「……」
「……」
無音を乗せた空気が、私達を取り巻いている。誰も何も入れないその空間こそ、私と羅衣源だけの、二人だけの世界。
お互いに一言も言葉を交えず、ただ散歩を続ける。作られた砂利道を、ゆっくりと。しかし、決して二人きりというのが気まずいわけではない。ただ単にこの静かな二人だけの空間を味わいたいから。少なくとも、私はそう思っていた。
帝がこんな真っ昼間に街を通って、庶民にバレたらどうするのだろう。なんて始めは心配した。しかし、ここは人通りの少ない道。現に今も、人影は見かけないから大丈夫だろう。
それをいいことに、私は羅衣源と軽く手を繋いでいる。側から見れば、普通の夫婦に見えているかもしれない。
(なんだか、今朝の出会った時に戻ったみたい)
でも、今朝とはっきり違うところがある。あの時は気まずかったこの沈黙は、今ならば心安らぐ、落ち着ける空気となった。
「……ねぇ、羅衣源」
私は意を決してその沈黙を破った。自分から話しかけるなんて珍しい、と自分自身に驚く。
「なんだ?」
彼は歩みながら整った顔を私に見せた。今も変わらずに綺麗な顔。意識しないと見惚れてしまう。夏、それも夜という時間帯が一番似合いそうなその表情を見つめながら、私は頭の中を整理する。
私はどうしても知りたかった。理由を訊きたかった。
「なんで、私を追いかけてきたの?」
何故こんな私のために走ってきてくれたのか。何故こんな私を助けてくれたのか。私には、どうしても理解できなかった。
だが、彼はあっけらかんとした表情で「なんだ、そんなことか」と呟く。
「抄華が急に屋敷を飛び出していってしまったから、慌てたのだ」
「でも、連れ戻すなら使いでも送ればよかったじゃない」
「他人に任せられるようなことではない。お前は大切な存在だ。だから、この手で見つけ出したかったに決まっているだろう」
「……それは、私が番だからということ?」
確かに、番は彼にとって、大切な存在であることは間違いない。それならば彼自身が探しに行くというのも頷ける。でも、それは運命によって定められたものであり、羅衣原自身が決めたものではないのだ。
「さっきの男たちに聞いたんだけど……帝は神力を欲しがるんだって?」
「……ああ」
「つまり、あなたは神力があると理由で私を選んだの?」
だって、そうでなければ強大な侵略を持って生まれる運命人を探す意味にも頷ける。
「あなたは、私の運命人という神力を目当てで番として求めてるの……?」
「……神力目当て、という理由も、全く持って無いわけではない。だが……」
そこまで言って、羅衣源は瞳を細めて、風に靡く私の髪をそっと掬った。
「私は、抄華、お前という存在自体が大切だと思ってる」
彼は愛おしそうな表情で、私の髪をすーうっと撫でて、腰に落とす。彼が触れた髪が、パサっと私の頬を撫でた。彼の手つきは優しく、暖かく、心にじんわりと広がっていくような温もりがあった。
「私は抄華という人間を愛しているのだ。嘘ではない。これだけは、信じてくれ」
「……っ!じゃあ、もし私が神力が無かったら……?」
「それでも、お前は私の番には変わりない」
彼の言葉に、私は声が出なかった。喉と目頭が燃えるように熱くなる。てっきり、私が運命人だから助けたのかと思っていた。でも、この人は違った。ちゃんと、私という個体を見てくれている。私という存在を理解してくれている。
その事実が何よりも嬉しく、胸の底から温かな感情が湧き出してきた。
「そっ、かぁ……」
