*

 その時、私の涙は枯れていた。もうどれくらいここにいるのかも分からない。乾いた瞳で、真っ暗な天井をただただ眺め続ける。心は空っぽだった。時間の感覚がないこの部屋で、泣き始めていくらか経った頃、誰かの話し声が聞こえてきた。

「どう……です…?…やって…るの…か?」
「……から……して……、…するさ」

(……誰なの?)

 ここにきて久しぶりに聞く人の声。何を話しているかまでは聞こえなかったが、紛れもない人間だ。

 私は泣き腫らした顔で後方を振り返った。すると、さっきまでただの薄い紙だった障子に、黒い人影が映っていた。

「ひっ!」

 影が黒いのは当たり前。なのに、情緒が不安定なせいかその黒さが悍ましく思えてしまう。
見たことのない影の形。

(もしかしたら、こいつが私をここへ連れてきた犯人かもしれない……)

 咄嗟に出てしまった悲鳴は、障子の向こうにも聞こえたらしい。影はピクリと体を震わせ、大きく映った腕で障子を開いた。スッと擦れる音と共に現れたのは、和服に身を包んだ男。顔は丁度影が落ちていて、はっきりとは見えない。

「おー、やっとお目覚めかな?」
「っっっ!」

 聞き覚えのある声。それは確実に危険な匂いが漂っていた。私はバッと立ち上がり、今度こそ身構える。

「ははっ!そんなに警戒しなくてもいいって。てか、そんな態度をとるってことは覚えたんだな?」

 愉しそうに男は近づいてくる。そして、伸ばしたら手が届きそうな距離まで詰められた時、その顔が露わとなった。目の前の人物に、私は声を失う。構えていた腕も下ろすほど、信じられない光景だった。

 蝋燭の火が照らしたのは、女達を引き連れて、その女に帝の(つがい)の座を奪わせようとした男らの一人だった。

 私が驚いたのは、その男の額に生えているものと、持ち合わす雰囲気だ。そいつは、私の知る人間の姿じゃなかった。

 そいつの額には、角があった。
 2本の、真っ黒い角が。

 そして、顔を見た瞬間に全身が圧迫されるほどの威圧感が、そいつにはあった。息もできなくなるほど凄まじい、こいつから漂う気。近付いた者を全て屈させようとしているような威圧感に、私は思わず後ずさる。

「まさ……か、鬼……!?」
「その通り」

 男は見飽きた下品な笑みを浮かべる。あの時と同じように。しかし、黒光りする角が際立って、ただ気色悪いだけでなく恐怖も人に与えるような表情だった。

「俺は人の姿になれっからな、あっちでは人間として生きていたけど」

 鬼はなお私に迫ってきた。血管の浮き出た腕を伸ばし、太い指で顎をグイッと上げる。抵抗しようとするも、力が強くて抗えない。布が焦げたような異臭が鼻をつく。

「ん……っ!」
「本来は、お前ら人間が平伏す鬼なんだよ」

 私は咄嗟に顔を背けた。が、鬼は逆に、息がかかるほどまで顔を近づける。

「おい、こっち向けよ。折角、あの帝の(つがい)を、それも運命人を拝もうってところなんだから」

 鬼はぐっと指に力を入れ、無理やり目を自分に合わせた。真っ黒で何もかもを埋め尽くしてしまいそうな瞳の中に、私の怯えた表情が映る。鬼はニヤッと口角を上げて、真っ赤な唇を舌なめずりした。その動きに、私の体はビクッと反応する。
 

 怖い。


 その感情だけが、私の胸を埋め尽くす。
 
「おいおい、震えなんかしてどうしたんだよぉ?」

 疑問形なのに、その声は明らかに面白がっている。

「何で……そんな、にもっ」

 うっと喉が詰まった。喋ろうとしているのに声が出ない。喉が開いてくれない。

 いつものだ、と青ざめる。
 また、この体質。

 だが、鬼は私が恐怖で声が出ないと勘違いしたらしい。その後の言葉を汲み取り、奴は話す。

「んなの、お前の神力を頂くために決まってんだろ」

 当然だ、という表情で鬼は言った。私は目を見開く。こいつも、誘拐事件を引き起こしたあのあやかしと同じ目的だったのだ。

「帝は何故、運命人にこだわるのか。それはより強大な神力を得るためだ。それはあやかしだって同じなんだよ。神力が強いやつと結ばれれば大きな力を手に入れらる」

 ニヤリと鬼は怪しげに瞳を細める。

「つまりお前は、帝やあやかしに偉大な力を授ける、いわば極上のご馳走様みたいなやつなんだよ」

(私が、力を授ける……?)

