「……お願いだから、まるで知らない人みたいに『お邪魔します』なんて、言わないで」

 そう、切なそうに囁いて、彼女がその腕を離していった。

 雪弥は、視線を再び合わせてきた彼女が、自分からの『ただいま』という言葉を望んでいる事を知った。昔から、共に暮らすことを願っていた人だ。けれど、やはりどうしてもその言葉が言えずに、結局は数秒の沈黙の後、ぎこちない愛想笑いを返していた。

 そんな二人の後ろで、宵月がその様子をじっと窺っていた。彼は亜希子が視線をそらすのを合図に、「雪弥様」と主人の弟の名を呼んだ。

「旦那様はお仕事が入りまして、早朝から家を出ております。蒼慶様からは、到着したらすぐご自分の書斎室へ案内するように、と仰せつかっております」
「えぇ!」

 雪弥は、父を飛ばしてすぐ蒼慶かよ、と思ってしまい、なんのためにここに来たのかも忘れて叫んだ。到着早々、あの兄と面と会うとか嫌だな……そう考えつつ尋ね返す。