視界がぼやける。目の前の景色が、水に溶かしたように滲む。私の瞳から、一滴の滴が溢れた。それは日光を反射しながら、羅衣原の腕にポトリと落ちる。彼は腕の水滴を見てから、私の背中をそっとさすった。
「すまなかった。私のせいでまた、抄華に迷惑をかけてしまったな」
「……ううん、そんなことない」
私は手の甲で目を押さえながら微笑みを浮かべた。
「嬉しかった。あなたが来てくれて、すごく嬉しかった……っ!」
自分自身が不思議だと思う。ついさっきまで恨んでいた相手に、感謝するなんて。でも、今の私は自分の心に正直でありたかった。
「羅衣源が来て、私はすごく救われた」
だから、と涙で濡らした顔を上げる。太陽の光が目に当たって、彼の顔がぼやける。
「私こそ、ありがとう」
多分、今の私は満面の笑みだ。それを証明するかのように、羅衣源は頰を赤く染め、少し照れたように口元を隠す。
「い、いや……。その、良かった」
彼の戸惑っている表情を見るのは初めてで、私は思わず吹き出した。
「あはは、顔赤くなってる」
指摘を受けた羅衣源はますます林檎に近い色になる。
「こ、これはっ、その、嬉しいからだ」
羅衣源は目線を外してモゴモゴと喋った。そして、自信を落ち着けるように何度か深呼吸をしてから、元の冷静な雰囲気に戻る。
「とにかく、抄華の役に立てて良かった」
その言い方がくすぐったくて、私はドキドキする。俯いて、でもまたお礼が言いたくなる。
「ほんとに、ありがとう……」
先ほどよりは小さな声でも、羅衣源にはしっかりと届いたようだった。
「ああ」
そして、羅衣源は私を抱き寄せる。今度は真正面から、胸の中に。
私はされるがまま、彼の胸の中に顔を埋めた。爽やかで、それでいて優しい匂い。ほんわりとした熱を帯びる体。一定のリズムで音を立てる心臓。
私は感覚を研ぎ澄まして、彼の全てに意識を傾けた。羅衣源もまた、痛くない程度の強い力で私を抱きしめる。
「私は抄華を心から愛してる」
「うん……」
しばらく、無音の空間が続いた。でも、それは決して気まずいわけではない。むしろ、お互いを感じられる特別な時間。
僅か数秒間が、とてつもなく長い時間に感じられた。
「なぁ、抄華」
頭上で羅衣源が言う。
「何?」
私はそのままの体勢で返事をした。
「少し、私と一緒に街の中心へ行かないか?」
「街へ……?」
「ああ、少し、お前と歩きたいと思ってな」
私は彼から離れて、その誘いに首を傾げる。突然どうしたのだろう。
「それに、少しばかり、行きたい場所があるんだが、構わんか?」
「いい、けれども、街はきっと何もやってないよ。帝の、あなたの道中があったから」
特に、店を構えている女たちは留守のはず。だが、羅衣源は心配いらないと首を横に振った。
「道中はすでに終わっている。だから、街のみんなも戻ってきているはずだ」
「そう?ならまぁ、いいけど……。まさかその格好で行くわけではないよね?」
顔をさらけ出して歩きなんかしたら、街中大騒ぎになるに決まってる。
私は不安になりながら尋ねた。すると、彼は案の定、笑いながら首を横に振る。
「いくらなんでもそんなことはしないさ。しっかりと忍んで行くぞ」
それを聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。が、次の瞬間、その心配がまた膨らむ。
「忍んでって、どうするの?」
今の彼は何も持っていない。それでどうやって顔を隠していくと言うのか。
私の考えを読んだのか、羅衣源は安心させるように言った。
「心配はいらん。そのための用意を、丁度さっき頼んだところだ」
「……?」
(頼んだって、誰に?しかも何の用意なの?)
