「そのように焦るでない。ここは狭く、暗く、寒い。わらわは一人きりだ。わらわと話しをしてくれるものなど、ここ数十年誰一人としていなかった」

「……でも」

「心配せずとも、ぬしが言ったようなことは起こりはせん。父親には大層愛されていたようだなぁ? ここへ送られてくる花贄は心を失ってしまった者が大半だが、ぬしの心はまだ生きておる。ふふ、ふふふふ、面白い」

 この″妖”は、一体どこまで見えているのだろうか、と背筋が冷たくなる。

 だからもう少し話に付き合え、と続けて、口無しは独特の笑い声で笑った。
 頭がおかしくなりそうだ。言葉を重ねるたびに、目の前の少女の声色が変化するのである。
 周りの黒い影は口無しと連動しているのか、それとも全く関係のないものなのか、うぞうぞと気味悪くうごめき続けていた。

「影が邪魔か? この影たちは、″目”だよ。本体はないが、影を通してそこら中からここでの会話を盗み見ておる」
「全て見られているということですか? ……一体、誰に?」
「それはまだ知る必要のないこと。しかし、あくまでここに居るのはただの影だ。奥にいる本体は今、気にしなくともよい。あぁ……ぬしがわらわと二人きりになりたいと申すのならば喰ってやっても構わぬぞ?」

 そう言って、にやりと笑う口無しにゾッとする。
 部屋の中に充満する濃い線香のような香りが、強くなっていっている気がした。

「……このままで大丈夫です」
「そうか、そうか。ならばこのまま、扉を開ける前に、年寄りのたわ言に少し付き合ってくれはせんか。前の贄は目無しの奴がお釈迦にしてしもうたからのぅ。あ奴は理性が無くて駄目だ」
「贄を、殺したのですか?」
「殺しはせんよ、わらわたちはそこまで許されてはおらぬ。過去に少し、戯れで喰ってみたことがあるが別段そそられるものでもなかった」

 感情の起伏が感じられない口無しの声に、香夜は目線を上げた。
 すると、座敷に入った時よりも数倍膨張した影を愛おしそうに撫ぜ上げる口無しと目が合う。

「それに、この場にうごめく”目”は一応体裁としてそれを良しとはせん。……ただ、少し脳の部分をつまみ喰いするくらいならいくら影の監視があろうと自由にできてしまうがの。脳を喰われた人間がどうなるかは想像するにたやすいであろう。廃人となり、自分が何者かすらわからなくなるのだ。ふふふ、わらわはそういう人間の姿も愛いと思うが」

 ――駄目だ。

 話が通じ、会話ができたところで根本的なところがまるで違う。
 当然だが、この、少女に模した妖は人ではないのだ。
 気まぐれどころか、あるべき心を持ち合わせていないのが少しの会話だけで分かってしまう。

「して、桜の娘よ、わらわたちは何故存在していると思う」

 無暗に会話をしないと決めたにも関わらず、香夜は先ほどから口無しの妙なペースにのまれてしまっていた。
 しかしここで無視を決め込んでも、かえって怪しまれ、付け込まれてしまうかもしれない。
 それに、今のところ口無しからは危害を加えてやろうという邪念が感じられなかった。
 この妖はどうやら本当に会話がしたいだけのようだ。
 ここは自然に話を合わせ、早く終わらせるのが無難だろうか。そう思い、香夜はしぶしぶ口を開いた。


「……常夜への橋渡しをするため、でしょうか」
「そうだ。夜が明けぬ地、人ならざる者が住まう場所。ぬしにとっては今対峙しているわらわも常夜とつながる扉の一つだ」
「……人間界には、口無しさまを含め、目無しさま、耳無しさまと三つの扉があると」
「ふふふ、いかにも。わらわたちは扉としてこの場所につながれ、生きることも死ぬことも出来ぬただの傀儡だ。蠱毒に犯されるがごとく、この場に繋がれておる」

 何が言いたいのだろうかと香夜が怪訝な眼差しを向けると、口無しはにやりとその目を歪ませる。

「……もっと、事の本質を見極めろ。もっと深いところで考えるのだ、桜の娘よ。ぬしの父が死んだ理由もそうだ。ぬしが背負うものは、より業にまみれた、闇そのものなのだよ」
「……っ!」

 思いがけない口無しの言葉に、香夜は一瞬言葉を失った。

 恐らく口無しは全てを知っている。宗家のことも、父のことも。
 妖異に弧を描く口無しの目を見つめているだけで、飲み込まれてしまいそうだった。

「それは……」
「父が何故、どのようにして死んだのか知りたいか? 桜の娘よ。ふふ、ふふふ、知らないことを知りたいという人の知識欲は何よりも大きい。わらわはぬしがこれからどのような運命をたどるかさえ見えておるぞよ。さぁ、ぬしはそれが知りたいか?」

 ――知りたい、聞きたい、お父様は、どうして突然私の前から姿を消してしまったの。

 心の中に芽生えた哀切まじりの欲望がじわりじわりと脳を蝕んでいく。

「尊敬していた父が死に、さぞかし寂しいことだろう。贄となり妖に捧げられるのは想像もできないほど恐ろしいであろう、漠然と抱えていた己の喪失感と向き合うことはおぞましいと、そう思うだろう」
「い……や……」

 甘やかな毒が心にまとわりついてくるようだと思った。

 そこで、香夜ははたと気が付いた。
 口無しが望んでいるのは、香夜が知りたいと望むこと、そのものなのではないかということに。

 しかし、気が付いたところでもう遅かった。白蛇のように清廉とした姿で鎮座していた少女はいつの間にか香夜の目の前まで近づいてきていた。
 何もかもを全て飲み込んでしまいそうな口無しの瞳に、くらくらと視界が淀む。

 それは例えるならばまるで、脳を、食べられているような感覚だった。