君がくれた物語は、いつか星空に輝く


「雨だね」

 ぼんやりした世界に、日葵の声が聞こえた。
 上を見ると、細かな雨がさらさらと顔に当たった。

「濡れるからなかに入ろう」

 腕を引く日葵に前を見ると、病院の自動ドアはすぐ先にあった。
 行動を起こすことを決めたはずなのに、勝手に足が止まっていたみたい。
 足をなんとか前に進めると、自動ドアをくぐってフロアに足を踏み入れる。

 もっと混んでいると思っていたけれど、受付前にはあまり人の姿はなかった。
 以前ほどではないにしても、お見舞いには規制がかかっているのだろうか。
 見ると、エレベーター前には看護師がふたり立っていて、訪れた人をチェックしている。
 これじゃあ優太の入院している病棟へは行けない。
 そもそもどこに入院しているのかもわからないのだから。

 日葵はスマホを操作しながら「大丈夫」と言ってから顔を巡らせた。

「あ、来た」

 日葵の目線の先を追うと、エレベーターからひとりの女性がおりてきた。
 薄いカーディガンにベージュのスカート姿の女性は、優太のお母さんだった。
 私たちを見て、小走りで駆けてくる。

「おばさん。急にごめんなさい」

 日葵の挨拶に、私も慌てて頭を下げた。

「いいのよ」

 やわらかい声に顔をあげると、おばさんはさみしそうに口元に小さな笑みを浮かべていた。
 すごく疲れている顔だと思った。
 自分の子供が事故に遭ったのだから当然だろう。

「じゃあ悠花、がんばって物語を紡ぐんだよ」
「え?」
「ここからは家族しか入れないからさ。さすがに同年代ふたりが家族ってのは怪しまれるでしょう?」

 バイバイと胸の前で手を振る日葵。

「でも……」
「ほら、早く行って」

 強めに背中を押され歩き出すと、おばさんも黙って横に並んだ。
 ふり返ると、もう一度手を振ってから日葵は病院を出て行ってしまった。
 私を連れてくることをおばさんに連絡してくれていたんだ……。

 おばさんが歩き出したので、遅れないように並ぶ。
 なにを話しかけていいのかわからないけれど、せめて守れなかったことをちゃんと謝りたい。

「おばさ――」
「あの子ね」

 かぶせるようにおばさんは言った。

「昔から体だけは丈夫だった。鉄棒から落ちたときも、階段から転げ落ちたときもピンピンしてたのよ」
「…………」

「だから大丈夫よ」と、おばさんは私を見て少し口角をあげた。

「……はい」

 どうして私はこんなに弱いんだろう。
 やさしい人にやさしい言葉をかけられない。悲しい人を励ますこともできない。
 唇をかみしめるだけしかできない自分のことが、私は大キライ。

 エレベーターの前を素通りし、奥の廊下へ進むと『ICU入口』と書かれた自動ドアがあった。
 その前にもひとり看護師さんが立っていた。

 優太はICU……集中治療室にいるってこと?

 急に襲われる寒気に負けないように、必死でおばさんについていく。
 おばさんは看護師さんから名簿を受け取った。

「ICUでお世話になっています。笹川優太です」

 名簿には『悠花』と私の名前が記され、続柄は『次女』となっていた。
 看護師さんが私のおでこにピストルのような機械を当てて「平熱です」とうなずいた。
 自動ドアのなかに入ると、おばさんは大きく息を吐いた。

「うまくいったわね」

 おかしそうに笑うけれど、やっぱり悲しみがあふれているのが伝わって来る。

「すみません。ありがとうございます」

 やっと気持ちが言葉になった。

「悠花ちゃんのほうのケガは大丈夫?」
「はい」

 私のことなんてどうでもいいのに、おばさんはやさしく聞いてくれた。
 奥にはさらに分厚い扉があり、横にはインターフォンが設置されていた。
 おばさんはボタンを押し、なかの人と話をしている。
 自動ドアが開くと、おばさんは先を歩き出した。

 廊下の右側にカーテンで仕切られた部屋があるみたい。
 機械の音や誰かの声、器具の音が洪水みたいに襲ってくる。

 左側には大きな窓があった。はめ殺しの窓は開けられないようになっている。
 よほど分厚いガラスなのだろう、激しく降り出した雨の音も聞こえない。

「悠花ちゃん」

 ふいに肩に手を置かれ、ビクッとしてしまった。

「あ、驚かせちゃってごめんなさい。大丈夫?」
「はい」

 カーテンの向こうに優太がいる。
 そう考えるだけで、また涙が込みあがってくる。

「まだガラス越しにしか会えないんだけど、ごめんなさいね」

 ああ……そっか。叶人が入院していた病院もそうだった。
 最後の瞬間も、そのあとも、院内感染防止対策のため叶人にはちゃんと会えなかったんだ。

 最後? ううん、違う。優太はきっと元気になるはず。

 おばさんがカーテンを引くと、ガラスの向こうにベッドがあった。
 目を閉じている優太が見えた。頭に包帯が巻かれていて、両足もギプスで固定されている。

 ふいに足元の床が抜けた感覚がして、気づくとその場に座り込んでしまっていた。

「悠花ちゃん!」

 腕を取られなんとか立ちあがってもなお、床がやわらかく感じられる。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 窓ガラスにもたれるように優太を見た。
 青白い顔の優太は苦し気に目を閉じている。
 口元には人工呼吸器が装着されていて、伸びた管は四角い機械につながっている。

 ――ピッピッッピピッ。

 不定期に鳴る機械音が、彼の容態が悪いことを示している。
 ガラスの横の壁には受話器が取りつけてあり、これで向こう側と話ができる。
 でも、ベッドに横たわっている優太とは話をすることさえかなわない。

 これが現実というのなら、私は――小説の世界で生きたいよ。
 でもそこには、優太への想いは存在しない。
 それでも、優太がこんなに苦しむのなら私は、私は……!