そう疑問を思っていた時。
「ようやく見つけましたぁー!」
遠くから、よく通る大声が聞こえてきた。続いて、細かい砂の上を早足で駆ける足音も。
「えっ?」
私が目を丸くすると、羅衣源は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「来たな」
呟いて、右の脇道に視線を移した。私も彼に釣られてそちらを見る。
道の遠く先に、とてつもない速さで進む人影があった。何て言ったって、その影の背後には凄まじい砂埃が立っているんだもの。
豆粒ほどであったその影は、一瞬にして顔や姿がはっきり見えるようになる。
その正体は、柿色の朝服を着た青年だった。茶色がかったサラサラの髪を左右に揺らし、細い腕を振りながら走ってきたその人は、私たちの目の前に来ると、立ち止まって膝に手を置いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「あ、あのー……」
大丈夫かな、と心配しながら見ていると、羅衣源が呆れた笑顔でその人に言った。
「千魏、そこまで急がなくても大丈夫だったんだが……」
「いえ!」
千魏と呼ばれたその人は汗だらけの顔を上げてニッコリと笑う。
「羅衣源様のご依頼ですので、遅れるわけにはいけません!」
何の屈託もない千魏の表情に、羅衣源は肩の力を抜いた。はぁっ、と笑いながらため息を吐く。
「……全く」
「ははは」
疲れた様子で笑う青年と、呆れた表情で笑う帝。対照的な二人の様子が、何だか微笑ましく、私は思わず吹き出した。
「ふふふっ」
口元を押さえて声を出した私に、二人は注目する。不思議そうな瞳に見つめられて、私は笑いを堪えようとする。
「い、いや……その、すみません。お二人、仲が良いんですね」
言われた二人は、顔を見合わせて、そして笑顔の花を咲かせた。
「まぁ、昔からの付き合いだからな」
「そうですね。15年ほどでしょうか?」
「そうだったな」
羅衣源は目を細める。遠い昔の思い出を眺めるように。
その姿に、私は改めて二人の付き合いの長さを感じた。
「でもまさか、こんないきなり女性を連れてくるなんて。かと思えば自分の番だって聞いたもんですから、目玉が飛び出るかと思いましたよ」
「そこまで驚くことではなかろう。お告げもあったし、いずれ見つける者だったのだから」
「いやー、そうは言われましてもね。羅衣源様が女性に興味を持つなんてことはさらさらにない……」
「あー、そこまでにしてもらおうか」
「あっ、もしかして照れているんですか?羅衣源様もようやくその年相応の男になりましたね」
「だから黙れと言っているだろう」
軽口を叩き合う二人は、仲の良い兄弟のように見えた。身分の差なんて感じさせない接し方。おそらく、幼いからからずっと一緒だったせいだろう。
羅衣源がこんな風に誰かと話すところは想像できなかったもんだから、私は面食らった。
しばらく千魏と笑い合っていた羅衣源は、私の視線をに気づいたのか、こちらを向いてから「ああ」と何かを思い出すように言った。
「こいつは千魏。私の部下だ」
「どうぞよろしくお願いいたします」
紹介された千魏は深々と頭を下げる。太陽に晒されてさらに色が薄くなったが茶髪がさらりと下に垂れる。顔を上げた千魏は、よく見ると整った顔立ちをしていた。
(なんだろう、羅衣源とはまた違ったタイプの人みたい)
男前でカッコいい羅衣源に対し、千魏は可愛い系な感じがする。
「確か、あなた様が羅衣源様の番ですよね?」
何処か楽しむように問われ、私は答えに口籠る。
「そうだ、抄華は私の番だ」
代わりに答えてくれたのは羅衣源だった。彼は私の肩を寄せて千魏に言う。そして次は、右手を出して千魏を指した。
「そして抄華、この千魏は、帝の道中に、私の代わりに出た者だ」
「ええっ!」
唐突な告白に、私は驚きのあまり声を上げた。
対して千魏は照れたように頭を掻く。
「いやぁー、お恥ずかしいですが、籠に乗っていたのは紛れもない僕ですね」
「は、はぁ……」
確かに、よく見ると口元や肌の色が道中で見た人とそっくりだ。ということは、帝だと思っていた女達が実際に声をかけていたのはこの青年だったわけか。
事実を知った今、あの時の光景を思い出すと少し面白かった。あんなにも熱がこもっていた叫びの言葉を聞いていたのが、全くの別人だったなんて。
「羅衣源様ではなくて、がっかりしたでしょ?」
千魏は笑顔を浮かべながら尋ねてくる。ここは本来、自分も悲しむべき場面だと思うが、千魏は全く持って気にしていないようだ。
「そうですね、驚きました」
私は素直な意見を述べ、でも、と千魏をマジマジと眺める。羅衣源ほどには及ばなくても、十分に女性に好かれる人だと思う。普通に街を歩いていたら、女達に声をかけられる姿が目に見えてくる。
「あなたでも、嬉しい人は嬉しいと思いますよ」
純粋にそう思ったから、言葉にした。ただそれだけ。
しかし、千魏は思った以上に顔を赤くして、目を見開き、照れた様子を露わにした。
「あ、ありがとうございます……」
顔の下半分を押さえたまま、そくさくと後ろに下がった。
(……なにか悪いこと言ったかな?)
