右手でシャープペンシルを握る。机の下の左手では、絆を握る。ノートを開いて、問題集を開いて、ただひたすら文字を書いていく。英語と日本語を交互に、延々と書いた。最後に、後ろの方のページで答え合わせをする。
悔しさも新しい発見もほとんどなかった。たまに単語のもう一つの意味が抜け落ちていて、なるほどどうりではちゃめちゃな文章だと思ったと苦笑するくらいだった。
そのど忘れを悔しく思えないのだから、まるで余裕がなかったのだと思う。テストで一問、間違えればあれほど悔しかったのに。
学問とは違う分野の専門書にも手を出した。左手では永遠を握ったまま、机の上のページを右手でめくった。
お茶とか、飲んだらお咎めを受けるし味も魅力も知らないのに、まったくの好奇心から葡萄酒とか麦酒とか、それまで大して興味もなかったのにインテリアデザインとか、資格取得のためのテキストのようなものを読んだ。知らない世界がたくさんあった。
人生で触れた楽器は縦笛と鍵盤ハーモニカ、電子オルガンくらいなもので、その腕を褒められたことなど一度もないのに、音楽の専門書なんかも読んでみた。
知らない言葉ばかりでどうしようかと思ったけれど、一つ一つ調べて読み進めるうちに楽しくなった。小さい頃からなにか習っておけばよかったな、なんて思ってみたり。
ところで、縦笛の低いドとはどのように出すのだろう。なかなかいい音が出たことはあるけれど、どれも偶然のようなものだった。
そういった内容に頭が疲れてきたら、学校で習った学問へ戻った。背伸びはしない。足元をかためておかなければ、高校にあがってからきっと苦労する。
予習もしておけば心強いだろうけれど、私には合っていないと思う。やはり、書店でぱらぱらと見知らぬ記号の羅列を覗いてみるくらいがちょいどいい。
一晩経てば忘れてしまう、けれどいざ新しい教室で対面したとき、どこかで見たことがあるような気がする、そんな程度が心地いい。
ふと、廊下に出てみる。よく晴れた窓の向こうに、敬人の好きだといってくれた庭が広がっている。
深く吸い込んでゆっくりと吐き出した息が震えた。ここから出ていけば、私も少しは強くなれるだろうか。ああ、敬人——。会いたい。
絆を握った左手の繋がった腕を自分の体へ回す。なにも持たない右手で自分の目を覆う。右手が少し濡れた。
痛い。名前のわからない場所が、どこかわからない場所が、痛い。鈍く、重く、熱を持っているように痛い。
なにも見えない。本当にこの世界がこんな真っ暗だったらいい。なにも見ないで済む。誰もいない。なにも知らないで済む。
頭がふわふわして、そのまま座り込む。怖くない、怖くない。大丈夫。永遠は、絆は、左手にある。敬人がくれた永遠。敬人がくれた絆。大丈夫、なにも怖くない。私は、満ち足りている。空っぽなんかじゃない。敬人がいる。私には、どこにもいかない敬人がいる。大丈夫。怖くない。
拓実、と呼んでくれる敬人の声が、耳の奥で蘇った。ああ、敬人……。大丈夫だよ、と優しい声が内側で響く。敬人を求める空洞が、彼の声に震える。
敬人、敬人。
拓実、と呼んでくれる声に応えるように、左腕に力を込める。体に巻きついた温度が、満ちていくような気がした。拓実、大丈夫だよ。大丈夫。
怖いものなんて、なにもない。大丈夫。敬人がいてくれる。敬人が、そういってくれる。嘘じゃない。大丈夫。私は、大丈夫。
呼吸がへたになっているのに気がつくのに、とても時間がかかったくらいだ。私は、満ち足りている。
学校に行けば、現実を突きつけられる。あちこちで求められ、あちこちに穏やかな笑みで接する敬人の姿が見える。左手の中の永遠を、絆を、ぎゅっと握る。
全部がなくなったわけじゃない。全部、失ったわけじゃない。敬人を求めている人が私以外にもたくさんいるだけ。
