識が刀身を降ろしたと同時に、突風のごとく飛び掛かかる黒狐の刃。
 
 識が、殺されてしまう。
 にやりと有栖の口元が弧を描くのが、視界の隅で見えた。
 くすんだ景色のなか、香夜が目を覆いそうになったその時、ドクンと心臓が大きく鳴り響く。

「――どうした識、私はお前に、そんな顔をしていいと教えた覚えはないぞ?」

 空気が、突如として響き渡ったその声に呼応するようにして震えた。
 庭の草木や、屋敷の装飾品までもが、細かく打ち震えているようにカタカタと鳴っている。
 いや、違う。これは空間に同化した香夜自身が震えているのだ。

 識の香りとよく似た、華の強い香りが風に乗ってこちらに届く。

「呉羽、……? 何故だ、逃げろと言っただろう」

 識の声が、弱弱しく落とされる。
 気が付くと、先ほどまでそこに立っていた有栖が地面に伏せ、胸から血を流していた。

 いや、有栖だけではない。識を囲んでいた黒狐の集団も、口無しと似た少女も、みな一様にして倒れていた。何が、起こったというのだろうか。
 何も見えなかった。風や、香りすらも異変が起こったことに気が付かないくらい、一瞬の出来事だった。

「あはは、よかった、一世一代のまじないだったけど効いたみたいだな! ねえ凄くない? 悪い妖までやっつけられちゃう私のまじない、凄いだろ?」
「…………呉羽」

 喉の奥底から絞り出したかのように揺れた識の声が、その名前を呼ぶ。

「どうした、泣いてるのか? 識」

 赤髪が揺れ、月夜になびく。
 その姿は、毅然とした気高さを内包し、刺すような美しさを湛えていた。不敵に笑うその唇もまた、赤。

 一目見ただけで、唐突に理解した。
 この人が、呉羽だ。香夜の中で鳴る鼓動が、細胞の全てがそう叫んでいる。
 地獄のような女だった、と凪が言っていたことを、今さらながらに思いだす。
 倒れた妖の中で快活に笑う佇まいは、まさに美しい地獄そのものだった。

 めまいがする、頭痛が、胸を鳴らす動機が止まらない。

「どうしてですか、何故、ただの人間である呉羽さまが、このようなまじないを? 心はもうとっくに失っているはず、それなのにどうして、どうして、どうして!」

 這いつくばった有栖の口から、黒々しい血が吐き出された。
 手を伸ばし、畳に血を吐きながら身体を引き擦るようにして進む有栖から溢れる闇が、揺れ動く九尾の影となって土壁に映る。

「……何故? ハハ、愚問だねぇ有栖くん。キミも人間でしょ? 人間が力を得たいと思う理由なんて一つだけなんじゃない?」

 面前で血を流し、必死に手を伸ばす有栖のことなど見えていないとでも言うように、呉羽は大口を開けて笑ってみせる。
 真っ赤な唇から垣間見えた犬歯が白く光った。

「理由、ですと……?」
「そう、大切な人を守りたかったのさ。私はもう、一人愛する人を失ってるからね」
「理解、できません。そんなこと、あってはならない。あってはならないのです。あなたは大切な器なのです、それなのに、あなたの身体はもう――」
「そうだねぇ、強い力を使うには、代償が必要だからね」

 瞳孔を開き、呆気にとられた様子の有栖を前に、飄々として口元を緩ませる呉羽。
 身にまとう全てを赤で染めた人が、畳を歩く。紅い花びらが散るように、風に乗って揺れるたおやかな髪。その美しさに目を奪われる。しかし、呉羽の身体は歩くたびにどんどん崩れ落ちていっていた。

「識。私の愛弟子であり、可愛い子。キミに最後の教えを諭してやろう」
「……最後、だと? 何言ってるんだ、またいつもの冗談だろ? 俺は、俺は……」

 座り込む識の前に立った呉羽が、足元に落ちていた刀を手に取った。

「――……あ」

 その瞬間血相を変えて身を乗り出す識を見下ろしながら、彼女はその刀を一直線に自分へと突き刺した。
 有栖の声にならない声が響き渡り、美しい人からつう、と血が流れていく。

