「……ひっく……ううっ」

 見慣れた街の中を、私は泣きながら歩いていた。辺りには、まばらに居座る人々。何処からともなく香る食べ物の匂い。歌っているのか話しているのか分からない音の連続。

 全てがいつも通りだった。活気まで戻ってきているとは言わずとも、それは日常で見かける街の風景で間違いない。その中で私だけが、普段とあまりにもは違っていた。

「ふぅぅ……ひっく……」

 こぼれ落ちそうな涙と鼻水を抑制するのが精一杯で、とても表情や身なりに気がいかない。ずっと走っていた足は重いし、目は熱いし、体には疲労が溜まっている。走りっぱなしでは疲れたから、帝の屋敷から十分離れだ場所からは歩き始めた。

 目を擦るたびに手の甲が冷たい水で濡れていく。でも、不思議と手は熱い。まるで火を灯したようだ。それに、体の芯も。燃えるように発熱している。

 何より、心の中には感情の炎が燃え盛っていた。悲しみ、憎しみ、怒り。どれもこれも、自分と、あの羅衣源に向けての感情だった。

「…うぐっ……ふぅっ……」

 ようやく涙が収まってくる。目の熱が引いていく。脳内に、屋敷での出来事が蘇る。

『やはりお前は私の(つがい)だ』

 納得した表情で、しかし何処か曇った顔で羅衣源が言った言葉。

『運命人になると、帝以外の夫を持てなくなる人生になるのだ』

 視線を床に向け、悲しみを宿した表情で告げる羅衣源。

(そんな運命知らないよ。私の人生が、そんなものによって決まっていただなんて)

 私は濡れた自身の両手を眺める。白くて、細くて、力を加えればすぐに折れそうなほど脆い手。

 こんな手に、そんな重りが乗っているなんて信じられない。そもそも、考えられすらしない。酷い、あまりにも酷すぎる。残酷だ。

 私は目の前に出していた両手を胸に当て、はぁっと深く息をつく。心の中の悪いものを吐き出すように。そして、自分を恨んだ。

(なんで私が、運命人になんてなってしまったの?)

 私はただ、男性と縁を結べればそれでいいのに。家柄も、財産も、感情も、特別なものは何も求めない。ただ、家族という組織に入れてもらえればそれで良かったのに。

 帝と縁を結ぶだなんて、そんなこと、望んでない。願ってもない。そんな役目、他のお洒落な女達に渡せばいい。自分の境遇の悪さにつくづく呆れる。

「私って、運がないな……」

 そんな自分が大嫌いだ。こんな私、消えてしまえばいいのに。惨めさと、怒りを携えながら、ただ足が動くままに歩く。

「よう、ちょっといいかい」

 耳に残りやすい、危険な香りを漂わせる声が、背後から飛んできた。私はピタリと足を止め、踵を軸にゆっくりと振り返った。

「すまんなぁ、急に引き止めて」

 そこには、3人組の男がいた。男、とは言っても(よわい)は四十そこそこと見える。おじさん、と言った方が正しいかもしれない。

「な……ん……」

 声を出そうにも、やはり出なかった。羅衣源を相手にしている時のようには喋れない。

 代わりに彼らを睨みつけた。もちろん相手は初対面。何が目的で声をかけてきたのか、見当もつかない。何が起こるのか分からない中、とりあえず覚悟して彼らと向き合う。

 すると。

「ほう。そいつが噂の帝の(つがい)かい?」

 男達の背後から女性の声が飛んでくる。低く、それでいて色気のある、高圧的な声。

「えっ……」

 私は本気で驚いて、視線を彼らの後ろに向ける。

 そこには、濃い化粧と派手な着物、簪で着飾った女が3人、腕を組んで立っていた。しかし、貴族の娘のように高貴な雰囲気はなく、豪華なものを身につけた、と言ったほうが合う。

「そうだ、こいつだ。間違いねぇ」

 真ん中の男は振り向いてその女の人に言う。

「ふーん」

 女たちは私をジロジロと舐めるように見つめた。細長く鋭い目つきは、まるで狐のようだ、とも思える。射すくめるような視線に、私はなぜか緊張し、体が強張った。

(この人達の瞳、異様なほど鋭くて何だか怖い……)

「こんな女が、帝に、か……」
 
 唐突に女の人が呟いた言葉に、私は度肝を抜かれた。

(何で……何で私が帝といたことを知ってるの!?)

