「ねぇ、今度はいつ会えるの?」
「んー、仕事が忙しいからまた俺から連絡するよ」
ベッドの中で愛美の甘ったるい声が耳朶を打つ。潮時だなと思った。
ぴたっと俺の胸元に顔をつけ、満足げに口角を上げる彼女に心の中でもう二度と会うことはないだろうと言った。
セックス後の生々しい匂いと汗ばんだ彼女の体を撫でる。
愛美はスタイルも顔も良い女子大学生だ。都内の誰もが知る有名私立大学へ通っているようだ。出会いは出会い系のアプリだった。
簡単だ、スマートフォン一つでこんなに可愛い子と一夜を過ごせるのだから。
「男の人ってさぁ、“した後”って少し冷たくなるよね。裕也もそういうタイプじゃない?」
「そんなことないよ」
俺はそう言って愛美の髪を撫でる。
有名私大に通っている割には“賢く”はないようだ。あんなアプリで知り合っておいて本命になれると本気で思っているのだろうか。
誰もが知る大手企業に勤め、自分で言うのも何だが顔もいいし昔からモテていた。
女性に困ったことなど一度もない。親は大手医薬品会社の役員を務めていたこともあり家は裕福だった。幼いころから既に出来上がっているレールの上を歩くだけでいいのだ。
それだけで全てが上手くいく。
と、急にスマートフォンの振動する音がホテル内に響いた。
直ぐに誰からの電話なのか分かった。妻のすずだ。
すずとは同じ会社で出会った。部署は違ったがおっとりとしていて育ちのいい彼女は妻にするなら満点だと思っていた。顔やスタイルはそこそこだが俺の結婚相手の“条件”をすべて満たしていた。
「奥さん?」
「あぁ、多分そうだな」
「え~私と一緒にいるときくらいは奥さんからの電話は出ないでよね。裕也次はいつ会えるの?」
「だからそれはまた連絡するよ」
「本当に?」
「本当だよ」
疑い深い視線を向けられるが無視をした。
妻がいるということは実は一度目に会ったときから話していた。しかし彼女はそれでもいいといった。
割り切った関係が一番いい。スマートフォンには数人の割り切った関係の女性の名前がある。その中の一人である愛美の名前をホテルを出てすぐに消した。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「ごめんな、今日も残業で」
「大変だよね~今の部署は特に忙しそうだから。私なんてずっと総務だったから定時で帰れたもん」
仕事は定時で終わっていたのだがまさかセックスをして帰ってきたなど言うわけはない。
何食わぬ顔でただいまと言ってリビングのソファでくつろぐ妻の顔を伺う。彼女に気づいている素振りはない。
すずは結婚してすぐに会社をやめた。
おそらくすずだって俺と結婚すれば専業主婦になれるというメリットを考えていただろうし、俺だってそうだ。結婚というのは打算だ。好きとか愛しているだけでするものではない。
今日会った愛美だってそうだろう。俺が大手企業に勤め、年収も申し分ないとわかっていたから本命になろうとしたのだ。女も男も、一緒だ。
彼女は俺の中の理想をすべて満たす。まずは馬鹿だということだ。遊ぶ相手は割り切ってくれる賢い女性がいいが妻は違う。真逆だ。出来るだけ馬鹿な女性がいい。世間知らずで俺が言うことをすべて信じてしまうような子だ。それがすずだった。
付き合っている時、一度浮気がバレそうになったことがある。
というのも、珍しく俺がミスをしたのだ。自宅では絶対に浮気相手を呼ぶことはないが一度だけ許してしまったことがあった。その時、浮気相手が洗面所にマスカラを置いていった。おそらくわざとだろう。
それを発見したのはすずだった。
『ごめん、実は体調不良だった友人を少しの間だけ家で休ませていたんだ。そのあとタクシーで帰ったよ』
正直、誰が聞いても疑うだろう。もし疑われて面倒なことになれば別れようと思っていた。なのにすずはそうなんだ、と言って納得してしまった。
背広を脱ぎながら他愛のない会話をしていると、すずはテレビドラマにはまっているようでエンディングが流れると「馬鹿な男だね」と言った。
「え?」
独り言のように言ったそれに背筋が粟立つのが分かった。
「不倫だよ、不倫。どろっどろのやつ。男側が馬鹿なんだよ~もう絶対バレているのに!」
不倫というワードにドキッとした。もしかして疑われている?
