あっという間の出来事だった。
紫紺の羽織に身を包んだ常夜頭――識は固まる香夜を横目に薄く笑い、そのまま音もなく座敷を出て行った。
再び舞い込んだ数匹の蝶が、識を追うようにして羽をはためかせ、襖にぶつかった瞬間輝く粉となって消える。
止まっていた時が流れ始めたかのように、座敷に酸素が満ちていく。
遠ざかっていく妖の気配。それと共に黒い瘴気と華の香りが薄くなっていくのが分かった。
しばらくその場で呆けた後、香夜は思わず自分の胸を押さえていた。
よかった、まだ生きていると息をつき、識が消えた方へと目線を送る。
不思議な妖だった。
いままで遭遇してきた妖は、どれもみな真っ先に香夜の血を奪うために襲いかかってくるようなものばかりだったため、会話ができるなど思ってもみないことだったのだ。
識に刃を突きつけ、死ぬつもりはないと啖呵を切ったことを思い出す。
しかし、結局のところ自らの身を守る術などないに等しい。護身術程度の力では、あの妖にはかなわないだろう。
「……なんで、あんなこと言っちゃったんだろう」
一人になった座敷で、香夜は誰に向けたものではなく、そう呟いた。
翌日、常夜からの使者だという妖が屋敷に訪れた。
花贄の儀は常夜で行われるため、選ばれた贄の娘はまず常夜へと向かわなくてはいけないらしい。
『迎えを出す』と言っておいて、常夜頭の屋敷まではこちらから行かなければならないのか、と香夜は小さく唸った。
それでも、すぐに命を奪われなかっただけ幾分かマシである。
使者に連れられ香夜が辿りついた先は、桜の屋敷から少し離れたところにある家屋だった。
人間界と常夜の境目は、普段は厳重に管理されており立ち入ることはできない。
互いを行き来することができるのは、魔力を持つ者だけである。
そのため花贄に選ばれた宗家の娘が常夜へ行くには、橋渡し役が必要になる。
それが、扉と呼ばれる存在だ。
扉となる境目は複数存在しており、決して誰にもわからないよう隠されていた。
扉の鍵は、特殊な力を持つ妖だという。つまり、扉に繋がれた妖自身が扉を開ける鍵となるということだ。
「く、供犠さま。こちらの道を歩いてください」
「……その呼び方は、やめてください」
「く、供犠さまは、く、供犠さまなので、やめろといわれても、こ、困ります」
吃音交じりのこもった低い声。
久しぶりに耳にした供犠という響きにため息をつく。
家屋の中は、桜の屋敷と同じで薄暗く肌寒い。
香夜の前を歩く案内役の妖は大きな黒い影で身体ができていて、実体を見ることはできなかった。
見ようとすればするほど姿がぼやけ、見えなくなってしまうのだ。
「く、口無しさま、口無しさま。は、花贄の供犠さまを、お連れいたしました」
たどり着いた襖に向かって言葉を投げかけ、黒い影はスッと消えた。
この先はひとりで行けということだろう。
帯の中に隠した懐刀をそっとさする。
これからどうすればいいかなんて、何度考えたってわからない。
それでも、‟死なないための道”を探すくらいは自分にだって許されてるはずだ。
ぎゅっと瞬きをし、香夜は濃い妖の香りが漂う襖をゆっくりと開けた。
「――ふふふふ、これは愛い。一段と愛い華だ」
聞こえたのは、しわがれた老婆のようにも幼い少女のようにも聞こえる声。
口無しさま、と呼ばれた妖は、畳の中心に鎮座していた。
複数の黒い影に囲まれ座るは、重苦しい気配には似合わない、小柄な少女。
畳に流れる長い髪は白銀に透き通り、こちらをじっと見つめる双眼は赤い。
口元は大きな当て布で覆われていた。
なんと濃縮された魔力なのだろうか。複数の目に凝視されているような感覚が香夜の身体を包む。
常夜と人の世をつなぐ扉となる妖は三体いるという。
それぞれに付けられた名は、口無し、目無し、耳無し。
過去に大きな咎を犯してここに封印されているとの噂もあるが、真偽は定かではない。
「どうした? 遠慮せず、近うよれ」
白蛇のような瞳が香夜を無遠慮に見据える。
この間の常夜頭とはまた違う、好奇心が混じったまなざしだ。
その視線はあどけなく無邪気であるが、心地のいいものではない。
「ぬしとはずっとこうして、話したかったのだ。ふふふ、常夜頭にやるには惜しいくらい愛い姿じゃのう?」
向けられる言葉がやけにわざとらしく聞こえる。
香夜はじっとこちらを見続ける口無しを見据え、口を開いた。
「……おそれながら、あなたとお話している時間はないのです」
「……ほう?」
じろりとこちらを見やる口無しの視線に、唾を飲み込む。
幼い頃、父に強く念押しされたことがある。
それは扉となる妖と無暗に会話してはならないということ。
身体を持たず、仮初の姿で人の世に繋がれている口無し、目無し、耳無しの妖は他の妖と違って常に肉体を求めている。
そしてそれは周りにうごめく黒い影も同じ。
気性は非常に気まぐれで、過去の花贄で身体ごと喰われてしまった娘もいたという。
会話をしてはならない、興味を持たれてはならない、気に入られてはならない。
気を抜けば、影に食べられてしまうからね、と父は繰り返していた。
「……常夜頭さまは、私のことを大層お気に召した様子でした。なので少しでも遅れてしまえば、何が起こるかわかりません」
無論、これは香夜の口から出た出まかせだった。
しかしそう言った瞬間、口無しの周りを囲んでいた複数の影がぶくぶくと膨れ上がり、うめき声を上げ始めた。
口無しの少女は聞こえない声で何かを囁くと、赤い瞳を半月型にさせ笑みを深める。
――面白い。
布に覆われ見えない口元が、確かにそう動いた気がした。