不思議に思っていると、嫉妬したのか暇だったのか、羅衣源が口を挟んできた。
「ところで千魏、例のものは持ってきてくれたんだろうな?」
「もちろんです!」
千魏は顔色を元に戻し、背中に手を回して、何やら麦色のものを取り出す。
それは、笠だった。先の尖った笠に、白く薄い布が付いている。私と羅衣源が出会った時、彼が被っていたやつだ。
「どうぞ」
「すまんな、助かる」
羅衣源はそれを受け取り、被った。そして見えなくなった顔を私の方に向ける。
「どうだ、これで行けるだろう?」
何の話、と思ったが、そう言えば街に行く話をしていたのを思い出した。
「え、あ、うん」
頷くと、羅衣源も首を縦に振る。心なしか、嬉しそうな雰囲気だ。
「では、僕はこれで」
私達のやりとりを見た後、千魏はそう言って去ってった。大量の砂埃を再び上げて。
道の先が見えるようになった時、そこには真っ青な空しか見えなかった。
「では、行こうか」
「うん」
姿を隠した羅衣源が私の前に腕を出す。私は自然な動きでその腕を取り、歩き始めた。
人気が戻ってきた、賑やかな街へ向かって。
「……」
無音を乗せた空気が、私達を取り巻いている。誰も何も入れないその空間こそ、私と羅衣源だけの、二人だけの世界。
お互いに一言も言葉を交えず、ただ散歩を続ける。作られた砂利道を、ゆっくりと。しかし、決して二人きりというのが気まずいわけではない。ただ単にこの静かな二人だけの空間を味わいたいから。少なくとも、私はそう思っていた。
帝がこんな真っ昼間に街を通って、庶民にバレたらどうするのだろう。なんて始めは心配した。しかし、ここは人通りの少ない道。現に今も、人影は見かけないから大丈夫だろう。
それをいいことに、私は羅衣源と軽く手を繋いでいる。側から見れば、普通の夫婦に見えているかもしれない。
(なんだか、今朝の出会った時に戻ったみたい)
でも、今朝とはっきり違うところがある。あの時は気まずかったこの沈黙は、今ならば心安らぐ、落ち着ける空気となった。
「……ねぇ、羅衣源」
私は意を決してその沈黙を破った。自分から話しかけるなんて珍しい、と自分自身に驚く。
「なんだ?」
彼は歩みながら整った顔を私に見せた。今も変わらずに綺麗な顔。意識しないと見惚れてしまう。夏、それも夜という時間帯が一番似合いそうなその表情を見つめながら、私は頭の中を整理する。
私はどうしても知りたかった。理由を訊きたかった。
「なんで、私を追いかけてきたの?」
何故こんな私のために走ってきてくれたのか。何故こんな私を助けてくれたのか。私には、どうしても理解できなかった。
だが、彼はあっけらかんとした表情で「なんだ、そんなことか」と呟く。
「抄華が急に屋敷を飛び出していってしまったから、慌てたのだ」
「でも、連れ戻すなら使いでも送ればよかったじゃない」
「他人に任せられるようなことではない。お前は大切な存在だ。だから、この手で見つけ出したかったに決まっているだろう」
「……それは、私が番だからということ?」
確かに、番は彼にとって、大切な存在であることは間違いない。それならば彼自身が探しに行くというのも頷ける。でも、それは運命によって定められたものであり、羅衣原自身が決めたものではないのだ。
「さっきの男たちに聞いたんだけど……帝は神力を欲しがるんだって?」
「……ああ」
「つまり、あなたは神力があると理由で私を選んだの?」
だって、そうでなければ強大な侵略を持って生まれる運命人を探す意味にも頷ける。
「あなたは、私の運命人という神力を目当てで番として求めてるの……?」
「……神力目当て、という理由も、全く持って無いわけではない。だが……」
