主人が心に留めている世界は小さく、覚えている光景も少なかった。

 仕事からの帰り道に見る、静かな早朝の景色。出勤時の寂れた街並みを照らし出す、ビルの隙間から覗く狭い星空。誰も待っていない家で眠りに落ち、起床し、短い時間に食べ物を口にして、くたびれた靴を掃いてまた出勤する。

 主人が住んでいたアパートは、夏には暑く、冬には寒かったが、それでも主人は、彼なりに季節毎の楽しみは覚えていようだった。同じ風景、同じ光景の中で、気温の差や食べ物の違いを楽しみ、「もう秋の空かぁ」と呟いたりしていた。

 少ない賃金でやりくりする食事、ベランダによく訪ねて来る隣室の猫。久しぶりの休日には公園まで歩き、何もせずのんびりと過ごした。姪っ子が生まれ、遠くに住む父と母が年金暮らしで落ち着き、弟がようやく会社の経営を安定させ、分かれた恋人は夢を叶えて女優になった。

 彼は、自分の夢を特には持っていなかった。毎日疲れた顔で人生を過ごすような、他人から見れば、ひどくくたびれ男だったかもしれない。

 けれど、彼は大切になった誰かの夢を願い、愛し、そして心配もする男だった。

 俺の『夢』は不思議と良く当たるんだぜ――彼は少ない友人を励まし、助言もした。きっとその夢は叶えられるさ。ちょっとの休みや寄り道は必要だし、お前が立派になる姿を俺は『夢』に見たぐいらなんだから、自信を持てよ……

 望めば形に出来る、具現化の『夢見』としての力を持っていた男だった。
自分で創造した予知夢を、現実に引き起こせる人間は数少ない。だからこうして、少年は彼の夢世界の『夢守』としての役目を与えられた。

 けれど、主人は優し過ぎたのだろう。彼は結局のところ、最期の瞬間まで、自分の為に力を使おうとはせず、自覚もないまま人の生を終えてしまった。不幸を自分で背負う事で、自分が本来得るはずだった幸福を、彼は他人に渡していった――。