私と羅衣源は、炎の如く熱を帯びる日光に照らされている道の真ん中にいた。ひんやりとした空気を醸し出していた建物内から一転、焼け付くような灼熱の太陽の匂いが鼻をつく。

(夏がこんなにも暑かっただなんて)

 最近の猛暑に慣れてしまったためか、これまでの熱気は、さほど熱いとは感じなくなっていた。建物から出てきて、日光に晒されたことで、改めて夏の熱気を目の当たりにする。夏は暑いのが当たり前なのに、暑く感じなくなってしまっていただなんて、あやかしと出会った次に不思議なことだと、私は密かに思った。

「こんな近くに、まさかあやかしが居ただなんて」

 私はチラリと振り返って、さっき入った建物を見た。いつ見ても、圧倒されるオーラを放っている。そこには、近づけないような見えない何かが漂っているよう。豪華な作りで近寄り難い場所だったけど、今となっては別の意味で入るのを拒むかもしれない。

「驚いたか?」
「うん、すごく驚いたよ。まさかあやかしに会えるなんて。しかも、高位の九尾に」
「だろうな」

 予想通りの反応と言わんばかりに、羅衣源は表情一つ変えずに淡々としている。すると、彼は私の耳元に顔を寄せて、そっと囁いた。秘密を打ち明ける子供の如く。

「実はな、この通りはあやかし通りと言われているんだ」
「あやかし通り……?何故?」
「この通りにある店全てをあやかしが経営しているからだ」
「……えっ?この辺りって、ここ一帯ということ?」
「ああそうだ」

 一瞬、羅衣源の言ったことが理解できなかった。言葉を意味として捉えるのに、少しばかり時間がかかる。

 私の瞳が映しているのは、人気が少ない、豪華絢爛な店が立ち並ぶ大通り。感覚を研ぎ澄ますと、確かに普通の店とは違う何かがある。それがもしや、あやかしの気配だというのか。
 
 あの一つ一つにあやかしがいるなんて考えられる訳がない。目を白黒させている私を見て、羅衣源はケタケタと声を上げていた。

「はははっ!何もそんなに驚かなくても良いだろう」
「なっ!あなたは分からないかもしれないけど、私にとっては信じられないのよ!」

 顔に熱が集まっていくのが感じられたが、それでも言い返したかった。今度は恥ずかしさで体の体温が上昇する。

(あなたと私は違うんだから)

 ふんっ、と彼から顔を逸らすと、羅衣源も流石にやりすぎたと思ったのか、声を止めて謝る。

「すまんすまん。純粋な反応が、あまりにも愛おしくてな」
「何それ……」

 照れ隠しのように見える表情で言われると、さっきまでの怒りも失せてきた。

「……別に、いいよ」

 私は俯いたまま言う。だって、羅衣源があんな風に笑うのは珍しくも何ともなくなったから。今日出会ったばかりなのに、彼については沢山のことを知っている。今思えば、何だか不思議でおかしい。それこそ、運命なのかもしれない。

「あなたがそう思っていることも、分かってるから」
「そうか……」

 羅衣源はそう呟いた後、突然口を閉ざした。無言の彼を不思議に思って、私は顔を上げる。いつもなら、また別の話題で盛り上がるのに。

 すると、羅衣原源は今までとは打って変わって、沈んだ空気を纏って口を開いた。

「その、抄華は、あいつを、九尾をどう思った?」
「えっ、どう思ったって?」
「そのままの意味だ。その……抄華はあやかしをどう思っているんだ?今朝のこともあった故に……」

 その言葉にはどこか不安そうな想いが隠れていた。どう思われているか不安で仕方がないという想いが。

「うーん、そうだね……」

 彼の胸の内を察した私は、彼に笑顔を向けた。頭の中で言葉を選びながら、この気持ちを表す。

「それは驚いた、けど。でも、全然怖くないし、むしろ優しかったから……よかった」

 建物の奥に佇んでいた九尾の姿を浮かべる。あやかしは、気高く、私達なんか相手にしてくれないような生き物かと思っていた。自分が上だと自覚し、人間を見下すようなものかと勝手に想像していた。それに、今朝の出来事から私たち人間を襲うものだと知り、少しだけ、恐怖を抱いていた。