そこまで言って、羅衣源は瞳を細めて、風に靡く私の髪をそっと掬った。
「私は、抄華、お前という存在自体が大切だと思ってる」
彼は愛おしそうな表情で、私の髪をすーうっと撫でて、腰に落とす。彼が触れた髪が、パサっと私の頬を撫でた。彼の手つきは優しく、暖かく、心にじんわりと広がっていくような温もりがあった。
「私は抄華という人間を愛しているのだ。嘘ではない。これだけは、信じてくれ」
「……っ!じゃあ、もし私が神力が無かったら……?」
「それでも、お前は私の番には変わりない」
彼の言葉に、私は声が出なかった。喉と目頭が燃えるように熱くなる。てっきり、私が運命人だから助けたのかと思っていた。でも、この人は違った。ちゃんと、私という個体を見てくれている。私という存在を理解してくれている。
その事実が何よりも嬉しく、胸の底から温かな感情が湧き出してきた。
「そっ、かぁ……」
視界がぼやける。目の前の景色が、水に溶かしたように滲む。私の瞳から、一滴の滴が溢れた。それは日光を反射しながら、羅衣原の腕にポトリと落ちる。彼は腕の水滴を見てから、私の背中をそっとさすった。
「すまなかった。私のせいでまた、抄華に迷惑をかけてしまったな」
「……ううん、そんなことない」
私は手の甲で目を押さえながら微笑みを浮かべた。
「嬉しかった。あなたが来てくれて、すごく嬉しかった……っ!」
自分自身が不思議だと思う。ついさっきまで恨んでいた相手に、感謝するなんて。でも、今の私は自分の心に正直でありたかった。
「羅衣源が来て、私はすごく救われた」
だから、と涙で濡らした顔を上げる。太陽の光が目に当たって、彼の顔がぼやける。
「私こそ、ありがとう」
多分、今の私は満面の笑みだ。それを証明するかのように、羅衣源は頰を赤く染め、少し照れたように口元を隠す。
「い、いや……。その、良かった」
彼の戸惑っている表情を見るのは初めてで、私は思わず吹き出した。
「あはは、顔赤くなってる」
指摘を受けた羅衣源はますます林檎に近い色になる。
「こ、これはっ、その、嬉しいからだ」
羅衣源は目線を外してモゴモゴと喋った。そして、自信を落ち着けるように何度か深呼吸をしてから、元の冷静な雰囲気に戻る。
「とにかく、抄華の役に立てて良かった」
その言い方がくすぐったくて、私はドキドキする。俯いて、でもまたお礼が言いたくなる。
「ほんとに、ありがとう……」
先ほどよりは小さな声でも、羅衣源にはしっかりと届いたようだった。
「ああ」
そして、羅衣源は私を抱き寄せる。今度は真正面から、胸の中に。
私はされるがまま、彼の胸の中に顔を埋めた。爽やかで、それでいて優しい匂い。ほんわりとした熱を帯びる体。一定のリズムで音を立てる心臓。
私は感覚を研ぎ澄まして、彼の全てに意識を傾けた。羅衣源もまた、痛くない程度の強い力で私を抱きしめる。
「私は抄華を心から愛してる」
「うん……」
しばらく、無音の空間が続いた。でも、それは決して気まずいわけではない。むしろ、お互いを感じられる特別な時間。
僅か数秒間が、とてつもなく長い時間に感じられた。
「なぁ、抄華」
頭上で羅衣源が言う。
「何?」
私はそのままの体勢で返事をした。
「少し、私と一緒に街の中心へ行かないか?」
「街へ……?」
「ああ、少し、お前と歩きたいと思ってな」
私は彼から離れて、その誘いに首を傾げる。突然どうしたのだろう。
「それに、少しばかり、行きたい場所があるんだが、構わんか?」
「いい、けれども、街はきっと何もやってないよ。帝の、あなたの道中があったから」
