「俺は、ユウって呼んでる」
「…ユウ?」
「そう」
それは、私の知らないあめさんの名前だった。
「あめさん、ユウって言うんですか?」
「うん、俺はね」
「ミトさんは?本名では無いという事ですか?」
「さぁ?どうだろうね」
「アイツ個人情報明かさないからなぁ」なんて、彼はその件に関して特に関心を持っていないような態度で、煙草に火を点けながら言った。
じゃあ何で"ユウ”なんだろう。
「ユウって、名前の意味はあるんですか?」
「意味?」
「あれ。ミトさんがつけたんじゃ無いんですか?」
「違うよ。アイツがそう名乗ったから、だから意味何て分かんねぇ」
「…そうなんですか」
あめさんが名乗る事もあるのかと、また新たなあめさんを知った。知れば知るほどに、知らされなかった自分が惨めになる気がするけれど、それでも知れる事が嬉しくて、とても複雑な心境だ。
「他にも色々呼ばれてんだけど、アイツが俺に名乗ったのは "ユウ”だから。それが本名だってアイツに言われた訳じゃないし、どれが本当だかなんて分かんねぇんだよな」
そんな身近に起きるとは思えないような事を、彼は当然のように告げる。彼らの世界ではそれが普通なのだろうか。
そういえば、初めてミトさんに会った時、私の名前にミトさんは本名かを尋ねた。だからだったのか。沢山名前がある事が常識な世界は、やっぱり存在するのかもしれない。まだまだ私の知らない事が沢山あるのだ。
驚きと感動を体験する私とは正反対に、特に何も特別な感情を抱いていないミトさんは、さて、次だと、あっさり本題へ向かって歩を進める。
「ハルキちゃん。アイツと最後、いつ会った?」
その問いに、私は「多分、1ヶ月ぐらいです」と答えた。
…でも、本当は知っている。多分じゃなくて確実な事も、今日を過ぎると1ヶ月になる事も。それでも、私が執着しているように見えないように、多分と濁して答えたのは、私の見栄だった。
そんな私の心境には気付かないミトさんは、私の返事から別の何かを得たらしい。そうだよな。なんて独り言を呟く。
「アイツ、最近出て来なくてさ。まぁ…1ヶ月前くらいからかな。ハルキちゃん、アイツと何かあっただろ」
「え、いや…その……」
「うん。もうさ、俺も困ってて。だからハルキちゃんの力を借りたいんだよね」
「…私のですか?」
「うん。ハルキちゃんに、アイツを復活させて欲しくて」
「復活?」
「そう。アイツ、このところ落ち着か無かったんだけどさ――」
その頭出しから、ミトさんは私の知らないあめさんについて、語り出す。
「最近になってアイツ、なんかゆとりが出来たんだよ。何考えてんだか分かんねぇし、なかなか顔に出さねぇ奴だったけど、この所妙に尖んがってた雰囲気が柔らかくなってさ。ホッとしてたんだよな」
「…そうなんですか…」
…私は、あめさんって思った事をすぐ顔に出す人だなって思っていた。嬉しいとすぐに笑うし、嫌だとすぐに不機嫌になるし、クルクル表情が変わる人だった気がする。
「まぁ、酔ってる時はかわいー奴なんだけどな。そこに行くまでが毎度長ぇ長ぇ」
「……そうなんですか」
そう。つまり、やっぱり私は酔った彼しか知らなかったという事。私にあるあめさんのイメージは、酔った時だけのものだった。その事実にとても薄っぺらい関係だったのだなと、現実を思い知らされる。
思い知らされて…頭の中が、ぼんやりとする。
ぼんやりと、もうあめさんに会う事は無いんだろうな…と、感じる。
だから、「でもな、折角良い感じだったのにアイツ、なんかまた尖んがってんだよな」なんてミトさんが話してるのに、私は心此処に在らずな返事しか出来なかった。
どうせ会えないのに、私には関係なんて無くなってしまったのに、こんな話をされてもどうしようも無い。
「調度1ヶ月前ぐらいからだ。何かあったみたいでさ、」
「はい」
「アイツすっかり調子悪ぃんだわ」
「はい」
「始めからいつかこうなるのは目に見えてたし、実際俺的にも丸く収まって助かるっつー事で気づかねぇ振りしてたんだけど…こうも悪くなられるとさすがに困んだよな」
「はい」
「だから、やっぱりハルキちゃんに助けて貰おうと思って」
「はい……はい?」
突然登場した自分の名前に、私はハッと我に帰って聞き直した。聞き間違いかとも思った。ちゃんと聞いていなかったから。でも、ミトさんは困ったように笑いながら、「ちゃんと聞いてなかったろ?」なんて言って、短くまとめてそれを告げる。
「だからハルキちゃんには、アイツを立ち直らせる手伝いをして貰おうと思います」