私はみんなより先に敬人の優しさに触れて、それを独り占めにしていたから、そのつけが回ってきているだけ。なにも変なことじゃない。
幸せは、誰にも平等に与えられるべきだ。独り占めなんてしようものなら、あとでその代償を、代価を払わなくてはならない。私は今、それをしている。
あれだけ一緒にいたのだから、私はもう、敬人がいなくても大丈夫。一人でもやっていける。敬人がいなくても、大丈夫。ありがとう——なんてまだ、いえないけれど。そのうちにいえるようになる。
大丈夫、だってあれだけ一緒にいたんだから。みんなよりずっと長い間。敬人が受け入れた女子より早くから、一緒にいた。
大丈夫、いっぱい話をした。いっぱい、ぎゅっとしてもらった。父よりもしてくれた。家族よりも多く、私は敬人と一緒にいた。触れ合った。大丈夫、いっぱいある。いっぱい、溜まってる。
一生分の敬人が、私の中にある。一生分の敬人の声を、優しさを、私はこの六年ほどで受け取った。生きていける。大丈夫、ちゃんとできる。なにも、怖くない。
大丈夫、なのに——。
どうして、泣きそうになっているのだろう。どうしてまだ、名前を呼んでほしいのだろう。まだ、一緒にいたいのだろう。
左手の中の永遠を確かめる。確かにある。永遠を、私は持っているのだ。なにも怖いことなんてない。敬人がくれた永遠。こんなにも価値のあるものはない。
なのに、どうして——。
「くみちん?」と声がして、慌てて何度か瞬きをして顔をあげる。ゆりの、というかわいい名前の女の子がいた。
「茂木さん」
「目、赤くない?」
「ううん、大丈夫」
「泣いた?」
「玉ねぎも切ってないのに?」
「なんかあったんしょ、敬ちんと」
「なにもないよ」と答えると、茂木さんはなにかいいたそうな顔をした。
本当になにもない。あるのは、永遠だけ。永遠の、絆だけ。
もう、敬人の支えなんていらない。毎朝、毎日、毎晩、何度も何度も強く思った。
敬人がいなくても大丈夫。
ふと「こういうのって、恋っていうんだろうね」という敬人の声が蘇った。私の頬を撫でて、甘く、深みのある声で、囁くようにいわれた言葉。
永遠を握った手に色のない熱が落ちて弾けた。なんで、と熱が込みあげてくる。じゃあ、なんで。
なんで置いていくの? なんで一緒にいてくれないの?
敬人がいれば、それでいいのに。それだけでいいのに。
敬人以外にはなにもいらない。敬人が敬人としてそばにいてくれれば、それ以上はもうなにも求めない。周りに誰もいないでなんてわがままもいわない。ただ、一緒にいたい。そばで声が聞きたい。
自分に向けられた言葉の一つ一つを、失くさないで大切にしまって、一日一日を生きていきたい。優しい笑い顔を、ほんの少しずつ違うその笑い顔を、忘れることなくずっと胸の奥にしまって、一緒に過ごしたい。
そんなに、わがままだろうか。そんなに、身に余る幸福を求めているだろうか。怒ったっていい。笑ってくれないことがあったっていい。敬人は人間だから。それは違うと否定してくれていい。喧嘩になったっていい。ごめんねといったとき、簡単に許してくれなくたっていい。何度目かに、そっと笑ってくれたらいい。なにも、特別ではないはずなのに。
どうして、一度は敬人も私を見てくれたのに、どうして、叶わないの。一緒にいたいだけなのに、どうして、そっちに行っちゃうの。どうして、置いていくの。
敬人——。
大嫌い。大嫌い。必死に繰り返した。敬人に告白した女子も、それをすんなり受け入れてしまう敬人も、大嫌い。
あれほど好きだった敬人を簡単に嫌いになる自分はもっと嫌い。もう、なにもいらない。なにも欲しくない。なにも、求めたりしない。
何度誓うように繰り返しても、教室に行ってしまえば目が勝手に敬人を追う。笑っているのを見て悲しくなる。あんなふうに、そばにいてほしいのに。