特に、店を構えている女たちは留守のはず。だが、羅衣源は心配いらないと首を横に振った。
「道中はすでに終わっている。だから、街のみんなも戻ってきているはずだ」
「そう?ならまぁ、いいけど……。まさかその格好で行くわけではないよね?」
顔をさらけ出して歩きなんかしたら、街中大騒ぎになるに決まってる。
私は不安になりながら尋ねた。すると、彼は案の定、笑いながら首を横に振る。
「いくらなんでもそんなことはしないさ。しっかりと忍んで行くぞ」
それを聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。が、次の瞬間、その心配がまた膨らむ。
「忍んでって、どうするの?」
今の彼は何も持っていない。それでどうやって顔を隠していくと言うのか。
私の考えを読んだのか、羅衣源は安心させるように言った。
「心配はいらん。そのための用意を、丁度さっき頼んだところだ」
「……?」
(頼んだって、誰に?しかも何の用意なの?)
そう疑問を思っていた時。
「ようやく見つけましたぁー!」
遠くから、よく通る大声が聞こえてきた。続いて、細かい砂の上を早足で駆ける足音も。
「えっ?」
私が目を丸くすると、羅衣源は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「来たな」
呟いて、右の脇道に視線を移した。私も彼に釣られてそちらを見る。
道の遠く先に、とてつもない速さで進む人影があった。何て言ったって、その影の背後には凄まじい砂埃が立っているんだもの。
豆粒ほどであったその影は、一瞬にして顔や姿がはっきり見えるようになる。
その正体は、柿色の朝服を着た青年だった。茶色がかったサラサラの髪を左右に揺らし、細い腕を振りながら走ってきたその人は、私たちの目の前に来ると、立ち止まって膝に手を置いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「あ、あのー……」
大丈夫かな、と心配しながら見ていると、羅衣源が呆れた笑顔でその人に言った。
「千魏、そこまで急がなくても大丈夫だったんだが……」
「いえ!」
千魏と呼ばれたその人は汗だらけの顔を上げてニッコリと笑う。
「羅衣源様のご依頼ですので、遅れるわけにはいけません!」
何の屈託もない千魏の表情に、羅衣源は肩の力を抜いた。はぁっ、と笑いながらため息を吐く。
「……全く」
「ははは」
疲れた様子で笑う青年と、呆れた表情で笑う帝。対照的な二人の様子が、何だか微笑ましく、私は思わず吹き出した。
「ふふふっ」
口元を押さえて声を出した私に、二人は注目する。不思議そうな瞳に見つめられて、私は笑いを堪えようとする。
「い、いや……その、すみません。お二人、仲が良いんですね」
言われた二人は、顔を見合わせて、そして笑顔の花を咲かせた。
「まぁ、昔からの付き合いだからな」
「そうですね。15年ほどでしょうか?」
「そうだったな」
羅衣源は目を細める。遠い昔の思い出を眺めるように。
その姿に、私は改めて二人の付き合いの長さを感じた。
「でもまさか、こんないきなり女性を連れてくるなんて。かと思えば自分の番だって聞いたもんですから、目玉が飛び出るかと思いましたよ」
「そこまで驚くことではなかろう。お告げもあったし、いずれ見つける者だったのだから」
「いやー、そうは言われましてもね。羅衣源様が女性に興味を持つなんてことはさらさらにない……」
「あー、そこまでにしてもらおうか」
「あっ、もしかして照れているんですか?羅衣源様もようやくその年相応の男になりましたね」