そう思い彼女を見る。が、彼女は「そのドラマがね~」と楽しそうに続きを話そうとした。
ほっとして一瞬固くなった頬を緩ませる。
なんだ、やはり彼女は馬鹿だった。
♢♢♢
「なんで結婚なんかしたんだよ。俺みたいに一生独身の方が都合がいいだろう」
「俺もそのつもりだったよ。でも理想の子に出会ったからしょうがないだろ」
「理想の子に出会ってなんで浮気なんかしてんだよ」
久しぶりに会った大学時代の友人と居酒屋に来ていた。
彼は春樹と言って大学卒業後はIT企業に勤めている。春樹はジョッキを傾け、一気にビールを喉に流し込むと一週間の疲れを吐き出すように「最高~」と言った。
「浮気って言っても体だけの関係だよ。それにすずは結婚する価値がある子だったんだ」
「はぁ?体だけだろうが何だろうが同じだろ。それにお前の奥さん、可愛いじゃん。一回しか会ってないけどめちゃくちゃいい奥さんだと思ったけど。そんな奥さんがいて浮気って最低だなー」
「いい奥さんだよ。俺が浮気しても疑うこともしないし。それにすずのお父さんは俺の働いている会社の重役だからね」
「はは、それで出世狙いか~。本当に打算的だよな、お前は」
「みんなそうだろ。女も男も」
「まぁそういうもんか?」
すずは所謂“親のコネ”で何とか入社した社員だ。大学だって大したところは出ていない。
社内でもそれは噂になっていた。
彼女もそれに負い目があるのだろう。結婚の話をしたらすぐに会社を辞めると言っていた。
すずとの結婚は俺の出世を明らかに早めただろう。
おそらく来年には海外赴任がある。
そのあとは同期の誰よりも出世は早いだろう。
ある程度飲んでから帰宅した。パジャマ姿でスッピンのすずは笑顔で俺を迎えてくれる。
「飲んできたんだね~」
「春樹とな。ほら、前に会っただろ」
「うん、裕也君の友達いい人だった」
ちょうど時刻は21時を過ぎていた。すずはだいたいこの時間はテレビにかじりついている。
俺がすぐに帰宅する日はちゃんと食事も用意してくれていて家事も完璧だ。
寝室で部屋着に着替えてからリビングに行くとちょうどドラマの合間に入るCMが流れていた。
「ドラマ好きだね」
「うん、脚本家がいいんだよね~毎週楽しみなの。私特にドロドロした話が好きかも」
「へぇ、そうなんだ」
「今見ているのも結構ドロドロした不倫の話なんだ~。旦那さんが浮気性で何度も浮気してるの。で、奥さんは気づかない振りをして証拠集めている最中なんだ。そのソワソワする感じ?ドキドキする感じがたまらないの~」
冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す手の動きが止まる。
いや、まさか…―。
今、すずが語った内容はまるで今の俺たちの状況そのものだった。
(そんなわけないだろう。あいつが浮気に気が付くような女じゃないのはわかっているだろう。絶対に偶然だ、絶対に、)
後ろからあくびをする声がする。
変な汗が背中を濡らしていくのが分かった。
「なんだか眠たくなってきた…ごめん、先に寝るね」
「あぁ、わかった。おやすみ」
「うん、おやすみ~」
すずはそのまま寝室へいった。一人残されたリビングではすずが見ていたドラマが流れていた。
「大丈夫だ。バレているわけがない」
ごくり、唾を呑み込みコップに麦茶を注いだ。それを持ったままソファへ移動した。
心拍数が上昇しているのを抑えるようにして深呼吸をする。そして麦茶を一気に呑み込む。
そのあと、テーブルにそれを乱暴に置いた。
テレビからはドラマが流れていた。
どんな不倫の話なのだろうかと気になった。
だがおかしいのだ。10分経とうとそういったシーンもなければ登場人物もおかしい。
学生が中心になって物語が進んでいる。たまたま回想しているシーンが多いだけなのだろうか。
気になってドラマのタイトルを調べた。
そして絶句した。
「…どういう、ことだ…―?」
それをスマートフォンで検索を掛けるがやはり青春ドラマだった。不倫のドラマではなかった。じゃあ、一体彼女は何を見ていた?
気になって今期のドラマを片っ端から調べた。しかし、不倫のドラマは何も出てこない。
「…どうして、」
混乱している最中、寝室のドアが開いた。
振り返るとそこには寝ていたはずのすずが立っていた。
「寝ないの?」
いつも通りの彼女だ。なのに、ぞわぞわと不快な感覚が全身を包む。
「寝るよ、ちょうど麦茶飲んでいたんだ。シャワー浴びてから寝る」
「そうなんだ」
「すず、寝てなかったのか」
本人に訊けばいい。それだけなのに、それが出来ない。
すずの顔からいつもの柔和な笑みが消えた。
「寝てたよ。でもドラマの録画するの忘れてて」
「…あ、そうなのか」
頬が引き攣っているのが自分でもわかる。
「なぁ、すずの好きなドラマって何てタイトル?」
すずは言った。
「馬鹿な君へってタイトルだよ」
END