過去の緊張を思い出し、グリセンが青い顔をして腹を押さえた。テトが胃腸の弱い上司を見つめて、「その肉食べないなら、もらっていいっすか?」と平気な顔で要求した。
団長の許可を得て肉を掠め取るテトの向かい側で、ユリシスが、ラビに言葉を続けた。
「君は、もう少し態度には気をつけるべきではないのですか? それとも、意外と根は素直なんですかね」
「お前、喧嘩売ってんの?」
どの態度を指摘されているのか分からなかったが、嫌味であるとは理解して、ラビは拳を固めた。すると、グリセンが腹を抱えで「ぐぅ」と呻き、近くにいた男達がすかさず「暴力は良くない」と指摘した。
その時、セドリックがラビを見つめ、目を優しげに細めた。
「ラビは根が素直なんですよね」
「は? なんでお前にそんな事言われなきゃならないんだよ」
『あ~、確かに。お前、ガキの頃から進歩ねぇもんな』
「進歩してるよ!」
ラビは、満腹で寝そべったノエルを振り返ると、強く反論した。
「オレもう十七歳だし、結構身長も伸びたし。最近は一人でもどうにか眠れるし、食器とか家具とか壊す数も減ってるじゃん!」
どうだ、とラビが勝ち誇った顔で宣言した。
セドリックは、見ていられない様子で顔に手をやった。ラビが女性だと知っている面々も、ぎこちない顔で、彼女が十七歳の女にしては小さい事を考え込む。
すると、外野も小さく騒ぎ始めた。
「十七歳ッ? あの落ち着きのなさで!?」
「つか成長期どころの話しじゃねぇだろッ!」
「最近まで一人で眠れなかったとか、マジかよ……ッ」
「人間以外にも被害が出るのか。いろいろと末恐ろしいガキだな!」
ラビが思わず男達を睨みつけると、食堂は途端に静かになった。
彼女が「くそッ、なんだよ皆して」と本気で悔しがると、ノエルが『落ち着けよ』と短い息を吐いた。
『俺は、お前のそんなところも好きだぞ』
静まり返っていた食堂に、食事を喉に詰まらせる男達の咳が巻き起こった。ラビの左右では、セドリックとユリシスが激しく咽返っている。
「嬉しいような、嬉しくないような……うん。でも、ありがとう」
『まぁ、俺の尻尾でも触って、ちょっと落ち着けよ』
「耳がいい」
『マジか。くすぐったいから苦手なんだが』
ラビは椅子から降りると、ノエルの頭をわしゃわしゃと撫で、大きな耳を触って心を落ち着けた。しかし、動いている尻尾が気になってしまい、やはり最後は、彼のふわふわとした大きな尻尾を掴まえた。
安心出来る触り心地に思わず抱きつきたくなるが、お互い怪我人なので、今回は止めておいた。怪我のない彼の尻尾を持ち上げて、ラビは、しばらく自分の腕の中で動こうとする尻尾に頬を当てていた。
『なんだ、やっぱり俺の優雅な尻尾に触りたかったんだろ』
ノエルはニヤリとしたが、ラビの背後から様子を窺う一同の視線に気付くと『人間に見られるってのは、なんだか慣れねぇなぁ』とうんざりした顔で言った。
ラビは尻尾から手を離すと、しゃがみこんだままノエルの頭を両手で引き寄せて、自分の額を押し付けた。
面倒そうに人と話しをする彼が、なんだかいつもより寂しそうな顔をしていない事が、彼女は嬉しかった。それが一時的な事だとしても、いないように扱われるより断然いい。
「怪我が治ったら、またピクニックに行こうよ。朝一番にお弁当を作って、川で虹色の魚を探して、お昼寝して、星を数えながらどこまでも歩いて行くんだ」
ノエルは、僅かに眩しそうに目を細めた。
それから『ああ』と、吐息をこぼした。
『……お前が望むのなら、どこへでも』
ラビがあまりにも嬉しそうに笑うから、ノエルも目を閉じて、小さく微笑み返した。
騒動から数日が経ち、警備棟の内部も片付けられて落ち着きを取り戻した頃、早朝一番に帰りの馬車が一台用意された。
騎士団の紋章が入った立派な馬車の上で、黒大狼が、暖かい日差しを受けて呑気な欠伸をする光景を、見送りに訪れた男達が神妙な面持ちで見つめた。
「来た時もこうだったよ」
『乗り心地に問題はねぇぞ』
ラビとノエルは、言葉も出ない男達にそう告げた。
この数日間で、男達はノエルという特殊な動物が見える利点と、欠点を思い知ったような気がしていた。漆黒の優雅な毛並みを持った大型動物が、馬車の上に寝そべる光景には強烈な違和感がある。
『月の石の効力が消えれば、俺の姿も見えなくなるさ』
無理やり摂取した事で、副作用が続いているのだとノエルは語った。『まぁ、俺ぐらいの妖獣であれば、見せられる方法はあるんだけどな』と考えるような顔で呟いたが、その声は誰にも聞かれないまま、彼の口に中へと消えた。
別れの挨拶はしんみりとせず、ラビとノエルの「じゃあな」の二重奏で、あっさりと締めくくられた。騎士団は、共にホノワ村まで同乗するセドリックとユリシスに後を任せて、小さな獣師とその親友を見送った。
馬車が出発すると、座席に腰掛けていたセドリックが、一つの小袋を取り出した。彼はそれを、「どうぞ」と笑顔で向かい側に座るラビに差し出した。
ラビは怪訝に思いながら、その小袋を受け取った。
中に入っていたのは、クッキーだった。袋を空けると、苺のいい香りが鼻についた。
「気に入っていたようだったので、お土産に一つ買っておきました」