 こんな何もできない私が、そんな力を秘めていると言うのだろうか。鬼の言うことは信じ難い。だが、自分が神力を持っているということは既に教えられた。ならば、仮に神力が扱えなくとも、それを他者に授けることは可能なのかもしれない。

「くっ……!」

 私は俯いて、唇を噛んだ。口内に痛みが走る。鉄の足が広がる。それでも良かった。今の悔しさに比べれば、こんなのどうってことない。私は肩を震わせて、ただただ自分の人生を噛み締め、恨む。悔しくて、辛くて、苦しい。この空間も、この世界も、この運命も。

 下を向いて震え続ける私に、鬼は再び顔を近づけてきた。

「そんなに怯えることはねぇよ。どうせお前は俺の妻になるんだからな」
「えっ……?」

 聞き捨てならない言葉に、勢いよく顔を上げる。

(何で私が鬼の妻なんかに?)

 帝の(つがい)になるとは何回も言われているけど、鬼の妻だなんて聞いてない。

「はははっ!そんなに驚かなくてもいいじゃねぇかよ」

 どうやら動揺が顔に出ていたらしい。鬼は口を大きく開け、愉しそうに笑い声を上げた。

「俺がお前を連れ去ってきたんだから、そんなの当たり前だろ?」

 何が当たり前なのか。私は意を決して鬼と視線を合わせ、キッと睨みつける。

「あなた、の……妻、なん、かに、……ならな、い!」

 冗談じゃない。あやかしの、それも私を襲おうとした鬼の妻だなんて、死んでもなりたくない。

「そうかそうか。でもな……」

 鬼は余裕の表情でその手を離す。代わりに、右手を私の方へかざした。途端、鬼の掌から赤紫色の煙が生み出される。私は目を見開いたが、驚きの声を上げる暇はなかった。

「うっ……ぐぅ……!」

 赤紫色の煙は紐のように細くなり、蛇のようにくねらせながら私の体に纏わりついてきた。腕に、腰に、胸に、首に、締め付けられるような痛みが走る。紐のように絡まった煙を取ろうとするも、気体に色がついただけのものにはどうしても触れられない。

 拐かされた時、神力を奪われた女の姿が蘇る。私もあんな風になるのだろうか。

「ぐっ……うっ……!」

 もがいてももがいても、苦しさは弱まるどころか強くなる。

(これが、あやかしの力……っ!)

 赤紫の煙は私の体を縛り上げ、いつの間にか地面から高くの位置にまで掲げていた。体は宙に浮いており、足が地につかないまま、ぶら下がりの状態となる。鬼の目線が随分と低くなっていた。滲んできた視界で、薄く笑う鬼が見える。
 
「どうだ、俺の妻になる気になったか?」

 神力を操ったまま、鬼は尋ねてくる。その言葉には、言いようのないほどの凄みと圧がかかっていた。受け入れなければ、もっと苦しい目に遭わすぞ。と、そんな凄みが。

 苦しい、息ができない、喉が圧迫される。しかし、そんな状況でも鬼の言うことに首を振る気はなかった。

「あんた、なんかの……妻に、なんて……ならないっ!」
「……ふーん」

 鬼は口元を歪ませ、そんなことを呟いた後、目を細めた。

「そんなことを言ってられんのも今のうちだ」

 鬼は手をぎゅっと握って、拳を作る寸前になる。

「がぁっ……ぁぁっ!」

 喉が、肺が、血管が、物凄い勢いで圧迫された。煙が私を縛る力が強くなったのだ。苦しさのあまり首を激しく振って、足をジタバタと動かす。それでも力が緩むことはない。その間にも、体の痛みは増していく。胃の中から、何かが迫り上がってくる感覚があった。

「ハハハハハッ!ざまぁない醜態だな」

 鬼は高らかと笑う。まるで、見せ物を楽しんでるかのように、私の姿に嘲笑している。

「……っ!」

 もがきの涙が頰を伝った。もう、頭の中さえぼやけてきている。

「…羅衣……源」

 再び蘇る、意識が薄れていく感覚。霞んできた視界の中で、私は脳裏に浮かんだ彼の名前を呼んだ。とても小さな声だったと思う。いや、もしかしたら普通の大きさだったのかもしれない。

