一瞬視界が黒に染まり、トクトクと感じる識の鼓動のみが直接香夜の身体に伝わる。
 ふわりと前髪を浮かせた柔い風に目を開くと、そこには既視感のある光景が広がっていた。

「ここは……」

 広い座敷のなか、一面に散らばった花びらと、文机が一つ。
 ここは、前にも来たことがある。先ほど識に治癒してもらったはずの腕の傷が鈍く痛むのがわかった。
 徒花の呪詛を全身に浮き出たせ、苦し気に顔を歪めていた識は今、飄々とした表情で香夜のことを抱えている。
 ――どうして私を助けたの、さっき言っていたことは、どういう意味なの。

 聞きたいことが山のようにある。
 識の方へ振り返ろうとした時、香夜の身体はまたもやくい、と引っ張られ、くるりと反転した。

「……っ!?」

 そのまま床へと押し倒され、識の大きな身体に組み敷かれる形となった。
 有無を言わせないその動作は、城下町から屋敷へ戻ってきてわずか数十秒でのことだった。

「なっ、何するの……!?」
「……いつの間に凪と親しくなった? ……俺は、てっきりお前と通じ合えたものだと思っていたが、凪の方がいいのか?」
「……へ? 凪?」

 識から放たれた思いもよらない言葉に、香夜は少しの間フリーズしてしまう。

「この血を勝手に流しただけじゃ飽き足らず、ああやって誰にでも尻尾を振るのだな、お前は」

 識の繊細な指がスッと香夜の四肢を撫で上げる。きつく、痛いくらいに抱きすくめられた身体は身動きが取れない。
 目の前の妖が何故こんなにも怒っているのかが理解できず、香夜はふるふると頭を振った。

「……何が違うんだ? フッ、こんなに目を潤ませて、犬のようじゃないか」

 意地の悪い言い方をする識の声は低く、冷たい怒りが伝わってくる。
 一体何を望んでいるんだ、そう思い、識を見た。顔を上げると息がかかるほど近くにあった識の瞳と目が合う。吸い込まれてしまいそうな、深紅が揺れる。

「どうして……そんなことを言うの? さっきだってそう、どうして城下が燃えてるのに私を助けたの? 識が作った、大切な町だったんじゃないの?」
「町ならばいくらでも作り直すことができる。あの場で、一番優先しなければいけなかったのはお前だ。お前が有栖に連れ去られてしまえば、面倒なことになっていた」

 淡々とそう言った識が、畳の上に転がったまま身動きが取れない香夜の髪を梳く。
 見下ろした眼差しには変わらず冷淡な怒りがにじんでいるのに、識の手つきは穏やかで、どこか艶めかしい。

 トクリ、トクリと心臓の音が早くなっていく。
 このまま近づいていたら、鼓動の音が識に伝わってしまう。そう思い、身体をよじらせるが、やはり離してはくれないようだ。識は香夜の動きに眉をしかめると、こちらの動きを制限するように太腿の間に足を挟んだ。服が捲りあがり、肌が露わになる感覚にカっと頬が熱くなる。

「は、離して……」

 言葉の先端が震え、ほろりと生理的な涙があふれるのがわかった。
 雨に濡れた識の肌が、月明りに浮かび上がる。常夜頭の赤い印が、香夜をおびき寄せているように照っていた。
 素肌に直接感じる識の体温が気持ちよく、香夜の羞恥心を煽る。呼吸の振動ですら、ピクリと反応する身体が今は憎らしい。
 浅く吐き出した吐息もまた、赤く色づいているのではないかというくらいに熱を持っていた。

