*
「……きろ……おい……!」
「……ぅ……」
「起きろ……おい……!」
「うう……ん……」
「起きろって言ってんだ!」
怒鳴るような呼びかけに、眠気という風船が弾け、ハッと目が覚める。
「ったく、ようやく起きたか」
「え……あ……あっ」
目の前には見知らぬ男がいた。彼は短く舌打ちをして、苛立った様子で私を睨みつける。そんな男を前に脳は混乱した。
(誰……一体……)
後ずさろうと足を動かすも、思い通りに下がれなかった。
(えっ……)
見れば、手足が縛られていた。太い縄で解けそうにない。体をくねらせる私に、男は面倒くさそうに言う。
「逃げようとしても無駄だ。俺らは逃がさない。お前らは逃れられない」
そして離れていく。視界が広がり、新たなものが目に映る。その光景に、私は声も出なかった。
私がいたのは、広間のような部屋だった。窓も障子も見当たらないが、妙に明るい。床は木の板で、所々軋んだ音がする。
さらに驚いたのは、私以外にも縄で拘束された女がいたこと。眠っている者、怯えている者、表情が抜け落ちている者、ざっと数えて十数人。
(一体、ここはなんなの……?)
自分が何故ここにいるか分からない。ただ、何者かに連れ去られたということだけは覚えていた。
私は帝の道中から離れ、人気の少ない街を歩いていたところで何者かに襲われたのだ。口元を抑えられた時に鼻をついた強烈な匂いを、私はまだ鮮明に覚えている。あれは睡眠薬の一種だろう。
(つまりは拐かされたというわけね……)
帝の道中に行っていたらこんなことは起きなかったかもしれない、と不意に思っては自身の不運を恨んだ。
これから私はどうされるのだろう。誘拐、と聞くと思い浮かぶのは身売りされるか犯されるかだった。いずれも最悪だ。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん……)
どこからどこまでも親不孝者の自分を育ててくれた親には謝罪しかない。
「おー、今年もたくさんいるなぁ」
その時突然、唯一の出入り口である襖が開いた。そこから現れたのは、立派な着物を纏った男と、彼の後ろに付く黒服が数人。
男は部屋を見渡す。
「ほーほー。中々良いものもあるじゃないかぁ」
そう言った顔が邪悪に嗤う。身の毛がよだつ表情にヒッと息を呑んだ。幻想かもしれないが、彼の周りが一段と闇く見える。
(怖い……こいつが首謀者……?一体、何をされるんだろう……)
自然と体が強張る。それは他の女も同じだった。その様子に、男は僅かに表情を和らげる。が、纏う空気は未だに悍ましい。
「そんなに怯えることはない。何も殺そうとしているわけじゃないんだからさ」
そう言いながら、男は一番近い場所にいた女に歩み寄る。彼女はこの世の終わりかのような表情を浮かべた。
「い、嫌っ!来ないで……っ!」
近い年頃の少女だと気づいた。彼女は必死に手足を動かして男から離れようとする。が、拘束されている身はあっという間に男に掴まれた。
「嫌だっ!離してっ!」
少女は涙目で懇願する。それは肉食動物に捕食される寸前の小動物のようであった。
「大丈夫だ。俺はお前を殺したりしない。ただ」
抵抗を続ける彼女の目の前で、男は拳を握って、掌を見せるようにそっと開く。少女は目玉が飛び出すのではないかと心配するほどに瞳を見開いた。
「お前の神力を、頂くだけさ」
途端、男の手の内から真っ黒い煙が溢れ出した。それは瞬きする間もなく雲海のように広がり、部屋中に蔓延る。
「きゃぁーー!!」
傍観者である他の女の叫び声が響く。男に捕まった少女は声すら出せずにいた。
煙は少女の体を覆い始める。
「や、やだっ!やだやだやだ……!」
身をよじるも気体には通じず、彼女の体は蝕まれていく。煙の一部が一本の糸のように集まり、叫ぶ少女の口に侵入した。
「……っ!」
「なっ、何あれっ!?」
周りの女がまた叫ぶ。その間にも煙は少女の体内に入り込む。すると、彼女の心臓付近の部分に小さな光が見えた。煙はその光を絡め取り、少女の体から取り出す。
「あっ……ああ……」
煙は少女の体を解放し、男の元へ戻った。そして、彼女の体から取り出した光の玉を手に入れる。
「ふん、こんなもんか。まぁ人間にしては良い方かな」
意識を失い、ぐったりとする少女を床に置き、男は光の玉を飲み込んだ。
「ふーっ。さて、次は誰の番かな?」
舌なめずりをしながら目を細める男に、いよいよ部屋中が恐怖に包まれた。鳴き声、叫び声、金切り声。それはまるで地獄絵図。
(何だったの……今の……?)