 私の呟きを耳にしたらしい鬼は、わざとらしく眉をひそめた。

「ああ?あいつは来ねぇよ」

 馬鹿にしたように私を見上げ、鬼は事実を告げる。

「ここは地下だ。神隠しの香も炊いてある。何より、俺の神力で少しばかり細工をしてあるからな」

 してやったり、と得意げな表情で、鬼は続ける。

「俺が許さない限り、お前がここを出ることも、他の奴らがここへ来ることも出来ねぇ」

 鬼は本当に愉しそうだった。何が愉快なのかは、私には分からない。自分の思い通りに行くからだろうか。私の醜態を見ているからだろうか。あるいは、自分より下等なものが好きだからだろうか。嫌なやつほど、そいつの考えを理解するのには苦労する。

「お前は、俺の妻になるしかないんだよ」

(嫌だ嫌だ嫌だ……っ!そんなの嫌だっ)

 私は全身を使って拒む意志を露わにする。

「んな暴れたって変わらねぇよ。お前はそういう運命になっちまったんだから」

 鬼の声が、耳に這うような不快感を与えてくる。そんなはずはない。運命は、突然変わったりしない。それは、私が運命人ということが示している。

「おまえはこれから永遠に、俺のそばに居続けるんだ」

 あからさまに怪しげな言葉の一つ一つに、怯えることしかできない。

「なぁ。お前の神力はさぞかし凄いんだろうなぁ」

 舌なめずりをして鬼は惚ける。私をまるで食い物のように見つめる瞳は、どこまでも深く暗かった。

 怖い怖い怖い……。

 でも、絶対にこいつ言う運命は受け入れない。

「なぁ、抄華」
 
 鬼が、私の名前を呼んだ。弾かれたように、私の体は意志に反して動きを止める。動かない、いや、動けなかった。

(これも、鬼の神力によるものなの?)

 指先すら言うことを聞かない。

「もう一度言う」

 鬼の声が低くなる。嫌でも耳に入ってくる。

「俺の妻になれ」

 鬼は笑みを無くしていき、いつしか苛立ちを見せるようになっていた。眉間に皺を寄せた鬼の怒りの表情は、いつどんな時のものよりも悍ましかった。下品とか、厭らしいとか、そんは感情を抱くことはできない。ただただ、悍ましい。

 それでも。

「わ、たしは……妻なんか、に……なら、ない……絶対に……」

 声を絞り出して、私は鬼を睨み付ける。

「……そうかよ」

 鬼は瞳に影を落として、低くドスの効かせた声で呟いた。身の毛がブワッと粟立ち、恐怖が走る。

「だったら、お前はもう用無しだな」

 鬼は右手を前に突き出して、拳を作るべく掌に力を入れようとする。グキッと体から嫌な音が聞こえた。

「がっ……ぐっ……ぁぁあああっ!」

(苦しい苦しい、嫌だ、やめて!)

 煙の締め付ける力はどんどん強くなっていく。肉が捻じ曲げられ、骨までも壊そうとしてくる。猛烈な痛みは、私の意識を徐々に奪っていく。

(もうダメだ)

 感覚が次第になくなっていった。もう、何処が痛んでいるのかすらも分からない。私はもう死ぬ。ここで生き絶える。


 そう、諦めかけた時だった。



 パキッ



 まだ機能していた鼓膜に、乾いた音がどこからともなく聞こえた。

「あっ?」

 鬼が動きを止めて、視線を彷徨わせる。少しだけ煙の力が弱まり、私は何とか呼吸を続ける。


 パキッピキッパキッ 


 その間も、何かが割れる音が響き続けている。

(何処、から……?何の音……?)

 薄らと景色が歪む視界を動かして、ようやく音源を見つけた。それは、部屋の一角の壁だった。霞んだ色の薄暗い壁に、幾つもの亀裂が走っている。

「何なんだよ……?」

 鬼はどうやらこんな事態は初めてらしく、戸惑いと訝しさを交えた表情を見せる。

 ピキキッバキッ!

 壁全体がひび割れたと思った瞬間、その壁が勢いよく破壊された。破片と砂埃が同時に舞う。

「ぐわっ!」

 鬼は思わず腕で顔を隠していた。私も、ゴミが目に入らないように必死に瞑る。
 
(一体……何が起きたの?)