 話していたところを見られたのかもしれない。でも、周囲に人はいなかったはず。それは、抱き抱えられていた時も。その上、羅衣源は傘を被っていた。私でさえ、傘を取るまでその状態に気が付かなかったほど。ならば、この人たちは何を根拠に私が羅衣源といたことを知ったのだろう。

 そう不思議に思っていると、女の1人が私に迫ってきた。

「あ、え、えっと……」

 とてつもない圧をかけてくる彼女達に、私は気圧される。これだったら男の方がまだマシかもしれない。

「お前、帝といたらしいねぇ」
「何、故……?」

 声を絞り出して私が恐る恐る尋ねると、女はふっと笑みを浮かべて、顎を後ろにしゃくった。

「あいつらが教えてくれたんだよ。帝がお前と一緒にいたって。傘を被った男だろ?」
「な……んで……っ!?」
「なに、あいつらは帝一族の仕来たりやら儀式やらにちょいと詳しくてね。帝は自ら道中には出ない。代わりに、街で(つがい)を探す、とね」
「だから帝らしき人物を見張ってもらったわけ。で、傘の男とあんたの姿を見つけたらすぐ報告してくれたの」

 ペラペラと喋り出す彼女たち。しかし、偽りを口にしているわけではなさそうだった。
 
「それで、貴方は本当に(つがい)になったのかしら?」

 真ん中の女が、顔をぐいっと引き寄せて尋ねてくる。美人に詰め寄られると、凄まじい威圧感を感じてしまうのは言うまでもない。

「あ、の、いや……」

 何か言おうとしたのに、喉が詰まって言葉が出ない。これは体質ではなく、ただ恐怖と威圧で声が出ないだけ。
 
 目の前の女はこれでもかと言うぐらい大きく見開いており、その中にみすぼらしい私が映っている。彼女らの瞳には、嫉妬、怒り、憎悪といった負の感情が渦巻いていた。

 どうしてこの人は、そんなにも帝の(つがい)になりたいのか。それに対する執着も嫉妬も、私には全く理解できない。

(あなたは沢山の男達に愛されているんでしょう?ならそれでいいじゃない)

 しかしやはり、彼女の欲は凄まじかった。愛される人ほど、願望は強くなるものだ。手に入るものが多ければ多いほど、人は次第に満足できなくなり、その先に手を伸ばす。

「私はね、誰よりも幸福な人生を送りたいの」

 彼女は私に、囁くように言う。恐らく、背後の女達に聞こえないように声をひそめているのだろう。あくまで他の二人も敵、というわけか。

「そのためには、誰もが羨ましがるようなものを手に入れなければいけない」

 だから、と女の人は怪しげで何処か悍ましい笑顔を作る。

「最高の位である、帝の(つがい)の座が欲しいのよ。なんとしても、ね」

 彼女は私から顔を離して、今度は他の2人にも聞こえるように言葉を発する。

「帝の(つがい)という最高の位が、お前みたいな人間に奪われてたまるものですか」

 彼女の後ろの女は、振袖を口元に当ててくすくすと笑う。私を、馬鹿にしたような表情で。それから、口を揃えて言った。

「お前を帝のお側に置かせるわけにはいかないのよ」

 ドスの効かせた声色で、人差し指と共に、その言葉を私に刺す。

(それ程までに、この人達は本気なんだ。本気で(つがい)に選ばれたいんだ)
 
 でも、だったらこの人達が運命人になれば良かった。私は心の中で悪態をついた。そして、すっと息を吸ってから、彼女達を見上げる。

「私は……(つがい)なんかじゃ、ない……」
「……はぁ?」

 彼女達は目を細めて苛立たしそうに声を漏らす。

「そんなわけないでしょ。あの男達が見たって言うんだもの」

 真ん中の女が私を睨みつけて言った。

 そんな凄みをつけて睨まないでほしい。元より、私は(つがい)ではないと言ってるのだから。

(あなた達はそれを聞いて喜ぶべきじゃない)

 しかし、次の瞬間、彼女がそう言った理由が明らかになる。

「お前、嘘をついて帝を奪う気なの?」
「そんなずるいこと、私たちが見逃すわけないでしょう」
「白状しなさい」

 なるほど、と1人納得する。つまりは私の言葉すら疑われてたというわけだ。

「嘘では、ない、です」

 確かに、誘われたりはしたけど。私は慎重に、彼女達を安心させる言葉を選ぶ。

「……断りました」
「はあっ?」
「断った?」

 少し後ろに立つ2人の女がありえないと言った口調でとっかかってくる。それを、前の女が手で静止した。そして、一度目を瞑った後、再び開けた瞳を私に向ける。

「それは何故?」

 女が試すような口調で訊いてくる。

(本当は分かってるくせに)

 だって、彼女の口角の端が、僅かながらにも吊り上がっているから。それに、私を一目見た途端で思ったのだろう。この女はあり得ない、と。

「私には、合わないから……」

 こんな私が、帝に選ばれる訳がない。それに、もし仮にでも(つがい)になったとしても周りに迷惑をかけるだけだし。私は(つがい)に相応しくない。帝の妻としての役割は果たせないだろう。

