「……ん、……ううっ」
真っ暗で何も見えない。全身に闇が纏わりついたように、何もかもが黒い。それに、冷たい。恐ろしいほどの冷気を感じる。
体が動かない。水に囚われたか、重石に囚われたか、あるいは、この世ならざる力に囚われたか。足が、瞼が、頭が、全身が重い。まるで、体が鉛になってしまったみたい。自分が金属になってしまったような、そんな感覚に違和感を覚えた。
「んん……」
私はゆっくりと瞳を開ける。全身が重くて、僅かな行動をするだけでも体の節々が痛み出す。始めは、ただの暗闇しか見えなかった。光さえ見えない漆黒の世界。
(ここ、は……?)
何も見えない、何も聞こえない。自分が本当に闇の中に閉じ込められているのかと思った。もう二度と出られないような、深く暗い場所に。
しかし、段々と身体が覚醒していったおかげか、五感が研ぎ澄まされていき、自分が何処にいるのかを確認することができた。
はっきりとしてきた目が映し出したのは、木目がくっきりとついている茶色の天井。所々にシミが付いていて、それが人の顔に見えるもんだから不気味だった。そして、その天井は、ゆらゆらと不規則に揺らめく影があった。生き物でもいるのか、と身構えたが、違かった。部屋の各隅に蝋燭が置かれており、その火が風で揺れ動いていたための影だった。さらには、ドッドッドッと慌ただしい足音が遠くから響いている。それも、幾つもだ。
その上、不思議な香りが先ほどから立ち込めている。仄かに甘く、けれども線香にも似た匂い。それがこの部屋全てに充満していた。
(これは確か……神隠しの香)
神隠しの香は、その名の通り神隠しを引き起こす。とは言え、人間が消えるのではなく、単に特定の生き物から姿が見えなくなるだけ。
夜道やお盆に焚いていた覚えがあった。その時は禍事から目眩しのために使っている、と両親に聞いたことがある。
(でも、今はなんのために……?)
禍事から見えなくする、というのはどうにもこの状況に合っていない。何のために目眩しを行っているのか。
シミだらけの部屋、薄暗い蝋燭、神隠しの香。
(ここはまるで座敷牢みたい)
こんなところに来た覚えはない。心の中で文句を蹴散らしながら、私は上半身を起こす。
「うっっっ!」
勢いよく頭を持ち上げたせいで、一時的に脳に血が通わなくなってしまい眩暈が起こる。でも、その感覚もあっという間に消える。瞬間的な貧血に過ぎない。目の前の霞が消えたのを確認して、私は首を左右に振る。私がいたのは、暗くて、狭くて、素っ気ない部屋。
窓もなければ家具もない。灯りは蝋燭に灯された火だけ、壁は薄汚れた茶色で、一角だけが真っ白い障子だった。その紙さえ、所々に破れている。
私は視線を落として床を見る。ささくれが大量にある濁った色の畳。代えていないのが一目でわかる。そこに、薄っぺらい布団を敷いて寝かされていたのだ。あまりにも薄いものだったため、てっきり床に横たわっていたのかと勘違いしたけど。一応は布団というものの上にいたらしい。
眠っていたと言うことで私は一瞬焦ったが、着ている衣服は変わらず、また、服が乱された形跡もない。体には触れられていないことに、ひとまず安心する。
しかしもちろん、心の平穏は戻らない。一つの心配が解消された今、私の不安は再びこの部屋へと向けられる。
「……ここは一体、何処?」
私はさっきまで、街の中を歩いていた。そう、羅衣原と共に、日の光に照らされた明るい街中を。しかし、今は真っ暗で汚い部屋の中だ。
「私……羅衣源と話してて……。それから、それから……」
頭に手を当て、記憶を辿る。九尾の居た建物から出て、羅衣源に番となることを求められて、そしたら唐突に赤紫色の煙が出てきた。
「そうだ」
私は謎の煙に包まれた後、意識が途切れたのだった。睡魔のようなものが襲ってきて、目の前が真っ暗になった。私はきっと、意識がないうちにここへ連れてこられたんだろう。
「じゃあ、ここは何?私は何処にいるの?」
何度尋ねても、答えてくれる者はいない。囚人のような私は、独りぼっちだ。
「羅衣源……」
咄嗟に思いついた名前を呟く。何故だろう、最初はあんなに憎んでいたはずだった。
隣に彼がいないと知った今、私は彼がたまらなく愛おしいと思えてきた。さっきまで、ずっと横にいてくれた。私を優しく、しかし力強く抱きしめてくれた。
そんな彼の温もりは、今はない。寂しさのあまり、私は冷えてしまった自分の両手を見つめた。でも、もうあの感覚は鮮明には蘇らない。
「ううっ……誰か……」
どうしようもない状況に、私は泣き崩れた。目から溢れ出した雫が手のひらを濡らし、さらにそこからも溢れ、一滴、二滴……と畳の色を変えていく。
(苦しいよ、寂しいよ……)
こんな、訳の分からない場所に1人なんて。虚しさと恐怖が押し寄せ、胸が張り裂けそうになる。
(今からでも、遅くないかな……?)
自分勝手だけど、どうしても思ってしまう。届かないと分かっていても、求めてしまう。
「羅衣源、会いたい……っ」
涙は止まるどころか、勢いを増して溢れ出す。目の熱と津波の如く押し寄せる空虚感だけが、唯一感じられるものだった。
泣くためには、時間なんて限られていなかった。私は泣いた。感情を涙に変換して、ただただ泣き続けた。