 これも鬼の仕業か、と疑ったが、驚いている様子を見るとそうじゃないと分かる。演技でもなさそうだから、これは本当に鬼にとって想定外の出来事。だったら、鬼の予想をも覆す人物、もしくは生き物、あるいは現象。

(誰が、もしくは、何が来たんだろう?)

 そんな思考を膨らませる私の耳に、馴染みのある、あの頼もしい声が滑り込んできた。

「ようやく見つけたぞ」
「……っ!」

 私と鬼、二人して声が聞こえてきた方向を向く。割れた壁の穴から、人影が入ってくる。細くて、背が高くて、しかし力のある、あの人が。

「羅衣源……!」

 切れ長の瞳、漆黒の髪、綺麗で、でも頼り甲斐のある表情。蝋燭の火が照らしたその人の顔を見て、気付けば叫んでいた。あの、堪らなく愛おしく思っていたあの人の名を。

 羅衣源は私を見つめて、ふっと顔の力を抜いた。自然となのか、口角が嬉しそうに上がっている。

「やっと会えた、抄華」
「羅、衣源……」

 彼に視線を向けられたことで、頰に温かいものが伝った。それは、肌に温度を残したまま床へポタリと落ちる。嬉しさと安堵のあまり、感情の歯止めが効かなくなって仕舞い込んでいた想いが溢れてきた。

「辛かっただろう。今助けるぞ」

 羅衣源は私に向けて右手をかざした。すると、彼の手のひらから幾重もの桔梗の花びらが生まれ、それらは一列に並んで私を囲む。そして、体を拘束する赤紫色の煙を打ち消していった。私を苦しめる力がどんどん弱くなっていくのが分かる。

 ついには、完全に締め付ける感覚が消え、自由が戻ってきた。

 体が宙に浮く。
 
「あ……」
「あっ!」

 鬼が声を上げるのも虚しく、私は羅衣源の腕の中に収まる。フワッと柔らかな感触がして、爽やかな香りに包まれた。

「抄華、大丈夫だったか?」

 意外にも羅衣源の顔が近くにある。ドクンと心臓が高鳴る。でも、私は笑った。

「うん、大丈夫だよ。助けに来てくれて、ありがとう……」
「ああ」

 彼の笑顔にまた、心が高ぶる。本当に、嬉しかった。羅衣源が、私を助けてくれたことに。
元いい、私を探してくれたことに。

「抄華、立てるか?」
「うん、平気」

 許可を得てから、羅衣源はそっと私を下ろす。足が地面に付き、立つという感触が戻ってきた。ほんの僅かな間しか囚われていなかったはずなのに、何だか床が懐かしく思える。

「話したいことは山々だが……」

 羅衣源は表情を変え、鋭い視線を後ろにいる鬼へ向けた。

「まずはあいつをどうにかする。少し、待っていてくれ」
「分かった」

 頷くと、羅衣源はくるりと向きを変えて私の一歩前へ出た。

「まさか、帝様のお出ましとはな……」
「驚いただろう。よくも私の(つがい)を閉じ込めてくれたな」
「チッ!何でお前がここに入ってこれる!?」

 鬼は憎々しげに羅衣源を見つめた。対して彼は余裕の笑みだ。

「それはこれのおかげさ」

 と、羅衣源は懐に手を突っ込み、紫色の花びらを見せた。

「これはあやかしである九尾から譲り受けた、抄華と私を繋ぐ花。こいつがここまで案内してくれたんだ」

 すると、彼の手のひらから花びらが勝手に舞い上がり、数を増やして彼の周りで躍るように舞い始める。

「くそっ!あやかしの助言か……。術破りも香消しもそれのせいかっ!」
「観念するんだな、鬼」

 言いながら、羅衣源は背中に吊るしていた笠を手前に持ってきて、その裏に手を入れる。

「私の(つがい)を攫ったからには、それなりの罰を受ける覚悟があるのだろう?」

 笠から取り出したのは、細い刀身の短剣だった。

「なっ……っ!」

 鬼はあり得ないと言った様子で目を見開いた。私もそうだ。笠の中から刃物が出てくるなんて、普通の人は思いもしないだろう。羅衣源は短剣の鞘を取り、投げ捨てる。炎の光を受けてもなお銀色の刃が、キラリと鬼を捉えた。