「お願い、……離れて」
 
 識は何も答えない。
 どうして、何も答えないのだろうか。むしろ、香夜がこうして言葉をこぼす度に彼の表情が険しくなっているような気がする。

「……どうして離れてほしいんだ?」

 ようやく一言発したと思えば、識は至極真剣な顔をしてそう問う。
 ぎり、と強められた腕が悲鳴を上げている。

「どうしてって、このままじゃ、話もできない……から」
「…………凪の時は、そんな顔をしていなかっただろう。何故そこまでして拒絶する? 自ら近づいてきたと思えば、俺が近づけばこうして逃げようとする。何故だ」

 そう言った識には、冷ややかな殺意でも、意地の悪い笑みでもなく、子供が駄々をこねている時のような理不尽な苛立ちが滲んでいた。

「何故って……」
 
 どうして逃げるのかと言われても、逃げたいからだと答えざるを得ない。
 気が付かれてはいけない、感づかれてはいけないのだ。今もなお心臓が飛び出してしまいそうなほどに鳴り響いていることを。こんな風に組み敷かれ、理不尽に責められているにも関わらず、心から嫌だとは思っていないということを。

「……ずっと、理解できなかった」

 静かに言葉を落とした識が、香夜の方を見ずに続ける。

「お前に触れ、口づけを交わすたびにこの身を蝕む徒花は薄らぐ。血を飲めば、魔力が高まるのが分かる。壊したくないと思えば思うほど、……心の中が熱くてたまらなくなる」

 ――心の中が熱くてたまらなくなる。
 そう言った識は、その端正な顔をくしゃりと歪ませると、香夜の瞼にそっと口づけた。そのまま、流れた涙をつう、と舐める識。

「……っ」

 地面を濡らし、蒸した風が華のかぐわしい香りを運ぶ。
 強くなってきた雨の音が、香夜の心臓の音を隠してくれているようだった。

 心が、身体が熱くてたまらないのは自分の方だと香夜は思う。識は、自分を見てはいない。彼が見ているのは、この胸の中で眠る呉羽なのだろう。戯れに愛してやるといたずらに微笑んだかと思えば、そう言ってこちらを求めるような、懇願するような瞳で見たりする。そんなの、非道く、残酷だ。

 心がこんなにも揺さぶられ、感情が湧き上がってくるのは、ずっと‟自分”を押し殺して生きてきた香夜にとって生まれて初めてのことだった。

 それでも、香夜は、「あなたが見ているのは私ではないのでしょう」とは言えないのだ。
 言ってしまえば、識が目の前からいなくなってしまうような気がして、それがどうにも恐ろしかった。
 だから、こうやって贄として殺されることもせず、ただ甘く冷酷な欲をぶつけられ、涙を流すことしかかなわない。

「……拒むな、身を任せろ」
「そんなの、……っ、無理」
「嫌なのか?」

 わずかに眉を下げ、香夜を上目遣いで見上げる識。その愛らしい幼子のような仕草に、うっ、と言葉を失ってしまう。
 濡れた識の瞳には、香夜以外何も映っていない。恐らくこの男には自覚がないのだろうが、無自覚なところが逆にたちが悪い。身体を密着させ、乞い願うようにして香夜の頬を撫ぜるその姿に、冷徹な常夜頭の威厳は最早どこにもなかった。
 
「……い、嫌、じゃない……」
「嫌じゃない? ならどうしてそんなにも俺を拒む」
「わからない……の。初めてだから、こんな風になるのは。は、恥ずかしいの……! だから、嫌ってわけじゃなくて……」

 ――もう、これで許して。
 願いを込めて見つめると、識は一瞬目を見開いて固まった。
 数秒の間、沈黙が流れる。

「……恥ずかしい? 意味がわからない」

 そう言って、怪訝そうに顔をしかめるその姿はまるで伊織のようだ。もしかすると、この男は想像以上に人の感情というものが分かっていないのではないだろうか。
 香夜がそう思い至ったと同時に、識の方でもどうやら思考がまとまったようで――。

