あの頃、いってきます、のキスをするたび僕の顔は真っ赤になっていた。無理と言ったのに、彼女は「一回だけやってみましょうよ」と毎度可愛らしくねだるのだ。
 いつだったか。タイミング悪くお隣さんに見られた僕は、電車に乗ってもしばらくは林檎みたいに真っ赤な面だったのを覚えている。

 キスは嫌いじゃない。僕は、彼女がとても愛おしい。

 けれど、ちょっと唇を重ねたり、すぐ隣にいる彼女が小首を傾げて僕を覗き込む時、自分たちが夫婦だと実感できる幸せにも僕は赤面した。そのおかげか、面白くもない顰め面を浮かべて、のぼせあがる感情を隠す方法には随分と長けたのだ。

 会社で彼女の話題を振られても、もう平気だった。僕は普段クールな男だったが、僕の動揺した姿を見たいらしい上司には、彼女の件でうんざりするほど突かれたせいでもある。上手い切り返しで、それを逆手に取ってやったりしていた。

 とはいえ、僕の上司は今、初孫にとても夢中だ。