付き合い始めたからと言って、あいつはのろけ話は一切しない。
それどころか、僕たちの会話の中に「坂井さん」というワードは、まるで禁句のごとく出てこない。
もともと恋バナなんてする仲ではなかったから、別におかしなことはないんだけど。
急にのろけだされても、困るし。
だからこんな風に、あいつが僕の前で「坂井さん」の名前を出すこと自体、ちょっと驚きだった。

「坂井さんには、まだ言ってないから」

その声で、我に返った。

「えっと……何の話だっけ?」
「だから、留学するって話」
「誰が?」
「俺が。おまえ今まで何聞いてたんだよ」
「ああ、ごめん。ていうか、ほんとに留学するの?」
「まだ決まってないけど、そのつもりで動いてる」

ようやく頭が回りだして、僕は茫然となった。

「だから、坂井さんには、まだ言うなよ」
「え? 言って、ないの?」
「だからさっきからそう言ってんじゃん」
「え? なんで言わないの?」

僕の質問に、あいつは何も答えない。
ただじっと、光のない目を遠くの方に向けている。
どこを見ているのかは、わからない。


「……何となく……」


複雑そうな表情と声に、なぜか僕の胸まで締め付けられる。
その表情を、僕は時々見つける。
それは、「彼氏」のあいつの顔。
恋するあいつの顔。
そんなあいつの顔を見ていると、なんだか胸の奥で、もやもやっとするものが湧いてくる。
僕はコーヒーを飲み干して、その気持ちを流し込んだ。
やっぱり、苦い。