「それでも、嫌ではないのだな」

 理解はできない、それでも嫌ではないことだけは理解した。
 と、識の中で一旦の折り合いがついたらしい。相変わらず眉間には深いシワが寄っていたが、強められていた腕の力は緩められ、ホッと息をつく。
 しかし、捲れた服を直そうと足を動かすと識は再び体重をこちらにかけ、香夜を畳に押しつけた。

「い、……嫌じゃないって言ったよね? だ、だから少し離れて……」
「断る」
「な……っ!」

 というところで、流れは冒頭へと戻る。
 永遠に続く問答には終わりが見えない。というより、香夜には識が考えていることがさっぱり読めなかった。
 何度離れてくれと頼んでも、離してくれない識の視線が、茹だるように熱いことだけが分かり、それが余計に香夜を混乱させていた。
 もう誰でもいいから助けてほしい。そう、心の中で叫びを上げるが、こんな時に限って狐火一つ舞ってはこない。
 すると、そんな香夜の思考を読み取ったのか、識がゆるりと口を開く

「この座敷には、よほどのことがないとたどり着けないようになっている。使用人も、強い魔力を行使できる天狗ですらもな。全て、この身に宿る魔力が成したことだ」

 その言葉に、凪が言っていたことが頭によぎる。
 この鵺屋敷は、識の意識で構造が変わるようになっていると。

「……そのような力、求めていたわけではないというのに」

 雨音にかき消されるくらいの声で、識がつぶやいた。彼の方を見てハッとすると共に、香夜は思わずその目元に触れていた。
 再び訪れた沈黙と、先ほどよりも幾分か驚いた表情をして固まる識。

「泣いてるの?」

 悲痛さを伴なった声でつぶやいた識が、泣いているように見えたのだ。
 雨に濡れた髪から滴り落ちた雫が、識の凛と尖った顎先を伝う。
 長い睫毛が白い頬に影を作り、瞬きをするたびにふる、と揺れる。目を丸くさせてしばらく香夜を見つめていた識だったが、やがて、ふ、とため息を一つ吐いて身体を離した。

 全身にかかっていた識の重さが無くなり、スッと熱が引いていくのが分かる。
 やっと離れてくれた。そう安堵すると同時に、刹那の喪失感が残った身体をさする。自分で触れると、ピリピリとした淡い余韻が身体の奥に残っていた。

 障子が開かれた縁側へと移った識が、穏やかな表情を浮かべこちらを見る。

「……こちらに来い」

 そう言った識の声色は、静かに凪いでいた。
 今まで聞いたどの声色とも違う、毒気が抜かれた響きにドキリとする。香夜は、そのまま引き寄せられるように識の元に行き、そっと腰を下ろした。
 降りしきる雨がまるで外の世界とこちら側を遮断する暖簾(のれん)のようで、時折弾ける水しぶきの音が心地よく聞こえた。

「泣いているのかと、聞かれたのはこれで三度目だ」
「え……?」

 誰もいない庭の向こうを見ながら、言葉を落とす識。過去を偲んでいるかのようにも見えるその横顔を見て、香夜は自分の胸の奥に意識を向ける。

「……それは、呉羽さんのこと?」

 そう言った香夜を一瞥した識は、別段感情を動かすことなく、また庭へと向き直った。
 きっと、肯定の意と捉えていいのだろう。横顔から語られる深々としたしめやかさに、そう悟る。

「誰かの前で感情が動くことなど、なかった。何をしていても、色彩がなかった俺の日常にあの女は……呉羽は、土足で上がり込んできた」

 識が言葉を紡ぐたび、座敷に一つ、二つとほのかな狐火が舞い込んでくるのが分かった。
 薄暗い翠雨(すいう)に隠れて見えなかった庭の桜が、その火に照らされてぼんやりと浮かび上がる。