「……っ、何を、してるんだ!!」
「何って、キミ、こうでもしないと私の血を飲まないだろう? まったくキミのお父さんそっくりだ」

 早鐘をつくようにドクドクとせり立つ香夜の脈。動悸が止まってくれない。目を閉じることもできない。
 赤に身を染める呉羽の胸に深く刺さった刀身が、月明りに反射し、褐赤色の影が香夜の方へ伸びている。
 茫然とした識の腕をつかんだ呉羽が、己の胸に刺さったままの柄にその手を重ねた。

「やめろ」
「私の身体は、さっきまじないを使った時にもう擦り切れている。一足先に、キミのお父さんのところへ行くよ」
「やめろ、お前の酔狂に付き合うのはもううんざりだ、こんなことして何の意味がある!?」
「識、キミとの時間は私の宝物だ。私に子はいなかったが、初めてだったよ。こんな穏やかな気分になったのは。キミと、キミのお父さんに出会えて、私は初めて生きる意味を見出せたんだ」

 声を荒げ、今にも泣きだしそうな識に向かって呉羽は穏やかに微笑み返す。

「……いい月夜だねぇ。こんな日に、終わることができるなんて思っていなかったよ」
「ふざ、けるな。勝手に終わらせようとするな」
「……何もふざけてないさ。哀しむ必要はない。いずれこうなる運命だったのさ」
「お前が、いない世など生きている意味がない、俺は、お前がいたからこそ……」
「……私もだよ」

 呉羽が発したその一言に、識の言葉が止まる。

「識、生きるんだ」

 識と呉羽が、どんな日々を過ごしてきたのか知らない。二人の間で交わされた台詞も、出会い方だって香夜は知らない。
 それでも、その一言が全てをあらわしていることだけは分かった。

 つう、と呉羽の口元に鮮血が流れ落ちる。

「さあ、血を飲め。少ないが、次の花贄を見つけるまでのつなぎにはなる。識が飲んでくれなかったら私はただ無駄に痛い思いをした可哀そうな人になるだろう?」
「……っ、」
「……ああ、あああああ、ああああああ! 呉羽さま、やめてください、やめてください、消えないでください、あなたはやっと見つけた、やっと生まれた、あの方の器なのですよ!」

 有栖の慟哭と共に、血の匂いで満ちた座敷へ大きなつむじ風が吹き込んだ。
 庭園に咲いた花々の花びらが室内に吹き荒れ、うつむいた識の手に力がこもる。

「生きろ、識」
「――、生きろ」

 気高く快活な香を放つ美しい人は、最期にそう言った。
 力を失ったようにうなだれる識の表情は見えない。

「識、……識」

 香夜の頬を濡らすのが、涙なのか何なのか最早分からなかった。
 気が付くと、香夜は届きもしないその名前をひたすらに呼び続けていた。

 痛い、痛くてたまらない。嗚咽するようにあふれ出してくる自分の感情が、遠ざかっていく景色に追いついてくれなかった。
 色鮮やかな花びらが舞い込んだ座敷の中心、もう目を覚ますことのない美しい人を抱えて一点を見つめる識の胸に、ほう、と赤い華の印が浮かんでいるのが見えた。

「……業を背負いし‟常夜頭”よ。お前の心は、この先ずっと晴れないだろう」

 畳に伏した件の少女が、澄み切った声でそうささやいた。つま先からボロボロと崩れゆく少女の身体がみるみるうちに細かな灰へと変わっていく。

「しかし、身を喰いつくす徒花が心の臓に達するころ、比翼(ひよく)となりしつがいは、呉羽の意志を持った者は再びお前の前に現れる」
「……比翼、だと?」
「わらわは、ずっと見ておるぞよ。幾千の時の中で、貴殿の身を焦がすような業火が焼き切れる様を」

 視界を染める赤の惨劇を、追憶の始まりと同じ蝶の群れが覆いつくしていく。
 光り輝く蝶の鱗粉が、この光景を終わらせようとしている。
 光を失った目をした識が、一瞬だけこちらを見た。

「識」

 遠くなっていく血の匂いと、止まない有栖のむせび声。
 それらに比例するようにして多くなっていくのは真っ白な蝶の群れ。

「識、……――」

 何度も、何度も繰り返し名前を呼ぶ。
 すると瞬きをした瞬間、香夜の身体は次の場面へと飛ばされていた。
 現実世界に戻ったわけではない。過去の追憶は、まだ終わらないらしい。
 辺りの景色は、有栖の幻術の中でみた光景とよく似ていた。