「お前はここで終わりだ。覚悟しろ」
「……っ!そうはいくかっ!」

 鬼は羅衣源に向けて手をかざした。赤紫色の煙が、彼に一直線目掛けて伸びていく。

「羅衣源っ!」
「大丈夫だ」

 忠告しようとした私を、落ち着いた声が制する。煙はどんどん膨らみ、彼の体に纏わりつこうとした瞬間だった。羅衣源の周囲を回っていた桔梗の花びらが、規則的な動きを止め、次々に煙を弾いていった。

「な……っ!」

 呆気なく自分の神力を打ち消されたことに呆然とする鬼。羅衣源はニヤリと涼しげに笑う。

「いくら正一位の鬼でも、穢れた神力、邪気を扱えば弱いな」

 そして、一歩踏み切った。タンっと軽い音で地面を蹴って。羅衣源の持つ刀身が、鬼の胸を真っ二つに切り裂く。

「がぁっっっ!」

 傷口から溢れるように出てきたのは、真っ黒いモヤ、煙だった。鬼は膝から崩れ落ち、自分の胸を押さえて悶え苦しむ。

「えっ……?」

 何故、鬼の体から煙が溢れ出すのだろうか。状況の理解が追いついていない私に、事を終えて下がってきた羅衣源が言った。

「驚いたか?」
「うん……あれは、何なの?」
「あれは鬼の神力だ。それも、穢れたな」
「あんなにも大量に溢れ続けているのが、神力?」
「ああ。神力、というものに間違いはない」

 想像との違いに色々と戸惑う。

「鬼は神に最も近いあやかし。あれだけの神力を持っていてもおかしくはないだろう」

 確かに、言われてみればそうかもしれない。しかし、今私達が見ているのは穢れた神力だ。

(鬼がこれほどまで穢れているなんて……)

「あれは穢れた神力、邪気という力だ。穢れが多ければ多いほど、あいつが間違った方向に神力を使ったという印さ」
「そんな……」

 ならばこの鬼は、一体どれだけ誤ちを犯してきたのだろう。鬼の胸からどす黒い煙が漏れるたび、私の心配と不安は膨れ上がる。

「ああやって、あやかしが悪へ手を伸ばしてしまった状態を『魔堕ち』という。あやかしは魔堕ちすることで神力を失い、代わりに邪気を溜めていくんだ」

 羅衣源の説明を、私は信じられないという思いで聞いていた。あやかしは神に近い生き物。だから、敬い尊敬するべき聖なる対象。少なくとも、私はそんな話を耳にしたことがあった。だから、あやかしが悪に染まるなんて有り得なかった。

 でも、現に目の前にそんなあやかしがいるから、受け入れる他ないのかもしれない。

「魔堕ちしたあやかしはどうなるの?」

 私は居ても立ってもいられなくなって羅衣源に尋ねる。今もなお、鬼は苦しみながら黒い煙を吹き出し続けている。あのままだったら、死んでしまうんじゃないかとヒヤヒヤさせられる。

「ああ、それなら心配いらない」

 もう大丈夫だ。そう、羅衣源は呆れ半分、安心半分といった感情を込めた微笑みを鬼に向けた。すると、鬼から出てくる煙、邪気は段々と微量になっていき。やがて黒い煙は鬼から出てこなくなった。と同時に、鬼の胸の傷口も塞がる。そして鬼は呻き声を上げるのを止め、そのまま床に倒れた。

「……止まった?」
「そうだ。抄華、あいつの顔を見てみろ」
「……?」

 訳が分からないまま、言われた通り鬼の顔を覗き込んだ。

「……!?」

 今まで、下品で厭らしい笑顔ばかりを見せてきたその男、ならぬ鬼。

 なのに今は、羅衣源にも劣らないほどの美しい顔立ちだった。それに、年齢も40代ぐらいだった先ほどから、20代と青年に見えるほどになっている。

「えっ、うそ。何で?ど、どう言うこと……?」

 動揺を隠しきれない私に、苦笑して見ていた羅衣源が言った。

「あやかしは人間に化ける場合、その者の神力や心の綺麗さに見合った姿にしかなれない。本来、こいつの心はこの顔と同じくらい綺麗だったと言う事ことだ」

 長いまつ毛にスッと細い鼻筋、色白の頰。今は目を閉じて寝ているが、起きた表情はもっと秀麗なんだろう。そう思わせるほどの変わりようだった。

「ねぇ、どうやったの?何をしたの?」
 
 私は鬼から顔を離して、再び羅衣源に質問した。彼は得意そうに笑みを浮かべていた。

「なに、簡単なことだ。私たち帝の一族には、邪気を清め、穢れを祓う力がある。それを使っただけだ」

 羅衣源は手に持っていた短剣を見せながら、淡々と答える。

(すごい。帝って何でもありなんだ……)

