ふと、目の前を見ると少し離れた所から藍色の髪をした高身長の男性が歩いていた。
遠目から見ても、とても整った顔立ちをしている。
──あやかしかな。
そう思った時、その男性と一瞬だけ目が合った。
その瞬間、美雪の心臓が激しく脈を打つ。
「!?」
その場に倒れ込みそうなほど、バランスを崩したが、一瞬だけだったので何とか立ち直れた。
それよりも、先程の心臓の高鳴りがなんなのかが気になる。
病気などの類いとは違う、なにか。
そう考えていると、その男性がこちらに向かって来た。
「やっと、逢えた……」
──え、どういうこと?
美雪はその言葉に疑問を持ちながら、男性を見た。
目の前に来た男性は、黄金色の美しい瞳で美雪を見つめていた。
また、男性と目が合って心臓が激しく脈を打った。
ふと突然、目の前が滲んだ。
驚く間もなく、頬に何かが流れる感覚がした。
──なに……?
それを指ですくうと、指が少し濡れていた。
「泣いているのか?」
「え?」
男性の言葉に、美雪は驚いた。
自分が泣くことなどあっただろうか。あったとしても、もう何年も前のこと。
「な、泣くほど驚かせてしまったか……?」
男性は、少し焦ったように語ったが、美雪はそれを否定するように首を横に振った。
「ちがいます。じ、自分でもわからな、くて……」
驚いたとかそういう感情ではなく、何故か心が満たされる感覚があった。
でも、美雪はその感情の名を知らない。
──私、どうして泣いてるの?
訳も分からず流れる涙に、戸惑い必死に止めようと拭う。
その時、男性に強く抱きしめられた。
「へ……」
驚きのあまり素っ頓狂な声を出してしまったが、止まらなかった涙が、少し止まった。
「すまない。初対面の男にこんな事をされて、気持ち悪いだろうが……。君の涙が止まるまでだけ、許してくれ」
美雪は、先程のように首を横に振った。
嫌じゃない。気持ち悪いとも思わない。
ぎゅっ、と男性の服を握る。
強く抱き締められてるはずなのに、優しくて温かくて、とても落ち着く気持ちになった。
美雪は、泣き止んだあと男性に名前を聞いた。
「希龍翠翔だ。君は?」
希龍という名前にどこか引っかかったが、考えるよりも先に口が動いていた。
「桜井美雪です。あの、ありがとうございました」
「いや、君が大丈夫ならいい」
「あの。どうして見ず知らずの私を、慰めてくれたんですか……?」
自分など、放っておいても良かったのにと、美雪は思う。
何もしていないのに、勝手に泣いた迷惑な女と思われてもおかしくないのに。
「それは……」
だが何故か、翠翔の頬は少し紅くなっていた。
「君と俺が、番、だからだ」
「……ぇ」
体が石のように固まった。
だが、翠翔と目が合った瞬間のあの感覚、今この瞬間も彼と話すと胸が高鳴るのも、番だと言われれば納得がいく……気がする。
──だけど、どうして私なんかが……。
こんな綺麗な人の番なんだろう、と思う。
誓って嫌とかではない。ただ、何故だろうと思う。
それに先程から引っかかる、希龍という名前。
どこかで聞いた気がするのに、どうしても思い出せない。
「あの、希龍さんは──」
問いかけようとした時、少し離れた所から「翠翔さま!」と焦ったような男性の声がした。
「……祐希か」
翠翔のよく知る人物のようだった。
祐希と呼ばれる男性は、走ってきたのか酷く息を切らして翠翔の斜め後ろに立った。
「はぁ……、こんなところに、いらしたん、ですか…………」
「言っただろう。少し息抜きがしたいと」
「ずっと待ってても帰ってこないから、心配したんですよ!」
すると、祐希が美雪の存在に気づき、かけている眼鏡を定位置に戻して、翠翔に問いかけた。
「こ、こちらのご令嬢は?」
「俺の番だ。美雪、彼は俺の秘書の雲龍祐希だ」
「な、なんと! 翠翔さまの番さまが!」
祐希は驚きながらも、嬉々とした表情をしていた。
秘書という言葉からすると、翠翔は社長かなにかだろうか。