「別に、気を使わなくたっていいのに……」
ラビは強がって唇を尖らせたが、甘い香りの誘惑には勝てず、続く文句もなくクッキーを一枚頬張った。
甘くて美味しい。思わず顔が綻ぶほど、苺風味がなんとも堪らなかった。
セドリックの隣で、ユリシスが笑いを堪えて顔を背けた。どうにか笑い声を押し殺しつつも、口に手を当てて肩を震わせる。彼は上司が口にしていた「素直」という言葉を、ようやく完全に理解した。
ユリシスは冷静さを顔に取り戻した後で、やや口角を引き上げてこう言った。
「戻ったら、多分スコーンも食べられるのでしょうね」
「何でそんな事が分かるのさ?」
ラビが訝しげに尋ねると、セドリックが、微笑んで説明を引き継いだ。
「僕が戻るときは、いつも用意されているでしょう?」
「そっか、なるほど。お前、甘いスコーン好きだもんな」
クッキーを食べつつ呟いたラビは、ふと思い出したように「クッキー分けてあげるから」と、袋の口を差し出した。ユリシスは「一枚だけで結構です」と言い、買った当人であるセドリックも、苦笑して同じような事を口にし、クッキーを一つつまんだ。
馬車は人里を離れ、荒れた大地を走り、途中美しい川の流れにさしかかったが、ラビは風景を眺める余裕がなかった。
窓に寄りかかったセドリックが、クッキーを食べ進めるラビを可笑しそうに見つめていたのだ。あまりにも飽きず見つめて来るものだから、ラビは居心地が悪かった。
「……何だよ。じっと見るの禁止」
「ラビ。母上のスコーンを、僕がどうして好きなのか知っていますか?」
唐突に問われ、ラビは少しだけ考えた。
「美味しいから?」
「生憎、あまり甘い物は食べない派です」
答えながら、セドリックは、疑問符を顔に浮かべるラビに微笑みかけた。
「いつも、あなたがとても美味しそうに食べてくれるからですよ。だから兄さんも、あえて苦手だとは母上に伝えないのでしょう」
「……セドリックが言ってる事、よく分かんないよ。好きなら好き、苦手なら苦手で食べないと思うけど、スコーン食べるの、本当は好きじゃないって話?」
「いいえ、母上のスコーンは美味しく頂いていますよ」
セドリックは苦笑を浮かべると、窓の方へ視線を流した。
「――本当に。好きな物を好きだと正直に言える人だったら、僕も困らなかったんですけどねぇ」
彼の独り言の意味が呑み込めなかったが、ラビは視線が離れてくれた事に安堵して、深く尋ねる事はしなかった。
1
天候に恵まれた事もあって、帰還する今回の馬車旅は、ホノワ村まで五日もかからなかった。
ヴィルトン地方にあるラオルテの町から出発して、四日目の夕刻前、馬車は伯爵の別荘前へ到着した。セドリックが戻ると、伯爵夫人は早速スコーンを用意して三人に振る舞った。
まだ実体化の続いていたノエルについて、ラビは伯爵夫人に咄嗟に、「仕事でしばらく連れている大きな犬」と紹介していた。そのせいか、夫人は「大きなワンちゃんねぇ」と全く警戒なく接し、笑顔でスコーンも与えていた。
長居は出来ないからとセドリックが前置きしたせいか、伯爵夫人は世間話もそこそこに、土産を持たせるからと言って、一度席を外した。
夫人が席を離れてすぐ、ユリシスが、早速ラビに駄目出しをした。
「犬とは何ですか。どう見ても無理があります。もっとましな言い訳があったのでは?」
「狼だって言ったら、夫人がびっくりしちゃうかもしれないじゃん」
ラビとユリシスが睨み合うと、セドリックが「まぁ母上なら、犬と狼の違いも分からないと思います」とにこやかに場を落ち着けて、珈琲を飲んだ。
別荘を出ると、ついでだからと、通り沿いにあるラビの家まで馬車で送る提案をセドリックは出した。手土産のスコーンを受け取った彼女は、まんざらでもなさそうな顔で「仕方ないな」と便乗させてもらった。
馬車は、ホノワ村の伯爵家の別荘を出発すると、十分もしないうちに村はずれの小さな家の前で停まった。
ラビは馬車を降りるなり、我が家の懐かしさに吐息をこぼした。
二週間近く家を空けたのは初めてだったから、何となく安堵感を覚えてしまう。彼女の隣では、ノエルが飛び去る鳥を目で追っていた。
「……なんか、やっと帰って来られたって感じがする」
『そうか? 俺にはよく分からねぇな』
「ノエル、冷たい」
別れの言葉もなく感慨深く家を眺めるラビを、セドリックは馬車の前に立ったまま、声を駆けるタイミングを探していた見つめていたが――
セドリックは、不意に言葉を失ってしまった。ユリシスも、彼の横で一人と一匹の後ろ姿を眺めて目尻に皺を刻んだ。
小さな少女と大きな狼が暮らす家は、物語に出てくるような、ママゴトの一軒家を思わせた。並ぶ後ろ姿が溶け込む風景が、午後の柔らかくなった日差しの中で、淡く霞んでいるようにも見える。
二人の男が見つめる中、ラビが頬を膨らませ、ノエルが首を傾げる。すると、黒大狼が彼女の脇腹に頭をすり寄せて、幸福そうに目を閉じた。
『お前が隣にいる。それだけでいい』
「ふふ、突然どうしたの。オレも、ノエルがいてくれて嬉しいよ」
ラビは彼の頭を撫でると、スコーンが入った袋を後ろ手に持って、改めて自分達の家へと目を向けた。