お母さんはお箸をパタンと落とし、お父さんは飲みかけの缶ビールをくしゃりとつぶした。
今日、予告どおりに大雅は登校してきた。
すっかり大雅はクラスになじみ、私はあいかわらず彼のことを思い出せずにいる。
見るたびに胸の鼓動が早くなり、同時に罪悪感も生まれている。
そう、つまり幸せなのに苦しいという状態が続いている。
明日は土曜日で大雅に会えない。会えないと思うと、もっと会いたくなる。
いつの間にか、大雅中心になっている生活さえも幸せでせつない。
もっと話をするためには、大雅のことをちゃんと思い出したい。
昔から大雅を知ってるであろう両親に話を聞いてみることにしたのは、良いアイデアだっただろう。
意を決し、お父さんとお母さんに大雅が転入してきたことを伝えたところ、ふたりはビデオの一時停止を押したみたいに固まってしまったのだ。
眉をひそめる私に、先に動いたのは斜め前に座るお母さんのほうだった。
「大雅、って……山本大雅くんのこと?」
「そう。今は違う家だけど、小学三年生まではこのあたりに住んでいたんだって。覚えてるでしょう?」
「ああ、そうね……」
平坦な声でつぶやくお母さんに違和感を覚えた。
お父さんも缶ビールをテーブルに置くと口をへの字に結んでしまっている。
いつもにぎやかな夕食に、こんなふうに沈黙が続くのは初めてかもしれない。
「どうしたの。なんかふたりヘンだよ」
「そんなことないわよ。ただ、びっくりして……ねえ?」
お母さんが隣のお父さんに目線を送っている。「ん」と短く答えたお父さんは意味なく、缶ビールに記された文字を目で追っている。
「で、悠花は大雅くんのことを覚えてたのか?」
「それがね、正直に言うと覚えてないの。でもきっとこれから少しずつ――」
「悠花」
話を遮るように、お父さんが低い声で言った。
「あまり、大雅くんには関わらないほうがいい」
「……どういうこと?」
予想外の答えに驚いてしまう。
てっきりなつかしんで、いろんな思い出話を聞かせてもらえると思っていたのに。
ううん、違う。大雅が転校してきたとことをすぐにふたりに言うことができなかった。
理由はわからないけれど、なぜか黙っていることにした。
それは……なぜだろう?
「ちゃんと説明してくれなくちゃわからないよ」
「悠花、お父さんの言うことを聞きなさい」
びっくりした。いつもは私の味方になってくれるお母さんまでそんなことを言うなんて。
「なに……? だって私、全然覚えていないの。大雅がそばに住んでいたことも、一緒に遊んだことも、おじさんやおばさんの顔さえ思い出せないの。それって――」
「悠花!」
思わず、という感じでお母さんが大きな声をあげた。
ビクッと体が震える私に、お母さんは動揺したように首を横に振った。
「あの、ごめんなさい。怒るつもりはなかったの。本当にごめんなさい」
どうしたんだろう。こんなのいつものお母さんじゃない。
不穏な空気がこの場所を支配している気がして、うまく息が吸えない。
「とにかくムリして思い出さなくてもいいってことよ」
とりつくろった笑みを浮かべるお母さん。
大雅と同じセリフでも、思い出してほしくないと感じていることがリアルに伝わってくる。
「昔のアルバムがないのもそれが理由なの?」
大雅のお見舞いに行ったあと、押入れにあるはずのアルバムを探した。
けれど、あるのは小学高学年からのものばかりで、あったはずの幼少期のアルバムは見つからなかった。
「アルバムは荷物になるからおばあちゃんの家に預けてあるの。今度遊びに行ったら見せてもらったら?」
おばあちゃんの家は長崎県にある。わかった上で、お母さんは言ってるのだろう。
自分でもおかしいと思ったのか、お母さんは「あのね」と真剣な口調になった。
「悠花は忘れていると思うけれど、昔ね……あの子にひどいことをされたのよ。だから思い出してほしくないの」
「ひどいこと? それってなに?」
「…………」
お母さんの視線を受けたお父さんが首を横に振った。
「忘れているならそれでいい。もうあんな思いをさせたくないんだよ。お父さんとお母さんの言うことを聞いてほしい。あの子に近寄ってはダメだ」
ふたりしてもう大雅の名前も口にしなくなった。
「それよりシルバウィークの話をしましょうよ。ほら、梨狩りに行こうって言ってたでしょう? パンフレットもらってきたのよ」
いそいそとパンフレットを取り出すお母さんに、
「おお、いいね」
わざとらしくお父さんが歓声をあげている。
――大雅にひどいことをされた。
お父さんもお母さんも、その内容を知っている。
私が思い出せないのは、それがあまりにもショックだったからなの?