「よ、よろしくお願いします……」
紹介をされたので挨拶はしとこうと、頭を下げる。
「どうぞ祐希とお呼びください。美雪さま。すぐに、屋敷と大旦那様に報告致しますね!」
挨拶を丁寧にさっと済ませたあと、スマホを取り出してどこかに電話をしだした。
「家まで送ろう」
翠翔の一言に、美雪は戸惑った。
いつもなら、この時間はまだ図書館で勉強をしている。
急に帰れば、両親からなにか言われるに違いない。
「い、家には、帰れません……」
美雪は、俯いて少し体を震わせて言った。
「──そうか。なら、俺の屋敷に来るか?」
「!」
美雪は、顔を上げて翠翔の顔を見た。
なにか詮索されるのでは、と不安だったのに一気にそれが無くなった。
彼の瞳からは、優しく温かみを感じた。何故か、それだけでとても落ち着く。
「いいんですか?」
「ああ。祐希、急いで屋敷に帰ろう」
「かしこまりました」
車に乗せてもらい、しばらくするとどこかに止まった。
外に出ると、日本家屋の大きな屋敷が目の前にそびえ立っていた。
「…………」
あまりの屋敷の大きさに、体が硬直する。
「大丈夫か?」
翠翔の声にハッとして我に返る。
一体彼は何者なのだろうかと、何度も思った。
ここまで凄いあやかしなど、そうそういるはずもないのに。
屋敷に入ると、使用人らしき人達が翠翔の帰りを待っていたかのように、深く頭を下げていた。
「「「お帰りなさいませ。翠翔さま」」」
翠翔の斜め後ろに立っていた美雪は、すぐに彼らの目に止まった。
すると、その中で一番偉そうな中年の女性が、嬉々とした表情で翠翔に言った。
「その方が、翠翔さまの仰っていた方ですね! お部屋の準備は出来ております。どうぞ、こちらへ」
美雪は行っていいのだろうか、と翠翔の方を見た。
「一緒に行こう」
翠翔は美雪の手を取り、優しく握った。
「は、はい……」
──どうしてかな、顔が熱い…。湯気が出そう。
翠翔に手を引かれて、案内された部屋は十五畳はある広さの和室だった。
「ひ、ひろ……」
「番さまにくつろいで頂けるよう、椅子やテーブル。押し入れにはお洋服がございます。お部屋の奥には、洗面所と浴室があります」
美雪の部屋よりも、はるかに広い。洗面所と浴室の分を足したら相当だ。
こんな広い部屋を一人で使うのは、到底無理だ。
「他にも、部屋はあるぞ。見るか?」
「い、いいえっ、大丈夫です!」
「そうか」
この広さの部屋やこれ以上のものは、流石に気が持たなそうだ。
──どうして私なんかの為に、ここまでしてくれるんだろう。
ここまで、人から良くされた事がない美雪は、翠翔たちの事が分からなかった。
彼が優しくて温かいことは、身に染みて分かる。自分がそれを、嫌がっていないことも分かっている。
初めて感じる、名を知らない感情がある事も。
「ご夕食は、どうされますか?」
先程、案内をしてくれた女性が翠翔に聞く。
「そうだな。もう夜も暗いし、今日は泊まったらどうだ?」
「そ、そこまでしてもらうわけには……」
「遠慮はいらない。それとも、君は俺と一緒にいるのは、嫌か?」
子犬のような寂しそうな表情をされ、美雪は黙り込んでしまった。
「……わ、分かりました」
断れず、翠翔の口車に乗せられてしまった。
別の部屋に着くと、和食料理が並べてあった。
先程案内された部屋より、少し小さめの部屋だが、和室に変わりはなかった。
──た、食べたことない物ばかり……。
美雪は今まで、栄養が取れればいいと質素な食事を食べてきたので、刺身や寿司などといった物は食べたことがなかった。
──こんなに美味しそうなもの、初めて見た。
ふと横から、くすっと小さな笑い声が聞こえた。
見ると、翠翔が笑いを堪えるように口を手で抑えている。
何かおかしい事があっただろうかと、首を傾げる。
「いや、すまない……。君が、目を輝かせているのがとても可愛くて、少し笑ってしまった」
「え?」
──そ、そんな変な顔してたかな?