敬人と目が合うたび、私は私を否定する。敬人なんか見ていない。本当にそうかしら。あんなに好きだったくせに。大嫌い。
何度も永遠を握り潰す。手のひらに爪と輪の跡がつくほど、強く握る。こんなもの、いらない。永遠なんて、絆なんて、ありはしない。どうせ嘘だ。
来る日も来る日も、左手で輪を握って右手でページをめくった。敬人を自分を呪うことに疲れたのだ。怖いなら、見なければいい。私は勉強というところに、意識を逃がした。
中学校生活が終わりに近づく頃には、私はいくつかの検定に合格していた。背伸びはしないと決めていた。それでも英語と数学に限っては、気づけば最上級まであと一つ二つというところまで進んでいた。
達成感などない。なにかに追い立てられるように机に向かい、シャープペンシルの芯を擦り減らし、ノートの白に文字を刻んだ。
それに意味があるものか確かめてみたら、合格の通知がきたのだ。今までの私ならどれだけ喜べただろう。このままもっともっとと、勉強が楽しくて仕方がなかっただろう。どんどん立派な人になっていくような感覚に幸福を見出したことだろう。
中学校卒業の直前に、茂木さん——私をくみちんと呼び、敬人にげきちんなんて呼ばれている美少女好きを自称する女の子——に、「久しぶりじゃん」と声をかけられた。
「高校、どこにしたの?」と訊かれ、「下浜高校」と簡潔に答えた。「おっ、そうなんだ」という表情がなんとなく引っかかったけれど、そこに触れるより先に茂木さんが進む高校に話題が移ってしまった。
ここからは遠いところに住む女の子のかわいさに期待していると熱弁された。きっとこの辺りにいる美少女とは雰囲気が違うと思うの、とか、きっとこの辺の美少女より華があると思うの、とか、相槌を打つにもどうしようかと困り果てる話しぶりだった。
「いやいや、この辺のくみちんとかの美少女が地味だっていってるんじゃなくてね、清楚な感じだと思うんだよ、この辺の美少女って。でもさ、もっとあっちの都会な感じの方の美少女はもう、自分のかわいさを存分に楽しんでるような、そういう美少女がいると思うのよ。え、そう思わない?」と。なにもわかりやしなかった。
トキは勉強の大嫌いな人だった。二年生に進級してすぐの席順、私は窓際の一番後ろから二番目、トキはその右斜め前の席だった。
「やった、女子だ」とトキは振り返ってきた。「去年はクラス違ったよね、名前なんていうの?」と明るく話しかけられ「峰野」とだけ答えた。
拓実まで名乗れば、男の子みたいだねといわれる気がした。両親はよく考えてつけてくれたようだし、わざわざ隠すほど嫌いな名前というわけではないけれど、そのときはなんとなくそうした。しかしすぐに、苗字は席順を示すために黒板に書いてあることに気がついた。
私がそうしたためか、彼女もまたなにか自分の名前に思うところがあるのか、「私は鴇田」と短く返された。
少し話すうちに、トキ、ミネと呼び合うようになった。トキが下浜高校に進んだのは、家から近いことが一番の理由だったという。けれども自分よりもかなり偏差値が高かったので、必死に勉強したのだと彼女は笑って話した。
トキはとてもかわいい女の子だった。茂木さんのことが思い出された。彼女はきっとトキを美少女とするだろうと想像した。この辺の美少女にしては華がある、と。
本当のところ、茂木さんのことを思い出したのはトキがかわいい顔をしていたからではない。教室の中心から少し廊下の方へずれたようなところに、敬人の席があったからだ。
高校の話になったときに引っかかった表情の意味がわかった。彼女は私と敬人の距離が変わったことを知っていた。あのとき、敬人もこの学校へ進むことを知っていたのだろう。
あくまで隠すつもりだったのか、一瞬、打ち明けるか迷ったのかはわからないけれども、それが表情に出たのだ。