「また、桜の屋敷……」
 
 香夜の身体はまた、桜の屋敷の中にいた。
 目の前には中庭に咲いた桜の樹と――その下で遊ぶ幼い香夜の姿があった。
 
「ねえねえ、お兄さん、お兄さんはどうして泣いてるの?」

 あどけない声で幼い香夜が呼びかけた先には、黒い羽織に身を包んだ識が佇んでいた。

「……泣いてなど、いない」
「うそ、とっても悲しいかおしてるよ?」
「……していない」
「……してるもん。わたしもね、悲しいことがあったんだ。さっきお母さまの侍女に、どうして生きてるの? って聞かれたの」

 幼い時の自分が、識と会話をしている。
 忘れ去っていた過去を目の当たりにして、香夜は目を見開く。

「……その侍女、消してやろうか?」
「だめだよ、悪気があったわけじゃないもん。ただいじわるしたいだけだと思う」
「……お前は、大人だな」

 ふ、と識の表情が柔らかくなった気がした。
 すると、向き合った幼い香夜が嬉しそうに声を弾ませる。

「ふふふ、お父さまにも同じこと言われた! ……でもね、また同じことを言われたら、どう返せばいいとおもう?」
「どうして生きてるのか、と聞かれたらか?」
「うん、さっきは私、答えられなかったの。……お兄さんならなんて答える?」
「俺は……」

 少しの間をおいて、瞳に光を失った識が幼い香夜を見据える。

「俺は、お前に……ただ、生きていてもらうために、生きている」

 すっと心に入ってきた識の言葉に、その光景を見ていることしかできない香夜の頬を涙が伝う。

「なにそれ、お兄さん、変なのー」
「……変か?」
「変だよ。うーん、じゃあね、私もお兄さんに生きててもらうために、生きるね! そうしたら、おあいこでしょ?」

 幼い香夜がそう言うと、識の目がハッとしたように見開かれた。
 古めかしい映画のような質感をした光景にノイズが走る。ああ、もうすぐ終わるのだ。もうすぐ、この追憶の幕が下りる。
 眼前、揺らぎ始めた世界に、そう感じとる。

「識、ごめんね。忘れててごめんね。こんなに前から、私のことを守ってくれてたんだね。会いに来て、くれてたんだね」

 届かない声が、震える。
 夥しい蝶が放つ白い光の中、もう一度瞬きをすると、そこはもう元の座敷に戻っていた。
 雨音だけが聞こえる静かな部屋で、穏やかな海のような瞳をした識が香夜を見つめている。

「――……戻ったか」
「……、あ」

 涙でぐちゃぐちゃの香夜を、今まで見せたどの視線よりも優しい眼差しで見やる識。

「……っ」

 気が付くと、香夜は目の前の識を抱きしめていた。

 手が届き、体温を感じることができる安心感からか無意識に力がこもる。識は香夜を拒むこともせず、じっと黙したままだった。じわりとあたたかく、苦しいくらいに切ない感情の置き場所がわからない。
 流れ落ちる涙が止まらない。幼い子供のようにしゃくりを上げ、黒い羽織をつかむ香夜の背に識の手が回る。

「……どのくらい、経ったのだろうな」

 一瞬震え、戸惑うように回された手が、壊れ物に触れるように優しく添えられた。

「……それすらも分からない、気が遠くなるほどに永く、焼かれているような日々だった」

 低く沈んだ声で識がそう言う。

「呉羽が死んでから、永い時の中で、俺はずっと……呉羽を探し続けた。呉羽の意志を身に宿した者が、この世に生まれるのを待っていた。件の言葉を鵜呑みにして」

 呉羽の意志を身に宿した者。それが、香夜だった。
 識は、香夜がこの世に生を成すことを知っていたのだ。それでも、どれくらいの間待ったのだろう、どんな思いで待っていたのだろう、徒花に侵されながらも贄である香夜を抱きしめた時、何を思っていたのだろう。

「……初めてお前の姿を見た時、一目でわかった。呉羽を宿していると」
 
 鼻先に近づいた識の身体は、蜜を溶かしたように甘く深い華の香りがする。
 ドク、ドク、とうごめく徒花の痣がまるで茨のように、常夜頭の紋印を覆っていた。また、痣が広がっている気がする。