美雪は恥ずかしくなって、自分の顔を手で覆った。
「別に隠さなくてもいいんだぞ。可愛いからな」
「で、でも……」
美雪の顔は、湯気が出るんじゃないかと思うくらい赤くなっていた。
その後、夕食を食べ終えた美雪はお風呂に入った。
「……温かい」
湯船に浸かって、初めに思ったこと。
こんなに温かいお風呂はいつぶりだろうと、美雪は感動していた。
──それにしても、これは……。
湯船にぷかぷか浮かぶのは、龍の模様が入った木の桶。美雪はこの模様に見覚えがあった。
「希龍家の家紋と同じ…」
やっと、翠翔が誰なのか分かった───いや、分からない方がおかしかった。
あやかしの中で最も力を持つ龍。その中でも随一の能力を持つのが、希龍家だ。
希龍家は政治経済を掌握するほどに、力を持っていた。
そしてその希龍家の現当主が翠翔なのだ。
テレビやネット情報を見ない美雪でも、聞いたことはある。ただ、自分には関係の無いことだと頭から消えてしまっていたのだ。
──どうしてもっと早く思い出せなかったの、私……。
入浴を終えた美雪は、先程からとても良くしてくれている使用人の優春に質問をした。
「あの、優春さん」
「何でしょうか、美雪さま」
優春は聖母のような微笑みを浮かべて、返事をした。
「優春さんのような人達は、翠翔さんも含めて龍のあやかし、なんですよね?」
「はい。本家である希龍家とは違い、私共使用人は、代々、希龍家に仕える分家ですが、能力は個々持っております」
優春は右手に水、左手に雷を作り、美雪に見せた。
「凄い……」
「龍のあやかしは、昔から水と雷を操る事が出来ます。私は微力しか使えませんが、翠翔さまなど本家の方々は、私共はもちろん、他のあやかしなど比べ物にならない程、強い能力を持っています」
「や、優春さんよりも?」
「はい。私などよりも」
にこり、と微笑む優春が、嘘を言っているようには見えなかった。
先程の優春の見せてくれたものにも驚いたのに、それ以上の能力となると、一体どれほどなのだろうか。想像しただけでも、震え上がりそうだ。
「ご心配なさらなくても、能力を使うことなど滅多にございませんよ」
美雪を安心させるように、優春は優しく微笑む。
「そ、そうですよね」
「さあ、もうお休み下さい。お話はまた今度致しましょう」
「あ、はい。お布団、ありがとうございます。おやすみなさい」
優春は深く丁寧に頭を下げると、部屋から出た。
──優春さん。失礼だけど、おばあちゃんみたいな人……。
美雪は、畳にしかれている布団に入る。
いつも家のベッドは冷たいのに、この布団からは温もりを感じた。
──私のおばあちゃんも生きてたら、あんな感じだったのかな……。
そう思いながら、布団の温もりに包まれて、美雪は深い眠りについた。
♢♢♢
「翠翔さま、お休みにならないのですか?」
翠翔がずっと、机に向かっているのでそろそろ寝たらどうかと祐希から言われる。
「もう少しだけだ」
翠翔はずっと、同じことを繰り返している。
「早くお休みにならないと、明日の朝、美雪さまにお会いできませんよ」
「それは困る。だが……」
翠翔は、美雪に出会った時のことを思い出す。
──彼女を一目見た瞬間、心臓が鷲掴みされたようだった。番だと、すぐに分かった。流石に涙を流された時は、拒絶されたと思ってしまったが……。
今なら、嫌われていないことが分かる。多分。
だが、それよりも気になるのは、あの生気のなかった空虚な赤茶色の瞳。
感情のない、無の表情。
泣き顔と照れた顔を見た事はあったが、まだ笑顔を一度も見れていない。
一体、彼女はどんな人生を歩んできたのだろう。
翠翔は気になって仕方なかった。
「祐希……」
「美雪さまの身辺調査でしたら、もう終えていますよ。見るのは、翠翔さまの自由です」
ちょうど言おうと思っていたことを言われ、驚き、目を見開く。
「……感謝する。今すぐにでも見たいが。明日、本人に直接聞いてみる事にする」
「お話なさらなかったら?」
「……その時は、その時だ」
♢♢♢
『──き。美雪……』
知らない声。だけどどこかで聞いたことがある声が、美雪を呼ぶ。
目を覚ますと、真っ暗な空間が広がっていた。
『だれ……?』
目の前には、知らない女性が立っていた。
驚くことにその見た目は、美雪にそっくりだった。