それでようやく私の聞き間違いでは無かったのだと理解した。これは私に言われているもので、私がお願いされているもの。そう、理解はしたけれど…私には、出来ない。
「…頼って貰えて嬉しいです。出来る事ならお手伝いしたいのですが…でも、」
「でも?」
でも、私はあめさんに何の影響力も持たない。あめさんは、私の助けなんてきっと必要としてない。だってあめさんは、私を遠ざけたのだから。
「…あめさんは、私の助けなんか必要として無いです」
まるで千切れてしまいそうな心地だった。人の助けになる事が私の持つ意味なのに、目の前に居た大切な人の助けにはなれなかった。
そんな私なんて…何の意味も持たない存在だ。
その時、私の耳に入ってきたのは、クスッと笑う小さな声。その声に反応して目を向けた先にあるのは、俯いて笑いを堪えるミトさんの姿だった。
「…どうしたんですか?」
何か可笑しな事でも言いました?と、訝しむ私に、「いや、悪ぃ」と、先ほど同様、悪くなんて思ってもいないだろう態度で彼は謝った。まだ笑うのを一生懸命堪えている姿には、流石に多少の腹が立つ。
「まぁ、自分でどう思おうが勝手だけどさ、これだけは言える」
「…何ですか」
「良くも悪くも、影響しない訳がねぇんだよな」
「?」
「だってアイツ、気になって仕方ねえみたいだからさ」
面白いぐらいにと、ミトさんはついに、凄く楽しそうな大声で笑った。
この人は何を言ってるんだ。気になって仕方ない?そんな事、ある訳がない。
「違いますよ」
「?」
「それは間違ってます」
「なんでそう思うの?」
否定する私を、不思議そうに見つめて尋ねるミトさん。
なんでって、そんな事は何度も考えた。あめさんに否定された後だって、私は考えた。でも結果はこれ、私はあめさんにあれから会えてない。あめさんは私に会いに来てくれない。それが全てだった。
「気になってるなら、なんで来てくれないんですか。1週間や2週間じゃなくて、もう1ヶ月も経つんです。だったらなんで会いに来てくれないんですか」
そしてあの日の事を思い出すと、いつも苦しかった。もう会いたく無いのだと、さよならをあの日に言われたのだと思うと、苦しくて仕方ない。
もう一度あの日に戻ったところで同じ結果だろうけれど、それでも間違いを取り戻せたらと願う程に、私は後悔していた。きっと私は間違えたのだ。
…それなのに。
「いや、そんなの分かんねぇけどさ」
ミトさんは必死な私の訴えを、そのたった一言で揉み消した。まるでたいした事でも無いと言うようにミトさんはその後、「何にせよ、アイツに会ってやってくれれば、俺は助かるんだけど」なんて、しれっとした顔で私に言う。
い、いやいや、そんな事を言われても。そんな簡単な事じゃないんです!会って貰えないって、私言いましたよね?
「だから、あめさんが来てくれなきゃ会おうにも会えないんです」
「なんで?」
「なんでって、あの場所以外にあめさんと会う場所なんてどこにも無いし、どこに居るのかも知らないし…」
「うん、だから俺が来た訳」
「…?」
訳が分からないと、じっとミトさんを見る私の目は訴えていたのだろう。彼は笑いながら私の視線の答えをくれた。
「連れてくよ、アイツん家まで」
そして、「元々そのつもりだったんだけど」なんて思惑も、正直に披露してくれた。
それはミトさんからの素敵な提案――の、はずだった。
まず結論から言うと、私はミトさんからの申し出を受け入れもしなければ、断りもしなかった。というか、答える事が出来なかった。
もう会えないとばかり思っていたあめさん。そんな彼にもう一度会いたい気持ちはもちろん強かったし、会えたならあめさんに言おうと思っている事があった。
あの日のあめさんが残したあの言葉、あの返事を私はまだしていない。
あの時は言え無かったけれど、もしあめさんに会えたのなら、会いに来て貰えたのなら、私はきっと答えられると、そう思っていた。
けれど、いつもの時間にあめさんが現れなくなった始めのうちと、時間が経ってしまった今では、抱いている気持ちは変わってしまっている。
今は、知るのが怖い。会うのが、怖い。
会えない期間に生まれた私の中の仮説を、正しいかどうかの確認が出来ないまま過ぎていく時間は、むやみにそれを肯定していく。
あめさんはもう、私に会いたく無いんだ。
あめさんにとって私は必要ないんだ。
今までずっと迷惑を掛けてたんだ。
どんどん成長する暗い気持ちが、重たく質量をもってのしかかってくる。…つまり、彼に嫌われてしまった可能性が高いのに、わざわざそんな確認をしたいとはもう思わない臆病な私が、ここに居る。