 意志を感じない香夜の中の呉羽が、すう、と深く息をしたような気がした。

「無遠慮に、それが当たり前だと言わんばかりに、俺の中に入ってきた女は、ある日、目の前であっさりとその身を散らした。……ここがそうだ。ここが、呉羽が死んだ場所だ」

 声を揺らすことなく、そう言った識に息をのむ。
 狐火が漂い近づき、香夜の目の前でパチンと爆ぜた。途端に、香ってきたのは生々しいほどの血の匂い。

『識は未だにあの頃の、あの時間、あの場所に囚われたままや。血まみれで呆然と座り込んどったまま、抜け出せん闇の中におる』

 凪の言葉が、頭の中でこだました。
 早くなっていく自分の脈に感じるのは、数刻前とは違う焦燥。身体の奥で眠る意志が、今まさに己の自我を主張するかのように競っている。

「……聞いても、いい? 呉羽さんのこと。識のこと。ここで、何があったのか」

 あの日、この屋敷で何があったのか。それを知ることは、きっと恐ろしい。強くなっていく血の匂いがそう思わせる。それでも、香夜は自分の中で早まる脈の意味を知りたかった。

 わずかな間の後、織が口を開く。

「聞くよりも、見た方が早いだろう。お前は、記憶と同化(・・)しやすいだろうからな」
「同化?」
「有栖が使ってみせた術と似て非なるものだ。……もっとも、誰かに見せたことはないが」

 識はそう言って、漂ってきた狐火を手のひらに乗せた。
 そのまま火を揺らすようにして息を吹き込む。すると、その狐火は瞬く間に(おびただ)しい数の光輝く蝶へと変化し、視界を覆っていく。

 蝶が舞った後に落とした鱗粉は鮮やかな花びらへと姿を変え、その夢のような光景に香夜は声を出すことも忘れて見惚けてしまう。

 有栖が見せた白昼夢のような光景は、入り込んでいく時、水に溺れる感覚がした。
 しかし、これは違う。まるで、心地の良いまどろみの中に沈んでいくようだ。

「識」

 無意識にそう呼んで、伸ばした手の先にいた識の口がゆっくりと動く。

「……俺を、見てくれ」

 いつか、この場所で言われたものと似て非なる言葉。
 それが前とは違った響きを持って、舞い上がる花びらの中に消えていく。

 瞬きをするたびに、視界に広がる景色が少しずつ変わる。少しくすんだ景色の色は、古びた映画のワンシーンを連想させた。
 目の前を覆いつくしていた蝶の群れと、花びらも次第に薄くなっていき、段々と消えていく。

 同じ座敷の中にいるはずなのに、肌で感じる‟異質感”。
 縁側に座っていたはずの識も、降りしきっていた雨も、気が付くとそこにはなかった。

「――……どうしたのですかぁ? そんなに驚いた顔をして。フフフフ、わたしの顔に何か付いていますか?」
「……っ!?」

 後ろから聞こえた、やけに聞き覚えのある粘着質な声にビクリと飛び上がる。
 とっさに距離を取り、香夜が身を屈ませると、そこにはもう二度と会いたくないと願った人物が立っていた。

「……土御門有栖」

 座敷の中心に佇んでいたのは、口元を歪め、城下町を襲っていた時と同じように笑みを浮かべた有栖。
 しかし、香夜が投げかけた声は彼には届かなかったようだ。よく見ると、有栖の雰囲気は城下町で見た時とは少し違って見えた。
 黒いフロックコートではなく、昔の貴族が着ていたような狩衣(かりぎぬ)を身にまとう姿はやや時代錯誤なようにも感じる。