疑問が大きくなっていく。まるで入道雲のように厚く頭のなかを覆いつくしていく。雷が発生したような頭痛が頭の奥で生まれた。
でも、これ以上ふたりには聞いてはいけない。
それだけは、たしかなこと。
今日、予告どおりに大雅は登校してきた。
すっかり大雅はクラスになじみ、私はあいかわらず彼のことを思い出せずにいる。
見るたびに胸の鼓動が早くなり、同時に罪悪感も生まれている。
そう、つまり幸せなのに苦しいという状態が続いている。
明日は土曜日で大雅に会えない。会えないと思うと、もっと会いたくなる。
いつの間にか、大雅中心になっている生活さえも幸せでせつない。
もっと話をするためには、大雅のことをちゃんと思い出したい。
昔から大雅を知ってるであろう両親に話を聞いてみることにしたのは、良いアイデアだっただろう。
意を決し、お父さんとお母さんに大雅が転入してきたことを伝えたところ、ふたりはビデオの一時停止を押したみたいに固まってしまったのだ。
眉をひそめる私に、先に動いたのは斜め前に座るお母さんのほうだった。
「大雅、って……山本大雅くんのこと?」
「そう。今は違う家だけど、小学三年生まではこのあたりに住んでいたんだって。覚えてるでしょう?」
「ああ、そうね……」
平坦な声でつぶやくお母さんに違和感を覚えた。
お父さんも缶ビールをテーブルに置くと口をへの字に結んでしまっている。
いつもにぎやかな夕食に、こんなふうに沈黙が続くのは初めてかもしれない。
「どうしたの。なんかふたりヘンだよ」
「そんなことないわよ。ただ、びっくりして……ねえ?」
お母さんが隣のお父さんに目線を送っている。「ん」と短く答えたお父さんは意味なく、缶ビールに記された文字を目で追っている。
「で、悠花は大雅くんのことを覚えてたのか?」
「それがね、正直に言うと覚えてないの。でもきっとこれから少しずつ――」
「悠花」
話を遮るように、お父さんが低い声で言った。
「あまり、大雅くんには関わらないほうがいい」
「……どういうこと?」
予想外の答えに驚いてしまう。
てっきりなつかしんで、いろんな思い出話を聞かせてもらえると思っていたのに。
ううん、違う。大雅が転校してきたとことをすぐにふたりに言うことができなかった。
理由はわからないけれど、なぜか黙っていることにした。
それは……なぜだろう?
「ちゃんと説明してくれなくちゃわからないよ」
「悠花、お父さんの言うことを聞きなさい」
びっくりした。いつもは私の味方になってくれるお母さんまでそんなことを言うなんて。
「なに……? だって私、全然覚えていないの。大雅がそばに住んでいたことも、一緒に遊んだことも、おじさんやおばさんの顔さえ思い出せないの。それって――」
「悠花!」
思わず、という感じでお母さんが大きな声をあげた。
ビクッと体が震える私に、お母さんは動揺したように首を横に振った。
「あの、ごめんなさい。怒るつもりはなかったの。本当にごめんなさい」
どうしたんだろう。こんなのいつものお母さんじゃない。
不穏な空気がこの場所を支配している気がして、うまく息が吸えない。
「とにかくムリして思い出さなくてもいいってことよ」
とりつくろった笑みを浮かべるお母さん。
大雅と同じセリフでも、思い出してほしくないと感じていることがリアルに伝わってくる。
「昔のアルバムがないのもそれが理由なの?」
大雅のお見舞いに行ったあと、押入れにあるはずのアルバムを探した。
けれど、あるのは小学高学年からのものばかりで、あったはずの幼少期のアルバムは見つからなかった。
「アルバムは荷物になるからおばあちゃんの家に預けてあるの。今度遊びに行ったら見せてもらったら?」
おばあちゃんの家は長崎県にある。わかった上で、お母さんは言ってるのだろう。
自分でもおかしいと思ったのか、お母さんは「あのね」と真剣な口調になった。
「悠花は忘れていると思うけれど、昔ね……あの子にひどいことをされたのよ。だから思い出してほしくないの」
「ひどいこと? それってなに?」
「…………」
お母さんの視線を受けたお父さんが首を横に振った。
「忘れているならそれでいい。もうあんな思いをさせたくないんだよ。お父さんとお母さんの言うことを聞いてほしい。あの子に近寄ってはダメだ」
ふたりしてもう大雅の名前も口にしなくなった。
「それよりシルバウィークの話をしましょうよ。ほら、梨狩りに行こうって言ってたでしょう? パンフレットもらってきたのよ」
いそいそとパンフレットを取り出すお母さんに、
「おお、いいね」
わざとらしくお父さんが歓声をあげている。
――大雅にひどいことをされた。
お父さんもお母さんも、その内容を知っている。
私が思い出せないのは、それがあまりにもショックだったからなの?
疑問が大きくなっていく。まるで入道雲のように厚く頭のなかを覆いつくしていく。雷が発生したような頭痛が頭の奥で生まれた。
でも、これ以上ふたりには聞いてはいけない。
それだけは、たしかなこと。