「だから、無理……」
「……それは事実か?」

 またも、1人の女が顔を覗き込んでくる。私は視線を合わせないよう下を向いた。そのまま、声を出さずにコクンと首を縦に振る。

「そうかそうか。……ふふっ」

 私の態度でそれが偽りではないと分かったからか、彼女は言葉の最後に喜色の笑い声を含めた。女の人達はそれぞれで喜びの声を上げる。

「ああ、ああ、そうなのね!これで帝の(つがい)になれる希望が見えたわ」
「私だって(つがい)になれるのね」
「帝の隣の座、私が取ってやるわ」

 さっきまで睨んだ表情しか見てこなかった女達が、突然笑顔で騒ぎ出すと、別の意味で恐ろしい。

「ああ、お前はもういいよ」

 情報を聞き出して用無しとなった私は、彼女たちに邪険に話の輪から追い出された。それを見かねた男達は声をかける。

「そいつ、もういらないか?なら、俺たちが貰うよ」
「ああ、いいさ。好きにしな」

 勝手な会話の成立により、私は男達に囲まれる。

「お前さぁ、拐かわされたんだろ?」
「……っ!?」
「そんな驚くなよ。俺たちからはなんでもお見通しなんだ」

 男は意味深に嗤った。

 あの女たちといい、彼らといい、一体何者なのだろう。私と一緒にいた人を帝と見抜いたり、私が今朝誘拐事件に巻き込まれたことを知っていたり。
  
 どうであれ、危険な人物には変わりなかった。正直、今すぐにでもここから逃げ出したい。だが、私を囲む3人は隙も何もなかった。

「しかもあやかしに。と言うことは、お前は神力を持っているわけだ」
「……」
「珍しいなぁ、人間の神力持ちなんて、滅多に出会えない。そりゃ、帝も喉から手が出るほど欲しくなるはすだよ」
「えっ……?」

 神力を持つから帝が欲しくなる、とはどう言う意味だろう。驚く私に、男はニヤリと怪しげな笑みを見せる。

「知らなかったのか?まぁ知る意味もないだろう。帝はな、神力を欲しがってんだよ」
「しん……りょく……っを?」
「ああ。だから自ら街に赴く。神力の強さ、清らかさは心の美しさだからな。帝がその目で(つがい)に相応しい女を見つけるわけだよ」
「そん……な……」

(じゃあ、羅衣源が私を(つがい)にしようとしたのは、神力目当て……?)

 それならば納得がいく。こんな見窄(みすぼ)らしい自分を、帝が愛してくれるなんて夢物語、早々に叶うはずがないのだから。

 運命人というのも、結局は帝に利用される運命なのだろう。きっと羅衣源は、愛なんかより神力という常人的な力に惹かれて私を見つけた訳だ。

「帝はお前の神力を使って力を得ようとしているだけなんだよ」
「……」

 男たちの言葉に頭がくらくらする。でも、そうなのかもしれない。いや、そうとしかあり得ない。
 
「でもよぉ、俺らだったらお前をちゃんと愛してやれるぜ」
「えっ……?」
「俺らなら、お前を力が目当てで縁結びなんざしない。お前を一人の女として見てやれる」
「ほ……んと……う……?」

 男たちが不気味に嗤っている時点で怪しいと思うべきだろう。だが、私の心は深く抉られていた。そのどうしようもない痛みは、自分を自分として扱ってくれる人を欲していたのかもしれない。

 だから、ふらふらと男の方に歩み寄っていた。

「さぁ、俺らと来いよ」

 そう言って、男は手を差し伸べる。それは甘美な誘惑で、私は虚ろなままその手を取ろうとした。

 しかし、優しい手が、私の肩を強く後方に引いた。

「えっ……」

 華奢で、それでいて頼り甲斐のある手が私の体をそっと包み、背中に柔らかいものを当てる。

(この温もり、この匂い、間違いない……!)

 気づいたら、私は羅衣源の腕の中にいた。

 男達が一斉に目を見開く。

「おまっ、いや、あなた様は帝の……!」
「羅衣源だ。私の(つがい)によくも手を出したな」

 怒りを瞳に灯した羅衣原が、そこにはいた。炎を奥深くに携えた表情の彼をそっと見上げる。

(何故、あなたはここにいるの?)