「フフ、なにか仰ったらどうですか? 識さまぁ」

 そう言った有栖の視線の先を見て、あ、と声が出た。
 月明りの下で、顔立ちに今よりも少し幼さの残る識が有栖を睨みつけるようにして立っていたからだ。

 一匹だけ残った蝶が低く飛び、香夜の足にぶつかった瞬間粉となって空中に舞う。

 ――これは、きっと、識の記憶だ。

 自分の身体を見てみると、手のひらなんかはわずかに透けているように見えた。
 それに、香夜のことはあちら側(・・・・)からは視認できないようだ。

 今、識の過去にいるのだ。未だ未練を持ったように光を放つ蝶の残骸が、そう理解させた。

 さっき識は‟聞くよりも、見た方が早い”と言っていた。
 これは、識の過去。つまり呉羽が亡くなったという夜の、追体験なのだろう。
 
 有栖の後ろには、黒狐の面を付け、狩衣を着た者たちが陣をしくようにして並んでいた。この者たちは、有栖に仕える妖なのだろうか。伝わってくる魔力は、前にいる識に向けた憎悪の念ただ一つ。
 皆、武器を構えて、臨戦態勢をとっている。

 ――やめて。
 心のなかで、そう唱える。

 この先に待ち受けている未来を、直視するのが怖い。
 知りたいと願ったのは香夜自身なのに、目を覆ってしまいたくなる衝動にかられた。
 
「……裏切ったのか、有栖」

 識は、目の前に並んだ黒狐の軍勢を前にしても、うろたえることなく、静かに有栖を見上げた。
 丸く肥えた庭の月が滴り落ちてきそうなほどの赤を湛え、あどけない‟鵺当主”の美貌を際立たせる。

「フフフ、わたしは元来、味方などではないというのがまだわかりませんかぁ? わたしは、最初から一つのことしか考えておりません。あなたからいただきたいのは、空亡の寵愛を受けたその力のみなのです」

 恍惚として声を上擦らせ、のけぞった有栖の胸には十字架のロザリオが鈍く光り輝いていた。
 
「空亡だと?」
「ええ、空亡は、いわば常夜の太陽ともいえる赤き月。全ての終焉と、再生を司る神なのです。全ての妖は、魔力は、いずれ空亡へと帰還する。そしてまた新たな命が空亡によって生み出されるのです。これほどまでの力が、感銘が、ありましょうか。ええ、ええ、ありませんとも……!!」

 そう叫び、悦に入り切った有栖の濁り切った瞳には、何も映ってはいない。月に向かい、愛おしそうに手を伸ばす有栖の頬にピリリと亀裂が入る。
 
 空亡。
 空想上の妖とされ、香夜もその存在は古い絵巻でしか見たことがない。

 しかし、あれは妖というよりも概念のような存在だったはずである。
 妖怪、空亡。百鬼夜行が終わるころに現れる、禍々しい黒雲と業火に包まれた巨大な球体。
 意志を持たず、まるで赤き津波のようにこの世の全てを飲み込んでしまうという、自然悪。

 初めて絵巻で空亡のことを知った時、香夜は百鬼夜行における太陽を指しているのだろうと思っていた。
 妖にとっては最早遠い存在となった陽光が恐れに反転し、おぞましい空想の妖が生み出されたのだと。

 でも、有栖を見ると、まるで常夜の空に浮かんだ赤い月が空亡であり、神であり、避けられない厄災そのものなのだと言っているようだ。

「ある日、しがない一介の陰陽師だったわたしは空に向かってこう願いました。愛する人を救いたい。愛する人を手に入れたい。愛する人を奪った、妖を超える力を持ちたい、と」
「……なんだと?」
「そうしたらなんと! わたしの身体は一瞬にして妖の力を超える魔力を使えるようになったのです! ……まぁ、力を手に入れるために何体かの妖には犠牲になってもらいましたが」
「……俺の耳がおかしいのか? 有栖。お前の言葉が正しければ、ただの人間だったお前が妖を喰い、魔力を手にしたかのように聞こえたが」

 識がそう言うと、嬌声を上げて笑みを浮かべていた有栖の顔から表情が消える。

「ええ、その通りでございます。それなのに、妖に匹敵する魔力を手に入れても、あの方は私を見てくださらなかった。常夜頭なんぞと恋に落ち、常夜で一生を終えてしまった。……それなら、呪い(・・)を使ってでも蘇らせるしかないでしょう?」