それでも、会いたい気持ちは捨て切れない。"彼に会う”これが現実となって目の前にある今、私の中でより一層その気持ちは大きくなり、自分の中でせめぎあっている。
だからミトさんの言葉に答えられず、真っ直ぐに彼を見る事が出来なかった。
これが二度と無いチャンスなのかもしれないという事が分かっているからこそ、私は何も答えられない。こんなの…生まれて初めてだ。
ミトさんは、答えない私に困ったような表情をした後、腕時計に目をやった。
「あぁー、タイムリミットだ」
「…え?」
「時間切れ。俺、もう行かないと」
どうやらこの後予定があるらしい彼は、特に焦った様子を見せずに言う。その言葉に焦り始めたのは私の方だった。タイムリミットなのは私も同じ。私も今、答えを出さなければならないという事。
どうしよう、どうするべきだと、冷汗をかきながら必死に答えを探すけれど、こればかりはどうにもならない。
するとミトさんは、少し考え込むような様子を見せて、「じゃあさ」と、口を開いた。
「連絡先、前に教えたよね?まだある?」
「あ、はい。もちろんです」
「したらさ、決心付いたら連絡してよ」
「良い返事を待ってるからさ」そう言い残して、彼は車に乗り込んだ。家まで送ると言ってくれたけれど、この後用事があるのにわざわざ悪いと断り、私はいつもの道を歩いて帰る。
早く決断しなければならない。この日から、私の頭の中はそれだけになった。
「なんか最近可笑しくない?」
「ん?」
「ハルキ。どこ見てんだか分かんない」
バイト終わりの休憩室で、ユイから突如言われたその言葉。それは、ミトさんに会ったあの日から5日後の事だった。
「どこ見てんだか分かんない?何だそれ」
「悩んでるんでしょって事。聞いたげるから言ってみなさい」
「えー?だから何なのそれ」
そして、「いつもながらにユイは意味分かんないねぇ」なんて言いながら、私は笑ってごまかそうとしたけれど、「いいから早く」と、強く睨まれ、どうするべきかと私は考える。
前からそうだけど、別に言いたく無い訳ではない。どうやって言えばあめさんの事が伝わるのか、それが分からないから、ユイにまだ言えていなかった。
そろそろ頃合いなのかもしれない。私一人では抱え切れなくなってきていて、それもユイにはお見通しだったのかもしれない。
「あの…あのね?ちょっと、悩むというか、迷ってる事が、ありまして…」
「うん」
「あのさ、あの…参考に聞きたいんだけど…良い?」
正解が分からないまま、恐る恐る尋ねる私に、ユイは「どんと来い」と大きく頷いた。「もしユイがね?」と、仮定する形で話してみる。
「もし、会いたいけどもう会えないと思ってた人にまた会える事になったら、どうする?」
「そりゃあ会うでしょ」
「うん。でも、もしその人が自分に会いたく無いって思ってたら?」
「……それって、絶対なの?」
「うん…ほとんど100%に近い」
「……」
するとユイは、考え込むように黙り込む。
「なんか、会えるって分かる前まではね?何て思われてても良いから、一度だけでも会いたいなぁ…なんて思ってたんだけどさ」
「……」
「でもいざ会えるとなると、急に怖くなっちゃって。会えたとしても拒否されたらやっぱり悲しいし、誰?なんて、向こうに忘れ去られてるって事も有り得るでしょ?」
「……」
「なんかやっぱり妄想と現実は違うなぁって、改めて感じた。もうなんか、どうする事が1番良いのか分かんないんだよね」
「……、!」
「まぁ、こんなのどうせただ私が傷付きたくないだけに決まってるんだけど…あれ?何、どうしたの?」
急に大きな瞳を更に一回り大きくさせて顔を上げたユイ。その表情は先程とは打って変わって、なんだかスッキリとしていて、彼女は私の方を見て「思い出した!」と明るい声色で言った。
「どっかで似たような事聞いた事ある気がしたんだよ!コレだコレ!」
そう言ってゴソゴソと鞄からと彼女が取り出したのは、ピンクのiPod。
「この歌の歌詞、今のハルキみたいなんだよね。まぁとりあえず聞いて!」
イヤフォンを私に手渡して、ユイは曲を再生した。前奏の後に続けて聞こえて来たのは、聞き覚えのある女性の歌声。
「…アサヒ?」
そう私が小さな声で呟くと、ユイは頷き、それが昨日発売された新曲のカップリングだと教えてくれた。
静かな中に激しさを含んだバラードで、始めにユイに言われたからかもしれないけれど、まさに私の今の心境を歌にしたといっても過言では無いような、後ろ向きに彷徨っている状況を表している曲だった。
悲しく切ない歌詞を力強く歌い上げるアサヒの声に、私は胸を締め付けられる。