この目で見た光景が信じられない。衝撃的な行動に理解ができない。驚きのあまり、私は声も出せなかった。
少女の方に目を向ける。彼女は未だに目を覚ましていない。死んでしまったのだろうか、との不安が頭をよぎったが、呼吸はしているようだった。
彼女が起きないのは、男が操っていた煙のせいだろうか。あるいは、男が飲み込んだあの光の玉が原因だろうか。
(あれは何だったの?)
人間の体内から取り出したもの。まさか魂ではあるまい。しかし、取られてはいけないものだと言うことは何となく分かっている。
(どうにかして……逃げなきゃ……っ!)
だが、手足の縄は簡単に解けそうにない。その上、もし自由が効くようになったところで出口は一つ。男には取り巻きもいる。すぐに捕まってしまうだろう。
「きゃーっ!やだっ、やめてっ!」
考えを巡らせているうちにまた一人の女が捕まる。腕を掴まれ抵抗もままならない彼女に、男は容赦なく黒煙を放った。黒々とした煙は女の体を這い、体内から光る球体を取り出す。男はそれを飲み込み、用済みの女の体をどさりと落とす。その御技は、人とはかけ離れている。
「さーて、お次は誰だ?」
笑みを讃えた男の呟きに、また一段と騒がしくなる。
次は自分かも、と考えると背筋が粟立つ。
心臓の鼓動が普段より桁違いに速くなった。息をしても上手く酸素を取り込めている気がしない。それは恐怖だった。いつ自分が襲われてもおかしくないという、逃れようのない恐怖、慄き。
(もし、あの男に捕まったら……)
私は、どうなってしまうのだろう。
その時。
「おおっ、これはっ!?」
新たな女に目をつけては、男が驚きの声を上げた。先ほどとは異なった様子に、空気は静まる。
「なんという力の大きさだ!人間では滅多にお目にかかれない!」
男は喜んでいた。その目の前に座り込む女は今にも泣き出しそうな表情をしている。
「素晴らしい、なんと素晴らしいんだ!ああ、だが運命人にまでは匹敵しないな」
ふと、違和感のある単語を男が呟く。
(運命人って何だろう……)
聞き覚えのない単語。最早、そんな言葉が存在するのかさえ分からない。
「まぁいい。お前はあやかしの贄として売ろう!」
「えっ!」
「おい、こいつを連れて行け」
男の掛け声と共に、控えていた黒服の一部が動いた。嫌がるその女を掴み、無理やり立たせては連れ去る。
「やだっ!やめて離して!」
必死にもがくも、女は襖の向こうへと消えていった。
「勿体無いが、金になるなら文句言ってらんねぇからなぁ」
さて、と男が振り向く。再び恐怖が湧き上がる。
「お次は誰のを頂こうかぁ?」
狂気めいた笑顔に、また騒がしくなる部屋。
倒れていく女、連れて行かれる女。異なる恐怖を見せつけられた女たちは最早正気は失せかけている。
かくいう私も、その中の一人だ。もう何もかもが理解できない。
(私はどうなるんだろう……)
連れて行かれるのか、この場で奪われるのか。いずれ訪れるであろうその未来を想像しては、体が震えた。
「さぁーて、次の女は……ん?」
鼻歌を唄いながら周囲を見回していた男は、私と目が合った瞬間に動きを止める。そして、ニヤリと厭らしく口元を歪めた。
「お前にしよう」
「ひっ……!」
狂った瞳に捉えられ、悪寒が走った。捕まっては行けない。速く逃げなければならない。分かっているのに、体は硬直したように動かなかった。
男の手が私の顎を掴み、グイッと覗き込んでくる。私は必死に目を逸らした。
「ううーん……?お前は……」
恐怖故か、このまま気を失いそうになった。だが。
「おおっ!!何ということだっ!」
男の大声で意識が覚醒する。目の前の男は驚きと喜びを溶け合わせたような表情を見せる。
「素晴らしい……素晴らしいぞっ!こんなにも強い力、見たことない!」
男はこれ以上ないほどに喜んでいた。何になのか、何故なのか、私でさえ状況が理解できない。
「ああ。ならばお前がかの運命人か!やっとだ、やっと見つけた。この日を何年待ち侘びたことよ!」
再び、運命人。男の様子から察するに、それは凄いことらしい。が、詳しいことを知らない私にはさっぱりだ。
なんて思っていると、男が強い力で肩を掴んできた。
「いっ……!」
「さぁ、一緒に来い」
「えっ……」
「お前は俺と一緒に来るんだ!そうすれば俺はより強大な力を得られる!全て俺のものになる!さぁ来いっ!」
「いやっ!」
