだけお賽銭を投げて祈っても、パパとママは仲直りをしてくれない。
どうすれば神様はお願い事を叶えてくれるのだろうか。
そう思っておばあちゃんに訊いたら、「境内をお掃除したり、手入れしてあげたら、神様も喜んでくださるかもねえ」と言うので、境内に置いてあった柄の歪んだ竹箒で掃除をしたり、おばあちゃんの家から持ってきた古布で苔の生えた狛犬の体を拭いてみたりした。
だけど彩寧の頑張りが足りないのか、お詣りを始めて二週間が過ぎても未だに願いは叶わない。
「神様、どうかお願いします」
今日も両手を合わせて一生懸命にお願いしていると、チリンと小さな鈴の鳴る音がして、彩寧の髪がふわりと風に揺れた。
「おまえ、近頃毎日ここに来てるな」
突然に話しかけられた彩寧は、ビクッとして目を開けた。両手を胸の前でくっつけたまま振り向いて、さらにびっくりする。
さっきまでたしかに誰もいなかったはずなのに。彩寧の隣に男の子が立っていたのだ。
年は彩寧と同じくらいのようだが、男の子は彩寧が見たこともないような変わった格好をしている。
彩寧が通う小学校の男の子たちはTシャツに細身のズボンを履いている子がほとんどなのに、隣に立っている男の子は濃い青の着物みたいな上着を着て、長いスカートのような、裾が大きく広がったズボンを履いているのだ。
よく見ると、足元は草履で、左足首に結んだ赤い紐には小さな金の鈴が付いている。
男の子の髪の毛はつやつやと光る銀色で、目は綺麗な青紫だった。
「そんなに大切なのか? おまえの願い事」
男の子が彩寧の目をジッと覗き込んでくる。男の子の青紫の瞳は綺麗だけれど、その双眸が彩寧心の中までを覗き込もうとしているようで、少し怖かった。
「大切だよ、すっごく大切。だからどうしても、神様にわたしのお願い事を聞いてもらわないと困るの」
「ふーん」
男の子が頷くと、チリンと鈴の鳴る音がする。
「だったら、おれからも神様に頼んでやろうか」
「え? もしかして、あなた、神様と知り合いなの?」
「まぁな」
「すごい!」
目を輝かせる彩寧を見て、男の子がふっと大人びた表情で笑う。
「ねえ。神様にお願いをきいてもらうには、どれくらいお金が必要? わたし、お財布にたくさん持ってきてるの」
彩寧は興奮気味にそう言うと、がま口の財布を開いてみせた。そこには、おもちゃ銀行のお札や硬貨がいっぱいに入っている。彩寧の全財産だった。
「そんなおもちゃ、必要ない」
「お金、いらないの?」
おばあちゃんが、お願い事をするときには《お賽銭》が必要なんだと言っていたのに。
彩寧が財布の中のプラスチックと厚紙のお金に視線を落とすと、男の子がバカにするように顔をしかめた。
「いらない。そんなものに価値はない。それより……」
男の子が彩寧の左手をつかむ。そのまま強く引っ張られたせいで、がま口財布が落ち、おもちゃのお金が地面に散らばった。
「お前、名前は?」
「彩寧」
名前を言うと、男の子が彩寧の顔を値踏みするようにじろりと見てきた。
「おれから神様に口添えするにあたって、ひとつ条件がある」
「条件?」
「彩寧、おまえ、おれの嫁になれ」
少し横柄で、乱暴な言い方だった。
「え?」
意味が分からず目をぱちくりとさせていると、男の子が彩寧の左手を口のそばまで持ち上げる。
「どうする? おれの嫁になるか?」
嫁って、お嫁さんのことだよね……。この男の子は、わたしと結婚したがってるってこと?
「大きくなったら結婚しようね」という約束なら、彩寧も幼稚園の頃に男の子の友達としたことがある。何の拘束性もない、その場限りの口約束だったけど、彩寧とその男の子は戯れにでも「結婚しようね」と言い合えるくらいには仲良しだった。
だけど、今、目の前にいる男の子は、名前も知らない初めて会った子だ。そんな子に、少し高圧的な態度で「嫁になるか?」と訊かれても、ただただ戸惑いしかない。
「あなたはどうしてわたしにお嫁さんになってほしいの?」
彩寧が困り顔で訊ねると、男の子は賽銭箱の向こうの社の奥のほうに視線を向けた。
「力が、必要だからだ」
「力?」
「おまえが嫁になることを誓うなら、おれが願いを叶えるための力を貸してやる」
「願いを叶える……?」
男の子が社の奥に向けていた視線を彩寧に戻す。
やや目尻の上がった、意志の強そうな青紫の瞳。その瞳の鋭さと美しさに、彩寧の身体が芯から震えた。
その感覚は、彩寧が初めてこの神社を訪れたとき、突風のあとの静寂の中で感じたものとよく似ていた。
唐突に彩寧の前に現れた、不思議な格好をした綺麗な男の子。この子はきっと、限りなく神様に近い存在なのだ。それは、疑いようのない事実に思えた。
「いいよ。あなたのお嫁さんになる」
少し考えてから、彩寧は男の子の着物の袖をぎゅっと握った。
彩寧は、どうしても神様にお願い事を叶えてもらいたかった。パパとママに、仲良くしてもらいたかった。
男の子の「お嫁さんになる」と口約束するだけで神様に願いが届くなら、それほど容易いことはないと思った。