その時俺が出くわしたのは、大きな何かの塊だった。闇の中の靄のような、そんなもの見えるわけもないのに、とにかく「何かがいる」のは分かった。
 うるさい奴、と言っているのが聞こえた。
 よく来る奴、喰われたいようだ、いつも守られていると思うな、と。
 あやつがおらぬうちに取り込んでしまえ、喰ってしまえ、と。
「やめよ」
 淡々とした声が聞こえて、少女が暗い木立の向こうから歩いてくる。
 ざわざわとした靄が、何か抗議のようなものを言っているのが分かった。言葉ではなくて、そういう波長のようなものが、うるさく頭の中に響いてきた。
 俺は思わず頭を抱えて座り込む。ひどい頭痛に、目の前がぐるぐる回って、吐き気がした。実際に、そのまま吐いた。内臓がひっくり返るかと思うくらい。止まらなかった。
「いい加減にしろ、私の獲物だ」
 小夜子の声に怒りが宿る。何かの塊は、聞こえない憎しみの声をあげながら、どこかへ消えていった。
 靄がいなくなった後、俺は気持ち悪くて、吐いたのが恥ずかしくて、小夜子に怒鳴っていた。
「やっぱり喰うんだろう!」
 ――それでもいいと、どこかで思った。
「言葉の綾だ。いちいち面倒な奴だ」
 珍しく、小夜子の声には何か強い感情がこもっていた。
「つきまとうな。もう来るなと何度言えばいいのか」
 くるりと背を向けて歩き出した小夜子を、慌てて追いかける。気持ち悪い、また吐きそうだ。だけど、どうしても追いかけないといけない気がした。ひとりになって、変なモノに会うのが恐いからじゃない、帰れなくなるからじゃない。
 だが小夜子は素っ気ない。
「こんなところに通うなんて、おかしな奴だと思われているだろう」
「そんなに嫌なら、見捨てればいいじゃないか。そしたら野垂れ死ぬか、あいつらに喰われていなくなる」
 小夜子は立ち止まる。黙り込んだ。振り返る黒い大きな瞳が、俺を見た。暗闇の中に爛々と光るようなそれは、ただただきれいで、怒りでいっぱいだった。そんな小夜子を見たことがなかった。
 赤い唇が、今まで聞いたこともないほど、強い声で言った。
「もう二度と来るな。なんのために、お前をあちらに帰したのか。お前の命を生きろ」
 気がつくと俺は、子供の頃のように、神社の鳥居の下に立ち尽くしていた。
 それからどれだけ小夜子を呼んでも、何度神社へ行っても、俺は異界へ行けなくなった。