「お前は俺に捧げられるための花贄だったが、そんなことはどうでもよかった。いずれ、呪いで死が訪れるまでお前の命を守ればいい。そう思っていた」

 識がそう言うと、胸の紋印が香夜を誘引するがごとく光を放った。
 
「……何度も、会いに行った。会話をしたのは、ほんの数回だったからお前は覚えていないかもしれないが」
「……うん」
「見ているだけでいい、お前が生きているだけでいいと、思考すら手放した頭でそう考えていた」
「それは、私の中に呉羽さんがいるから」
「……そうだな、初めは、そう思っていた」

 そう言ってゆっくりと香夜の身体を離した識。
 指二本分ほどの距離で香夜の背に手を回した識の瞳が揺れる。その既視感のある揺れ方に、胸が波打つのが分かった。

「お前は、呉羽ではない。全てが違った。紡ぐ言葉も、目の奥に灯る光も」
「……っ」

 どうして、‟私”にそんな目を向けるの?
 そう言いかけた言葉は、識の声によって遮られる。

「見ているうちに、傍で感じているうちに、お前の光が俺の心を溶かしていった。お前が、死の淵にいた俺を救ったんだ。二度と失いたくないと心が叫んだ。憎まれてもいい、生きていてくれるだけでいい。香夜、俺は、お前を――……」

 熱い識の体温と、感情を吐き出すようにして苦しそうに紡がれる言葉が心に刺さる。
 降りしきっていた雨はいつの間にかしとしとと地面を濡らすくらいの小雨になり、湿気を含んだぬるい春風が香夜の髪を揺らした。

「…………お前を、愛している」

 たった一言だった。
 聞き取れないくらいに小さな声で、たった一言だけ落とされた言葉。

 スッと、香夜の頬を一筋の涙が流れ落ちる。
 くしゃりと眉を下げ、余裕を失った表情で、こちらを見る識。喰らうべき贄を抱きながら、その目に宿すのは愛情と狂おしいほどの切望。
 深紅に揺れる瞳は、誰でもない、香夜自身を捉えていた。
 荒れ狂うような情欲でも、哀れみに満ちた愛情でもない。
 ‟ただ、生きているだけでいい”という、小さな小さな、あたたかい温度。
 それは、桜が舞い散る庭の中で、香夜の頭を優しく撫ぜた父のような、見返りを求めない不器用な温度。
 ――私は、ここで生きてもいいのだろうか。
 凍てついた夜の中でうずくまっていた心の中に、か細い光が差し込み、氷を解かすようにしてあたためていく。

「……識」

 そう呼んで、見つめた先の瞳が切なく濡れている。
 生きていてくれるだけでいい、識が一言だけつぶやいた意味。それは痛んだ心を焼き焦がすように哀しく、やるせない。

「……私も、あなたを失いたくない。……だから、生きて」

 そう言うと、識の瞳がわずかに見開かれた。
 どうかこの心の揺らぎが、震えるような苦しさが、少しでも柔らかい毛布となって彼を包み込みますように。
 自分と似た孤独な魂が、これ以上痛みを抱えずに済みますように。そう願って目を閉じる。
 雨上がり、晴れた濃紺の空に浮かんだ赤い月が、熱い痛みに歪んだ識の顔を淡く照らし上げた。華の芳香が座敷を満たしてゆく。
 さまよい戸惑った識の指先が、そっと香夜に触れる。
 香夜は、その指先に応えるつもりで、すり、と頬をすり寄せた。
 たどたどしく、触れていいのか迷っているかのように、どちらからともなく触れ合った唇。

「……っあ」

 そのまま(せき)が切れたように香夜の身体をきつく抱いた美しい妖は、その目を細めながら、何度も唇を這わせる。額に、瞼に、頬に、そして最後には深く沈むような口づけを。
 とめどなく与えられる、感情の波。
 常夜の頂に立つ妖と、妖のために咲いた花は互いにどうしようもなく惹かれ合うという。
 しかし、それだけでは説明がつかないくらいに熱を帯びた身体は心から互いを求めあっていることをあらわしていた。

 ――ああ、この想いは、言葉にするのが惜しいほどに。

 熱い胸に身体をうずめた香夜を穏やかに受け入れる識の瞳は、深紅。
 その眼差しは凪いだ海のように静かだった。

 意識が、再びまどろみの中に遠ざかっていく。
 春時雨のようにあたたかく、甘やかな哀切に満ちた口づけは、そのまましばらく止むことがなかった。