 でも、違う。あやかしは、九尾は思いやりを持っていて、人間に優しく手を差し伸べてくれるものだった。それに、私と羅衣源を巡り合わせてくれたというのにも驚いた。

 しかも、まさか帝の(つがい)を占っていたとは。帝の人脈の広さにも、あやかしの心優しさにも胸を打たれた。私は自然と微笑む。心の底からの穏やかな感情が全身に広がる。
 
「九尾は……あやかしはとても優しい」
「そうか。抄華がそう言ってくれて嬉しい」

 見れば、羅衣源も優しい笑みを浮かべていた。多分、私があやかしについてどう思っているのか、どんな印象を抱いたのか気になったんだと思う。何でかは分からないけど。

「これから抄華にも何かと関わるだろうから、良い生き物だと思えてもらってありがたいな」

 羅衣原は表情ひとつ変えず、平然とした様子で言った。

(それってやっぱり……)

「私が(つがい)になると決まっているような言い方ね」
「だってそうだろう。いつまでそう言ってる」

 彼の甘い表情、甘い声が心にじわじわと沁みる。お前は私のもの、と言わんばかりの顔を見せて、口の端を吊り上げる。整った顔立ち故に、純粋な笑顔よりも少し悪意と私欲が混じった表情の方が魅力的に見えるのは私だけだろうか。

 トクントクンと、心臓がやや早く鼓動し始める。

「お前は私の運命人。つまり、誰が何と言おうと抄華は私のものだ」
「何それ。勝手に決めないでよ」

 あからさまな否定をするも、私は自信に満ち溢れた羅衣源によって強引に腕を引っ張られ、胸の中で抱き止められる。羅衣源の温もりと優しい匂いに触れると、拒んでいた心が溶かされるような気がした。

(……やっぱり、この人は強引だ)

 女の子の扱いを知らないのか、胸をときめかせるのは知ってるくせに、こう行動に出ると少し下手だ。

 でも、私も私で、不思議と彼の不器用さが悪い方向には見えない。むしろ、こんな一面さえ心臓は敏感に反応する。

 私は彼に抱きしめられていると気づいてもなお、突き飛ばしたり拒否したりはしなかった。羅衣源の手の温もり、心臓の鼓動、柔らかな息遣い。何もかもが心地よい。

「抄華、もう一度言う」

 頭の上から羅衣源の声が降ってくる。さっきとは打って変わって、真剣さがありながらも、何処か緊張も帯びた声だった。

「私の(つがい)になってくれぬか?」
「……」
「私はお前と、生涯共に居たい」

 一体、今日限りで何度、(つがい)の申し出を受けただろう。その度に断りを入れているのに、それでも諦めない芯の強さが彼の性格だとは十分理解できた。

 縋るように私をまっすぐに見つめてくる彼の瞳。見ているこっちが吸い込まれそうだった。
最初の私ならば、すぐに返事を返していたかもしれない。無理だ、と。でも、今の私に、すぐ断る勇気はなかった。いや、これは勇気ではないのかもしれない。

 これを逃して仕舞えば、彼はもう私を求めなくなるんじゃないか。二度と。そして、諦めの表情で他の女性を選ぶんじゃないか。

 そんな未来を予想すると、どうしても心の何処かで、寂しいという感情が芽生えてしまっていることに気づいた。私は自分の胸に問いかけるように、心臓の上で拳をキュッと握る。

(私は……どうしたいんだろう?)