 まとわりつくようだった魔力の香りもまた、無機質な怒りが感じられるものへと変わり、空気が一変するのが分かった。
 有栖が振り返ると、後ろに並んでいた黒狐の集団が示し合わせたかのように二つに分かれる。すると、黒狐に紛れ、中心に立っていた者が露わになった。

「……嘘」

 誰にも届かない香夜の声が、静まり返った座敷にポツリと響いた。
 どうして。
 目の前に現れたその人物を見て、口から出てきたのはその感情ただ一つだけ。
 静寂のなか、白銀に輝く長髪をなびかせた少女の唇が弧を描く。

「……口無し、さま?」

 そこには、口無しの間で見た少女があの日と変わらない姿で佇んでいた。
 赤い瞳、白く透き通るような肌、口元の当て布こそしていないものの、その姿は紛れもなく‟扉”として繋がれていた口無しそのものである。

(くだん)さま、こちらへ」

 そう言って手を差し伸べた有栖に笑みを深めた口無しは、呆然と立ちすくむ香夜の横を音もなく歩いていく。
 口無しが通り過ぎる瞬間、ふわりと舞ったのは線香のような魔力の香だった。一瞬こちらを見た口無しの目が香夜を捉えたような気がして、呼吸が止まる。
 不思議な雰囲気をまとった少女が、座敷の畳に足を擦るたびに、黒々とした影がぶくぶくと湧き出し消えるのが見えた。

「件……予言をする不死の妖か? その身には、幾千もの記憶と英知を携えていると聞くが……」
「幼き鵺よ。わらわは凶事を視た。お前の花贄……呉羽に、一千年前の血が流れておる。元祖の血だ。常夜頭と恋に落ち、悲運を辿った娘の器だ」
 
 澄んだ声で応えた少女の言葉に、識の顔色が変わる。

 一千年前の血。常夜頭と恋に落ち、悲運を辿った娘の器。
 有栖が探しているという、‟古の器”。
 呪いを使って、蘇らせる――。
 香夜の頭の中でバラバラだった言葉が、ピースとなって繋がっていく。

 かつて、深く愛し合った妖と人間の娘がいたということ。
 その妖は、常夜を統べる常夜頭であったこと。
 やがて常夜頭は娘を裏切り、悲しみに暮れた娘の嘆きが徒花の呪いへと変化したということ――。
 この言い伝えが、間違って伝わっていたとしたら?
 徒花の呪いは、全く関係ない第三者(・・・)が生み出していたとしたら?

「件さま、今一度お答えくださいませ。あのお方の血を受け継いだ呉羽さまに、わたしが呪いへと変化させたあのお方の魂を飲み込ませれば、わたしの願いはかなうのですね?」
「ああ、一千年の時を超え、お前の想い人は蘇るだろう」

 そう言った少女の身体は、その指先にわたるまで白く光り輝いていた。この少女は、香夜が本家で出会った口無しと同一人物なのだろうか。見た目も、声色も、記憶のなかにある口無しと一致している。しかし、感じる香りは全くの別物だ。口無しの間で対峙した時は、もっと別の、禍々しいものを感じた。今、有栖の横で清廉と微笑む少女から感じるのは、触れたら一瞬にして崩れ落ちてしまいそうな儚さと、凛々しさを孕んだ気品だった。

「……勝手に話を進めるな、呉羽がなんだって? 一千年前の血だと?」

 怪訝な表情をして、有栖と口無しをねめつける識。
 目が座った有栖の口元から、ふっと息が抜け、こもったような笑い声が溢れる。

「フフ。ハハハハハ、……わたしとしたことが……本題を言いそびれていましたねぇ」
「本題だと?」
「ええ。あなたの花贄となった、呉羽さまをこちらへお渡しいただきたい。なに、手荒な真似はしませんよぉ。少し、呪いを飲み込んでもらうだけのこと」