長い茶髪と、赤茶色の瞳。歳も美雪とほとんど変わらないように見える。
──まるで、鏡を見ている感ような……。
『あなたは……』
『私は貴女。そして貴女は私』
『貴女が私……?』
彼女の言っている意味が分からない。理解できない。
──だけど、どうしてか信じないといけない気がする……。
目の前の人は、瞳から一筋の涙を流した。
だけど、表情に変わりはなかった。
『お願い、私。もう絶対に、あの人から離れないで』
『え……?』
翠翔のことだとすぐに分かったが、離れるなとはどういう事だろうと疑問に思う。
『お願い。今度こそ──』
目が覚めると、見慣れない天井に違和感を覚えたが、翠翔の屋敷だとすぐに思い出す。
──あの人、表情は変わってなかったけど……。とても哀しそうな目をしてた。
自分にそっくりな人の言っていたことを思い出す。
『絶対に、あの人から離れないで』
『お願い。今度こそ……幸せになって』
一体どういうことだろうと、考えてみるが、そう簡単に答えは出そうにない。
体を起こして、部屋にある時計を見ると朝の八時だった。
運がいいことに、今日は学校が休みなので慌てる必要が無かった。
「美雪さま。お目覚めですか?」
襖の向こう側から、優春の声が聞こえ、ビクッと体を震わせた。
「は、はいっ」
「朝食の準備が出来ておりますが、どちらで召し上がりになりますか?」
「あ、えっと。き、昨日夕食を食べたところで……」
「かしこまりました」
屋敷の使用人が用意してくれていた洋服を適当に着て、昨日の部屋に向かった。
「お、おはようございます」
「ああ。おはよう。昨日はよく眠れたか?」
翠翔の優しい微笑みに、美雪は頬が熱くなるのを感じた。
「は、はい。とても、よく眠れました」
「それは良かった」
──周りの方々から、温かい眼差しが向けられている気がする……。
朝食は、昨夜出た和食ではなくパンやスープなどといった洋食が出てきた。
「わあ……!」
──昨日出てきたのも、全部美味しかったけど。この料理もとても美味しそう。
ハッと、翠翔をちらりと見る。
昨夜のように笑ってはいないが、微笑ましそうに美雪を見ている。
「食べないのか?」
「い、いえっ。いただきます!」
朝食を食べ終え、部屋に戻った美雪は、椅子に沈み込むように座った。
「どれも美味しかった。けど……」
──慣れないもの食べすぎて、胃もたれしそう……。まだ若いはずなのに……。
ふと、机に置いていたスマホの着信音が鳴った。
手に取って開くと、七夏からのメールだった。
なにか連絡する事があっただろうかと、確認のために画面を開く。
見ると、『おはよう!』の文字と共にスタンプが送られてきていた。
友人同士が送るなんでもないやり取りだが、美雪は違った。
「スマホって凄い……」
スマホを使って、友人とメールなどをした事がなかった美雪は、感嘆していた。
家族とも、必要最低限のやり取りくらいしか……というよりほとんどしないので、美雪は目を輝かせた。
ハッとして、すぐに「おはよう」と送った。
するとすぐに返事が来た。
「メールって凄い……」
しばらく七夏とメールで話していると、襖の向こう側から、翠翔が「美雪。少しいいか?」と言われ、「は、はいっ」と返事をした。
部屋に招き入れ、長椅子に二人で隣合うように座る。
「特に不便はないか?」
「全然ありません。皆さん優しくて、とても良くしてもらってます」
「そうか。それは良かった」
翠翔に優しく微笑まれ、思わずドキッとしてしまう。
「だが、少し心配なことがあるんだ」
「?」
美雪は、なんだろうと、首を傾げる。
「君のご家族は、心配しているんじゃないかと思ったんだ」
「あ……」
家族は、美雪の心配などする人達ではないから、特に問題は無いだろうと頭から消えていた。
だが、翠翔は美雪の家族のことを知らないので、そう思うのも無理はない。
──ちゃんと、説明した方がいいよね……。
美雪はきゅっと口を紡ぐ。
今まで、家族のことを誰にも話したことは無い。
唯一の友人である七夏にでさえも。
美雪の家庭の事を知っている近所の人は、愛されない美雪を憐れんで距離を置いてきた。
だから、翠翔や七夏に話して距離を取られた時、また独りになってしまうのではないかと、怖い。
──でも、話さないと。きっと、もっと心配させちゃう。