 私は屋敷から逃げてきたのに。あなたに、酷い言葉を沢山浴びせて逃げたのに。彼の心情が全く理解できなかった。

 いや、それよりも。

 荒い呼吸、汗ばんだ首筋、乱れた髪。明らかに、ゆったりと街の空気に触れていたわけではないことが読み取れる姿にも、疑問が膨らむ。

 もしかしたら、ここまで走ってきたのかもしれない。屋敷から飛び出した私を追いかけるために。ありえないけど、彼の状態がそれを物語っている。

 私は無意識に羅衣原の腕をぎゅっと握っていた。それに気づいたのか、彼は一瞬、私と目を合わせ、そして微笑む。羅衣源はもう一度男達を睨むと、厳しい口調で言った。

「何をしようとした」
「いやっ、特段、何も……ただ少し、その女が気になったまでで……」
「いいか。もう二度と、私の(つがい)に手を出すな。許すのは今回きりだ。次はもうないと思え」
「しっ、承知しました!」

 彼らは帝である羅衣源に頭を下げ、忠誠を誓う。そんな彼らの姿を、羅衣源は静かな瞳で見下ろした後、私を抱き寄せたまま踵を返した。

「行くぞ」

 彼は耳元で囁く。そしてゆっくりと元来た道を歩き始めた。

「お、お待ち下さい、帝様!」

 儚い声が、羅衣源を呼び止める。彼が振り返った先にいたのは、あの女達だ。私に向けた表情とはまるで違う。美しくありながら藁にもすがるような上目遣いで羅衣源を見つめている。それは、乙女そのものだった。

「どういうことですか?」
「と、言うと?」

 彼女は困惑した表情で彼を見つめる。

「何故、その女を連れていくのです?」
「こいつは、私の(つがい)だからだ」
「ですが、彼女自身が断ったと言っていたのですよ……?」

 女達は、質問を羅衣源に投げかけつつ、視線は私に向けて睨んでいた。話が違う、と言いたげな瞳で。私はまたも俯き、そして焦る。原因は、二つあった。

 一つは、女達に嘘をついたと思われていること。もう一つは、羅衣源の反応。私が(つがい)にはならないと聞いて、羅衣源はどう思うだろう。断ってはいるが、羅衣源はまだ諦めていない。それなのに、私が女達に言った言葉を知ったら怒るだろうか。

 そこで私は、はたと首を傾げる。

(何で私、こんなにも羅衣源のことを気にしているんだろう?)

 嫌われたり、叱られたなら、それはそれでいいじゃないか。だって、そうすれば(つがい)に選ばれることもない。私にとって、それはいいことのはず。なら、胸の内から湧き上がるこの感情は何だろう。

「そうか……」

 羅衣源は目を閉じて、静かに頷いていた。私は緊張した面持ちで彼の顔を見る。

「だが」

 キッと羅衣源は鋭い視線、そして怖いぐらい美しい笑みを見せた。朝露が垂れる美しい花と、鋭く尖ったつららを思わせる、そんな表情。

 羅衣源の顔を見た一同はひっと息を呑む。怯えた様子の彼ら彼女らに羅衣源は告げた。

「こいつが何と言おうと、こいつは、抄華は私の(つがい)だ。それは大昔から決まっていて、また、私の心もすでに抄華のもの」

 羅衣源は私を抱く力を強める。体を包む暖かさに、私の胸はドクンと脈打った。

「だから、こいつは誰にも渡さないし、私も誰か他の人間のものになる気はない」

 羅衣源の声は、透き通るように、しかし力強く私達の耳に届いた。

「……」

 周囲の人間は皆、彼の言葉に声を出すことができない。私を含め、誰もが沈黙を作っていると、羅衣源はその空気を消すように「それでは」と、さっきとは声色を変えて出た。

「私は抄華と共に、これで失礼するよ」

 えっ、私も、と驚く暇もなく、羅衣源に体を強く引かれたまま連れていかれる。

「あの、あれで大丈夫なの?」
「ああ、心配ないだろう。彼らの問いにもしっかりと答えたからな」

 そういう訳じゃないのに。私は恐る恐る後ろを見た。

「ひっ!」

 私は小さな叫び声をあげる。

(ヤバい、完全に睨まれてる)

 私の視界の先には、私と羅衣源を、特に私を恨めしそうに見つめる女達が立っていた。彼女達の視線がグサグサと刺さってきて、正直全身が痛い。

「ら、羅衣原、睨まれてるっ……」

 私はそっと告げた。が、羅衣源は何ともない様子で答える。

「だからなんだ?別に何かしてくる訳じゃなかろう」

 こんなにも私は焦っているのに、彼は涼しい表情で前を見据えている。

 そんな羅衣源には、雲一つない晴天と真夏の太陽がよく似合っていた。余裕の笑みを浮かべる彼を見ていると、何だかこっちまでその余裕っぷりがうつる。

 私はふっと顔の力を抜いて、前を見た。相変わらず、背中には尖った気配が纏わりついている。でも、さっきよりはマシになったかも。

 私と羅衣源は身を寄せ合いながら、変わらず静かな街並みを歩いた。