「だから黙れと言っているだろう」
軽口を叩き合う二人は、仲の良い兄弟のように見えた。身分の差なんて感じさせない接し方。おそらく、幼いからからずっと一緒だったせいだろう。
羅衣源がこんな風に誰かと話すところは想像できなかったもんだから、私は面食らった。
しばらく千魏と笑い合っていた羅衣源は、私の視線をに気づいたのか、こちらを向いてから「ああ」と何かを思い出すように言った。
「こいつは千魏。私の部下だ」
「どうぞよろしくお願いいたします」
紹介された千魏は深々と頭を下げる。太陽に晒されてさらに色が薄くなったが茶髪がさらりと下に垂れる。顔を上げた千魏は、よく見ると整った顔立ちをしていた。
(なんだろう、羅衣源とはまた違ったタイプの人みたい)
男前でカッコいい羅衣源に対し、千魏は可愛い系な感じがする。
「確か、あなた様が羅衣源様の番ですよね?」
何処か楽しむように問われ、私は答えに口籠る。
「そうだ、抄華は私の番だ」
代わりに答えてくれたのは羅衣源だった。彼は私の肩を寄せて千魏に言う。そして次は、右手を出して千魏を指した。
「そして抄華、この千魏は、帝の道中に、私の代わりに出た者だ」
「ええっ!」
唐突な告白に、私は驚きのあまり声を上げた。
対して千魏は照れたように頭を掻く。
「いやぁー、お恥ずかしいですが、籠に乗っていたのは紛れもない僕ですね」
「は、はぁ……」
確かに、よく見ると口元や肌の色が道中で見た人とそっくりだ。ということは、帝だと思っていた女達が実際に声をかけていたのはこの青年だったわけか。
事実を知った今、あの時の光景を思い出すと少し面白かった。あんなにも熱がこもっていた叫びの言葉を聞いていたのが、全くの別人だったなんて。
「羅衣源様ではなくて、がっかりしたでしょ?」
千魏は笑顔を浮かべながら尋ねてくる。ここは本来、自分も悲しむべき場面だと思うが、千魏は全く持って気にしていないようだ。
「そうですね、驚きました」
私は素直な意見を述べ、でも、と千魏をマジマジと眺める。羅衣源ほどには及ばなくても、十分に女性に好かれる人だと思う。普通に街を歩いていたら、女達に声をかけられる姿が目に見えてくる。
「あなたでも、嬉しい人は嬉しいと思いますよ」
純粋にそう思ったから、言葉にした。ただそれだけ。
しかし、千魏は思った以上に顔を赤くして、目を見開き、照れた様子を露わにした。
「あ、ありがとうございます……」
顔の下半分を押さえたまま、そくさくと後ろに下がった。
(……なにか悪いこと言ったかな?)
不思議に思っていると、嫉妬したのか暇だったのか、羅衣源が口を挟んできた。
「ところで千魏、例のものは持ってきてくれたんだろうな?」
「もちろんです!」
千魏は顔色を元に戻し、背中に手を回して、何やら麦色のものを取り出す。
それは、笠だった。先の尖った笠に、白く薄い布が付いている。私と羅衣源が出会った時、彼が被っていたやつだ。
「どうぞ」
「すまんな、助かる」
羅衣源はそれを受け取り、被った。そして見えなくなった顔を私の方に向ける。
「どうだ、これで行けるだろう?」
何の話、と思ったが、そう言えば街に行く話をしていたのを思い出した。
「え、あ、うん」
頷くと、羅衣源も首を縦に振る。心なしか、嬉しそうな雰囲気だ。
「では、僕はこれで」
私達のやりとりを見た後、千魏はそう言って去ってった。大量の砂埃を再び上げて。
道の先が見えるようになった時、そこには真っ青な空しか見えなかった。
「では、行こうか」
「うん」
姿を隠した羅衣源が私の前に腕を出す。私は自然な動きでその腕を取り、歩き始めた。
人気が戻ってきた、賑やかな街へ向かって。