しらすの彼

 私のあとを着いてきただけならともかく、学校の書類で住所まで調べられていたら……

 震える自分の手を握りしめる。
 大丈夫。落ち着かなくちゃ。部屋に入っちゃえば、鍵を掛けちゃえば……

 握りしめた私の手をぽんぽんと相良さんが叩いてくれた。顔をあげると、なだめるように笑ってくれる。その穏やかな笑顔に、少しだけ癒された。

「ん。そうだね。でも、戸締りはしっかりね」
「はい。ありがとうございました」
 私は言われた通り、部屋に入るとすぐに鍵とチェーンをしっかりとかけた。

  ☆

 眠ろうとすると背後から追ってくる小野先生の姿が頭に浮かんで、そのたびに起きる、という事を繰り返した。ほとんど眠れないままに、外がぼんやりと明るくなってくる。
 完全に寝不足。今日が土曜日でよかった。

 どうせ眠れないなら、もう起きちゃおう。
 しぱしぱする目をこすりながら遮光のカーテンを開けようとして、手をとめた。

 まさか……いないよね。まさかね。
 そう思っても不安で、わずかな隙間からそっと外をのぞいてみた。

 空はまだ薄い瑠璃色だった。アパートの前の道は、早朝ということもあって誰もいな……あれ?
 道の向こうにある電柱の横に、背の高い黒い人影をみつける。背格好からして男の人っぽい。
 動悸が激しくなってくる。冷や汗がにじんで、足が震えた。

 怖い……助けて、相良さん。

 家は知っていても、今部屋を出るのは怖い。連絡先も知らないし……

 私は、一度大きく深呼吸をした。
 落ち着こう。まだあれが小野先生と決まったわけじゃない。
 とにかくそこにいるのか別人だということを確認すればいいんだ。位置的に、その人物の顔はよく見えなかった。窓の端に移動して、またカーテンの影からのぞいてみると。

 え?

 そこにいるのは、今まさに心に浮かんだ人だった。

 なんで、相良さんが? 

 不安は消えたけど、次に浮かんだのは疑問だ。そして、思いつく。

 もしかして……あれからずっと、そこにいたの? 昨日の小野先生と私の様子を見て、心配してくれたの?

 相良さんは、壁に背を預けた格好で立ったままぴくりとも動かない。相良さんのアパートから駅まではこの道を通らないし、こっちの反対側には家ばかりで目的地になりそうなものはない。通りすがりにちょっと足を止めた、とは考えにくい。

 私の……ために?

 私は、カーテンを握りしめた。

  ☆

「おはようございます」

 私が声をかけると、弾かれたように相良さんが振り返った。その目が私みたいにしぱしぱしてたのは、きっと高く上がり始めた朝日のせいだけじゃない。
「おはよう、早いね」
 にこりと笑う姿は、いつもとまったく変わりなかった。

「相良さんこそ」
「ああ、今日は早い仕事があってね。ちょうど通りすがったんだけど、浅木さんに会えてラッキーだな」
「嘘」
「……?」
「一晩中、ここで見張っていてくれたんですか」
 少なくとも、私が相良さんを見つけてから一時間、彼はここを動いていない。だから、もしかしたら夕べから、ずっと。

 私が言うと、相良さんは短い沈黙のあと苦笑した。
「ばれるつもりはなかったんだけど」
「ありがとうございます」
 相良さんは、思い切り伸びをした。