無理矢理連れ去ろうとする男。その力は男性ゆえなのか、情緒によるものなのか、とても歯が立たない。
(このまま……私は……)
絶望のどん底に引き込まれる、その寸前ーー
勢いよく襖が開け放たれた。
「ここにいる者、女を誘拐した罪で処罰する!」
威勢のいい声と共に、白い軍服を着た男たちがなだれ込んできた。
「なっ、検非違使だと!?」
軍服の男らは黒服を鮮やかに薙ぎ倒し、捕えられていた女たちを解放していく。
「くそっ!逃げるぞっ!」
男はなお、私を離そうとしなかった。どころか、何が何でも連れ去りたい。そんな欲望が滲み出ている。
しかし、彼の行方は阻まれた。
「おいおい、何処へ行く?」
それは傘を被った男だった。凛とした声は、落ち着き払ってこの状況を見据えている。
「その女を解放しろ」
「やなこった。こいつは俺のものだ。こいつがいれば、俺はもっと強くなれる!」
「ほう。指示に従わないならば、こちらも相応の手段を取らせてもらう」
そう言って傘の男は腰に差した剣を抜く。鋭利に輝く刀身に、私を連れ去ろうとした男は一瞬息を呑んだ。だが、元の様子に戻る。
「きゃっ!」
男は私を放り投げ、傘の男に掌を向ける。
「こんなところでやられてたまるかぁっ!」
先ほどと同様に溢れ出す黒煙。だが、傘の男は特に怯んだ様子もなく一歩踏み込んだ。
「ふっ、それで勝つつもりだったのか?」
そして、一気に男との間合いを詰め、剣を振りかざす。
「がぁっ!」
男は肩をざっくりと切られ、膝から崩れ落ちた。切られた場所からは、血液の代わりに黒煙が滝のように流れ出ていく。
傘の男は剣を鞘に戻し、近くの軍服の男を呼んだ。
「こいつを署まで頼む。詳細を話してもらわねば」
「承知いたしました」
拐かしの首謀者である男は、ぐったりとしたまま軍服の男に抱えられ、連れて行かれた。
「大丈夫か?」
傘の男は私に駆け寄り、縄を切ってくれた。
「立てるか?」
優しく手を差し伸べてくれる彼に、私は頷いてその手を取る。しかし、立ちあがろうとしたところで足に激痛が走った。
「ーっ!」
裾を軽く捲ると、足から血が流れていることに気づく。おそらく、あの男に投げ出された時に付いたものだろう。
「足が怪我したのか?」
「あ……だい、じょう……」
大丈夫です、と言いたかった。しかし、喉が閉まったように上手く声が発せない。
(またいつものだ……)
声を出す代わりに頷いてなんとか立ち上がる。痛みは一時的なもので、歩けないほどではなかった。
初対面の人、特に男性だと途端に声が出なくなってしまう。私の一番の悩み。
だが、傘の男は私が恐怖で喋れないと悟ったらしい。口元を吊り上げ、目こそ見えないものの微笑んだ。
「落ち着け。もう安心していい」
柔らかな声に、不思議と今まで強張っていた体の力が抜ける。ずっと張り付いていた恐怖も剥がれ落ち、心が軽くなる。
「怖かっただろう」
私は首を縦に振る。
「こちらに来い。今から、奴らのことを話そう」
傘の男は私を部屋の中央へと案内した。無傷の女たちも同じように一箇所に集まる。
私たちの前に、白い軍服の男が立つ。
「この度は我々検非違使がいながら、このような事態になってしまい大変申し訳なく思う」
詫びの言葉を述べて、男は頭を下げる。
「皆驚いたことであろう。話を聞けば、女が奴らの黒煙に襲われ、光る球体を奪われたとか」
ざわめきが波紋のように広がる。それは、おそらくここにいる全員が目にした光景。
「あ、あれは一体何なんですか?何故、あんなことが……?」
1人の女が声を上げた。それは、誰もが知りたがっていたこと。軍服の男は包み隠さず説明する。
「まず、貴方たちを襲ったのは、魔に落ちてしまったあやかしです」
衝撃の一言に、私は耳を疑った。
「あ、あやかし……?」
「あやかしって、あの、特殊な力を持つ……!?」
あやかしという生き物は、おそらく日本国の大半の人間が知っているだろう。それは神にも近い、特別な力を持って生まれる生き物。
「そのあやかしが魔という、簡単に言えば闇に呑まれてしまったのが奴らです。そして、奴らは皆さんの神力を吸い取っていました」
「し、神力……!?それって、あやかしだけが持つ特別な力のことじゃ……」
「わ、私たちがそんなものを持っているはずがないでしょう!?」
「いえ、稀に、僅かながら神力を持つ人間はいます。それが貴方たちです」
はっきりと告げられた真実に、私は唖然とした。
(私が、神力を持っている!?)