 彼の凄さにまたも驚かされた瞬間だった。

「さて、やれることは全てやった。あとはこいつを……」

 と話す羅衣源の声を、威勢のいい別の声がかき消した。

「羅衣源様!ただ今到着いたしました!」

 満面の笑みで壁の穴から現れたのは、あの元気な青年、千魏だった。

「お前、もう少し声の大きさを下げるということができないのか……?」
「あはは、すみません」

 千魏は頭を掻きながら会釈する。そして、床に倒れている鬼を見るなり、表情を引き締めた。

「これが、抄華様を攫ったあやかしですか」
「ああ、魔落ちした鬼だ」
「そうですか……」

 千魏の声は落ち着いていた。というよりは、沈んでいたと言った方があっているかもしれない。千魏はしばらく床に倒れる鬼を見つめ、やがてそいつのそばに駆け寄って肩に担いだ。

「では、この方を連れて行くでよろしいのですね?」
「ああ、よろしく頼む。そいつを検非違使(けびいし)のところまでな」
「承知いたしました!」

 千魏は笑顔で受け応えた。前と変わらない表情、と思ったが、何処か無理しているように感じる。

(やっぱり、こんな光景を目の当たりにしては、平常心でいられるはずがないものね)

 しかし、千魏は何ともないような素振りを続け、軽々と鬼を肩に乗せたまま片道を戻っていった。

「あいつを検非違使(けびいし)なんかに連れて行ってどうするの?」

 検非違使。それはこの街を守るために構成された部隊。帝の警護や犯罪者を取り締まることも行なっていると聞いたことがある。

「面倒を見てもらう」
「面倒って、牢に閉じ込めたり?」
「いや、そこまで酷い扱いはされないだろう。元より、あやつは神の子とも囁かれる高位のあやかしだ。それに、あいつの穢れは払ったから少し話をするだけで済むだろうし」

 そんなものか、と私は胸を撫で下ろした。いくら酷いことをされた鬼だからって、同じくらい酷い扱いを受けるのは辛いし可哀想だ。

 しんと静寂に包まれた、蝋燭の灯りだけが揺らめく部屋にて、私は静かに微笑んだ。

「さ、これで全て終わったな」
「そうだね……」

 あっという間だった。私が攫われてから、羅衣源が助けに来てくれるまで。怖かったけど、彼の愛と、私を大切に思う気持ちが十分に伝わった機会だった。

「ねぇ、羅衣源」
「ん、何だ?」

 振り返ろうとした彼の動きを、後ろから抱きしめて制する。

「わっ、な、どうした、抄華?」

 さっきとは打って変わって、頰をほんのりと赤らめて慌てふためる羅衣源。私は彼の背中に顔をうずめて、ふふっと声を漏らした。私を助けにきてくれたカッコいい羅衣源も、もちろん好きだ。

(けれど、不意にしか見せないこっちの彼も好きだな)

「助けに来てくれて、ありがとう……」

 そう言って彼の体に回していた手にぎゅっと力を込めた。

「ああ、私はいつでも抄華を助けにいくよ」

 羅衣源は細長い手を伸ばして、幼子をあやすように頭をぽんぽんと撫でる。

(この感じ、やっぱり心地いい)

「怖かっただろう。外に出ようか」

 優しさを滲ませた笑顔を整った顔に浮かべて、羅衣源はそっと手を差し伸べた。

「うん」

 私は満面の笑みを讃えて、彼の手を取った。瞬間、くにゃりと視界が歪んだ。

「あ……れ……?」

 そのまま、体の力が抜ける。体を支えていたはずの足も膝から曲がり、目の前が横に倒れていく。

(ああ、安心したら、何だか力が……)

 脱力とはこのような状態のことを言うのだろう。緊張と恐怖の糸が切れて、連動していた筋力までもが抜かれる。

「おい!」

 焦りに駆られる羅衣源の表情だけが、やけに鮮明に見えた。そのまま、私は意識を失った。