 有栖の言葉に、識の表情が目に見えて変わるのが分かった。

「さあ、早くお渡しを! わたしはこの日のために力を、魔力を、蓄えてきたのです。徒花の呪いを使って歴代の常夜頭から膨大な魔力を奪ってまで!!」

 目を見開いた有栖が、喉の奥底から咆哮するようにして叫んだ。
 黒く淀んだ魔力から伝わってくるのは膨大な怒りと、憎しみ。有栖の内側から、耐えがたい腐敗臭が漂ってくる。

「……あの方は、妖などと恋に落ちてはいけなかった。わたしと結ばれるべきだった。――識さま、あの方の器を、返してください」

 頭が割れるように痛い。
 有栖の声が、淀んだ魔力が、直接脳内に入り込んでくるようだ。

「……ふざ、けるな」

 柱に寄りかかった識が、ひどく震えた声でそうこぼした。
 聞いたことのない声色と、怒りがにじんだ表情。深紅の瞳がうろたえ、揺れ動く。

「お前も哀れな男だ、幼き鵺当主よ。わらわはお前の凶事を視た。今日、お前は争いに負ける」

 口無しと同じ容貌をした少女がささやく。
 その瞬間、ふわりと華の芳香がし、識の黒髪が目の前をよぎった。

「……ふざけるなと言ったのが聞こえなかったか? 件。俺が負けるだと? 呉羽はもうとっくに俺が逃がした。負けるのは貴様らの方だ」

 どこから出したのだろうか、いつの間にか識の手に握られていた長刀が、少女の首元に突き付けられていた。
 反り返り、鈍く光を放つその刀の柄は以前凪が出したものとよく似ている。

 ごふ、と咳込んだ少女の口から、鮮血が流れ落ち、畳を汚した。
 刀を突きつけられてもなお凛然たる面持ちで佇む少女に、識が持った刀の切っ先がわずかに下がった。

「わらわを殺すか、鵺よ」
「……他に何を見た、呉羽のことか? 答えろ、件!」

 座敷に響き渡る識の激昂と、少女の声。それを、不気味な朗笑が邪魔した。

「フフフフ、フフ、ハハハ、件の予言は絶対ですよぉ? 識さま。さあ、呉羽さまをどこへ隠したのです? 早く出してください」

 有栖の合図と共に、風を切った黒狐の集団が識に向かって一斉に襲い掛かる。

「識!!」

 思わずそう叫ぶが、香夜の声は、識に届かない。
 少女に向けられていた識の刀が、黒狐の攻撃にぶつかり鋭い剣撃の音を鳴らす。
 険しい顔をして何十もの攻撃をかわす識だが、忍のように身体を低くさせて刀をふるう黒狐の方がやや優勢にも見える。

 ――魔力の錬成が間に合っていないのだ。
 荒々しい力の香りが香夜の鼻を刺す。識のものだ。識が、力で押し負けることなどあるのだろうか。
 背ににじんだ汗が、じわりと香夜の襦袢を貼りつかせる。

「……っぐ、……!」
「識さまさえ諦めて下されば、全てが丸く収まるのですよぉ」

 有栖が、首元にかけたロザリオを手にする。
 まとわりつくような甘い声が、脳内を揺らした。

「――そうですね、では、呉羽さま自身が死を望んでいたとすればどうしますか?」

 錆びた銀の十字架を握りしめ、有栖がそう言った瞬間、識を覆っていた気が変化するのが分かった。

 識が持っていた刀がスッと虚空を舞い、下に降ろされる。
 一瞬の出来事だった。その一瞬の間で識から失われたのは、‟生きようとする気力”。
 識を立たせていた力が全身から消え、目の色が失われていく。

「……駄目、お願い、やめて」

 情けなくこぼれた自分の声が、まるで他人が発した声のように聞こえた。