あり得ない。神力はあやかしが術を扱うために使う特別な力。人間が、増してや自分が持っているなど、夢にも思わなかった。
それが喜ばしいことなのか、不吉なことなのかは断定できない。だが、この状況においては神力を持つということは不幸をもたらすとしか言いようがない。
「これから気をつけて下さい。今回のように、魔に落ちたあやかしが貴方たちを襲うことがあるので」
軍服の男は鋭い目つきで警告する。あくまで自己防衛をしろ、ということらしい。
「それよりも、この事件のせいで帝の道中に行けなかったわ」
1人の女が、そんな呟きを漏らした。襲われた恐怖ですっかり頭から飛んでいたが、今日は帝の番選びの道中がある。見る限り、彼女の着物は上等そうだ。このために用意したのだろう。
「私も」
「せっかく家族が着飾ってくれたのに……」
女たちは次々と肩を落とす。何年も待ち侘びていた好機を逃した悔しさは計り知れない。
しかし、そこに希望の光が舞い降りる。
「そのことならばご安心を。この事件は帝にも通っております。拐かされた女たちは優遇するように、との言伝も承っています」
「それは、どういうこと?」
「簡単に説明しますと、貴方がたは帝に会うことができます」
大きく踏み出た提案に、「まぁっ」と多くの女が頰を紅色に染めた。彼女たちにとってはこれ以上ない、喜ばしい知らせだろう。
「で、では、帝と近くでお会いできるということ!?」
「はい」
「籠で通るのを見届けるだけではなくて!?」
「ええ。簾一枚を隔ててお会いすることができます」
「なんて幸運なことでしょう!」
途端に女たちは笑顔になる。数刻前まで恐怖に絶望していたのが嘘みたいだ。
(それ程までに帝の道中に参加したかったのね)
それは、私には理解できない感情。そして、これからも理解することはないであろう感情。
「それでは、付いてきて下さい」
軍服の男の後を、私を除いた全員が嬉々として付いていく。その様子を、私は側から眺めるのみ。
「お前は行かないのか?」
声をかけられて振り向くと、そこには私を助けてくれた傘の男が立っていた。はい、という代わりに頷く。
「そうか」
それっきり、男は黙り込んだ。が、不意に顔を上げ、提案する。
「ならば、少し、私と街を歩かないか?」
「えっ……?」
予想だにしない言葉だった。このまま帰してくれるとばかり思っていた。
「先程のこともあって心身が安定しないだろう。気晴らしに、どうだ?」
「あ……、の……」
答えに詰まる。この男はつまり、2人で街を回ろうと言っている。異性と2人きり。それは私が恐れているものだった。だからと言って、優しさからの申し出を断るのは気が引ける。
考えに考えを巡らせた挙句ーー。
コクリと、首を縦に振る。
すると男は、目こそ見えないものの微笑みを讃えた。
「良かった。では、早速行くとしよう」
そう言うなり、私の手を取る。
「あっ……!」
反射的に、その手を振り解いた。突然の行動に、男は驚いた様子を見せる。
「あ、ああ、すまん。見ず知らずの男に手を触れられるのは流石に驚くよな」
「あ……いえ……」
我に帰り、自分がしたことに頭が真っ白になった。いくら驚いたとは言え、振り解くのは失礼すぎる。相手が命の恩人とも言える人なら、なおさらに。
「す、すい……ま……せん」
声が掠れる。精一杯頑張ったつもりだけど、どうしても思うように喋れない。目の前の男はきっと、口を金魚のようにパクパクと動かしているにしか見えないだろう。
そう思ったのだが。
「いや、私のほうこそ悪かった」
男は詫びた。私の声はちゃんと届いていたらしい。優しい返事に、顔を上げる。不思議と胸の内が暖かくなった気がした。
「無理強いはしないが……よいか?」
傘の男は再び私に手を伸ばし、許可を求める。私は戸惑ったが、なんとなく、この人は大丈夫だと思った。恐る恐る、華奢な手に自分の手を重ね合わせる。
傘の男は口元を嬉しそうに綻ばせた。
「では、行こうか」
「は、はい……」