 ガラスに手を当てて「優太」と名前を呼ぶ。

「優太……。優太、優太!」

 泣きじゃくりながら名前を呼んでも、彼は私に気づかない。

「一回目の手術は成功したの。でも、臓器の損傷が激しくて、いつ亡くなってもおかしくないって……」

 おばさんの声に涙が雨のようにこぼれる。

「そんな……」

 どうしてこんなことになったの?
 どうして小説と同じ展開にならないの?

「……私のせいです」
「それは違うわ。悠花ちゃんだって被害者じゃないの」

 でも、優太は身代わりになってくれたことは事実だから。

「私が。私が……」

 ――ビーッ!

 大きな警告音が爆発したように響いた。

 まるで脳を揺さぶられるような音に耳をふさぎたくなる。
 バタバタと足音が聞こえ、ガラスの向こうに見えるドアから看護師が飛びこんできて機械を操作し出す。
 遅れてもうひとり、看護師が到着した。

 機械の数値が、目に見えて下降していく。

 ――これは、夢なの?

「優太!」

 ガラスを叩くおばさん。警告音が止まらない。
 優太の顔は見る見るうちに青くなっていく。
 
 ウソだよね。こんなの……ウソだよね。

「優太、しっかりして! 優太! 優太っ!!!」

 割れるくらい、おばさんがガラスをたたいている。何度も、何度も。
 先生と思われる男性が現れると同時に警告音は消えた。
 看護師がやっと私たちに気づいたらしく、一礼してからガラスの内側にあるカーテンを引いた。

 ベージュのカーテンの向こうで、指示を出す声と不規則な電子音が聞こえている。
 おばさんはもうその場に座り込んで嗚咽を漏らしている。

 私は……私は、なにもできなかった。

 ――ピーーーー。

 永遠と思うほどの長い電子音が鳴ったあと、ガラスの向こうからは音がしなくなった。

 やけに静かな世界では、おばさんの嗚咽も聞こえない。

 頭がジンとしびれ、まるで夢のなかにいるみたい。
 なにが起きているのかわからないよ。

 ――プルルルル。

 音は、設置されている受話器から聞こえた。
 見ると、ガラスの向こうで受話器を耳に当てた看護師がカーテンを少し開けてこっちを見ていた。

 おばさんは、動かない。拒否するように何度も首を横に振っている。
 震える手で受話器取り耳に当てると、看護師さんは目を伏せたまま言った。

「お伝えしたいことがあります。お母さんに代わってもらえますか?」

 事務的な口調に、受話器を持つ手をおばさんへ伸ばした。

「……おばさん」

 それでもおばさんはしばらく首を振り続けていたけれど、やがて受話器を取り耳に当てた。

 短い沈黙のあと、おばさんは全身で叫ぶように泣いた。
 絶叫が狭い部屋に響き渡るのをうつむういたまま聞く。

 ああ、もう……優太はいないんだ。

 しびれた頭でぼんやりとそう思った。

 叶人のときもそうだった。
 私たちはあまりにも死に無力で、ただ受け入れることしかできない傍観者。

 もう二度と優太には会えない、会えない、会えない。

 雨の音が聞こえた気がして、廊下にある窓を見た。
 けれど、音は聞こえない。あるのは、おばさんの悲しみにむせぶ声だけ。

『雨星が降る日に奇跡が起きるんだよ』

 叶人の声がやさしく聞こえる。これも、幻聴なのかな……。

「あ……」

 窓の外がさっきより明るく感じられて、気づけば廊下に出ていた。
 ガラスに手を当て上を見ると、雨はまだ降っている。
 けれど、スポットライトを当てたように一部分だけ赤い光が射している。

 その向こうに見えるのは――いくつかの星。

『叶人くんと雨星のことを信じてみませんか?』

 長谷川さんが言った言葉を思い出す。

『小説の世界はあくまで小説の世界。あたしは、悠花の物語を紡いでほしい』

 日葵もそう言っていた。

 もし、今がそうなら……。
 そう思うと同時に駆け出していた。
 ICUのドアを出て、病院の出口へ急ぐ。
 自動ドアから転がるように外に出ると、さっきよりも雨は激しさを増している。

 けれど、けれど……雨雲に丸い穴が空いている部分が見える。
 その穴のなかだけ、朱色の夕焼けが燃えている。

 あの場所に行けば雨星が見られるかもしれない。びしょ濡れになりながら走り出す。
 一歩ずつ、優太との思い出が浮かんでは消えていく。

「優太。……優太!」

 小さいころ、一緒に行ったキャンプのこと。
 夕暮れの土手で寝転がったこと、中学生になり急に背が伸びたこと、お腹を抱えて笑う姿。

 消したくない、忘れたくないよ。

 丸い夕焼けは、高台にある夕焼け公園の真上にあるように見えた。
 必死で坂を駆けあがる。
 どうか間に合って。どうかそのままで。どうか、優太を連れて行かないで!