 質問を質問で返されることが一番厄介だと知っているのは、私の心だけだ。

 いや、違う。もうとっくに、ほんとは分かってた。私の心は決まっていたんだと思う。羅衣源の申し出を断りながらも、何処かでは受け入れることを考えていた。

 だから、そう。

 私は羅衣源に惹かれたんだ。

(私は、彼が好き)

 仕草も、表情も、匂いも。一つ一つの言葉でさえも。胸がときめくって、そういう意味なんだ。

(今まで、恋というものを、好かれるということを知らなかった私でも、こんなにはっきりと感じ取れるものなんだ)

 私はゆっくりと目を開く。すぐ前に、羅衣源の顔がある。

 綺麗な顔を、そんな不安で歪ませたらダメだと、そう、彼に言ってあげたい。でも、今はもうちょっとこの表情を見ていたい。この表情が、私の言葉を聞くことでどう変わるのかを。

「私は……」

 口を開くと、彼が息を呑む。覚悟した様子で口をキュッと結んだ彼は、表情を硬らせた。そして静かに、ただひたすらに、私の言葉の続きを待っている。

 スッと息を吸って、言葉を紡ぎだそうとした、その時だった。

 突如として、私の周囲を赤紫色の煙が取り囲んだ。

「きゃぁっ!」
「なんだこれはっ!?」

 反射で私達は離れてしまう。それをいいことに、赤紫色は私達の間にするりと割り込んできた。

 何処からともなく現れたその煙は、すぐに膨張して空の光を遮る。たった今まで見えていた建物、道、太陽、そして羅衣源の姿を隠してもなお、増え続ける。

「なっ、何!?」

 明らかな異変に取り乱し、視線を彷徨わせる。濃煙は、あたりの景色をあっという間に包み込み、私の視界を奪った。この煙は一体どこからやってきているのか。見たことのない色に染まり、鼻につくような独特の匂いが漂っている。

 さっきまで見えていた街並みが見えない。一寸先は愚か、伸ばした自分の手さえ目視することはできなかった。もちろん、さっきまで隣にいた羅衣源の姿も確認することすら望めない。

 謎の煙幕の中に、独りぼっち。私はまさしく今、その状況下にいた。不安と恐怖が、胸の奥から激しく湧き上がってくる。

「ど、どうしよう……怖いよ」

 私は自分の体を抱いて、うずくまった。

 その時。

「抄華!」

 煙の中から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
私は弾かれるように立ち上がる。それは間違いなく彼の声だった。

「羅衣源、どこ?」

 私は声が出る限り叫んだ。首を懸命に動かして、あの安心する彼の姿を見つけようとする。が、やはりこの濃煙には何も映らない。  

「抄華、何処だ!」

 しかし、はっきりと羅衣源の呼びかけは耳に届いている。

「羅衣源、私はここ!」

 煙に巻かれないように、かき消されないように力の限り叫ぶ。彼が来るという、希望を信じて。

 でも、待つことはできなかった。煙の匂いずっと嗅いでいると、頭がくらくらとしてきた。それになんだか意識がだんだんと薄れ、視界がぼやけてくる。

(これ、今朝の……っ!)

 そのことに気がついた頃は、時すでに遅し。

 白んでいく世界の中で、私はもう声を出すことを許されなかった。意味のない声帯の代わりに、心が叫びを言葉にする。

(羅衣源……。羅衣源、来て……)

 私は気力を振り絞って再び願う。

「羅衣源、私を助けて……」

 しかし、私の願いが聞き入れられることはなかった。消えそうな意識の中で思う。

(……バカだな、私)

 ようやく彼に寄せる想いが分かったのに。こうなるんだったら、もうちょっとでも早くに素直になれば良かった。意地なんか張らずに、彼に寄り添えばよかった。

 きっと、彼の愛を受け入れなかった罰なんだ、これは。嘆いたって、後悔したって仕方がないんだと思う。

 それでも、悔やみきれなかった。こうなるだなんて、思っても見なかった。

 美しい顔立ちの彼が脳裏に浮かび上がる。優しく、強さも持ち合わせている彼の温もりが、一瞬手に蘇った。だが、それもすぐに消える。満開の花がすぐに散るように。

「羅、衣源……」

 愛しい彼の名をもう一度呼んで、私の意識は闇に被られた。