好きなことやものがあるというのは、ああいうときにもいいなと苦笑する心地になった。ずいぶん勢いよく美少女について語っていたからなんだろうとは思ったけれど、そういうことだったかと。
一緒にいるうちに、トキがよく敬人を見ているのに気がついた。「トキ、尊藤君のこと好き?」といってみると、彼女は「えっ、なんで」と頬を薄紅に染めた。その愛らしさが憎かった。
そのとき、ブレザーのポケットの中で左手が敬人との永遠の絆を握ったのは、握り潰すためではなかった。取り返すためだった。見ていれば、敬人は一切女子とは接していない。稲臣、紙原という男子と一緒にいた。中学校の頃の女子とは別れたか自然消滅したかだろうと想像した。
「私、あの人嫌い」と、初めて口に出した。トキは大きな目が落ちてしまうのではないかというほどまぶたを開いた。「そうなの?」と尋ねてくる顔はわざとらしいほどかわいらしい。
男性しか対象でない私がここまで愛らしいと感じるのだから、女性が対象となる人にとってはとんでもなくかわいい生き物に見えることだろう。それを否定するつもりはないけれど——敬人は、渡さない。
「どうして? なにかあったの?」
「幼馴染でね。別になにってわけじゃないけど。前はなんとも思ってなかったんだけどね」でも今は、と私は露骨に顔を顰めた。「大嫌い」
「そんなに?」とトキは悲しそうな顔をした。「そんなに」と私は頷いた。
「なんだろうね、とにかく気に入らないの」
「そうなんだ……。性格が悪いとか?」
「そんなこともないんだろうけど。みんな頼りにしてたし、むしろいい方なんじゃない?」
気持ち悪い、と吐き捨てたのは、敬人に対してなんかではない。彼を慕い、頼りにしていた人に対してでもない。私自身に向けてだった。
「そうなんだ」と、トキはもう少し踏み入りたいような様子でいった。私はこれ以上は踏み込むなという気を発した。こんな話はしたくない、と。
それから、トキは適当に時間を空けて敬人について尋ねてきた。
「ミネは尊藤君のどこが嫌いなの?」「全部かな。なにもかも」
「ミネは尊藤君になにかされたの?」「特には。ただ嫌いなの」
「ミネは尊藤君、どれくらい嫌い?」「どうしようもないほど」
その頃だったか、私の耳元で悪魔が囁いた。体が勝手に動いた。
トキの近くで、その悪魔の言葉を真似たのだ。
「尊藤君には近づかない方がいいよ。傷つけられるから」——。
トキはあの、大きな目を落としそうな具合でまぶたを開いた。
「ミネは、尊藤君に傷つけられたの?」
私はなにもいわなかった。いや、いえなかった。敬人が人を傷つけるような人ではないことは、私が一番わかっているつもりだったからだ。
穢れた心に残った、敬人が好きだという良心が痛んだ。途端に目元が熱くなった。何度か瞬きをして、トキから目を逸らした。それが、優しいトキを突き動かしたようだった。
「泣かないでよ」とトキはいった。ほんの数センチ下から見つめてくる目が綺麗だった。「泣いてないよ」となんとか笑い返すと、「許せない」と彼女は呟いた。
体がぎゅっと締めつけられた。甘いシャンプーのような匂いがした。熱い。久しぶりの感覚だった。トキに抱きしめられているのだと気づくのに、しばらくの時間が必要だった。
「泣かないで」というトキの声こそ震えていた。「なんでトキが泣くの」といった声も震えた。
「ごめんね」とトキはいった。「私、ミネのことなにも知らなかった」と。「いいよ、私のことなんて」といったけれど、彼女は「許せない」と声を震わせた。
トキの優しさは、純粋さは、正義感の強さは、私の想像以上だった。
その頃から、トキがらしくないものを持っているようになった。例えば、青いシャープペンシルなんかを。
「トキってそんな感じだっけ?」となにも知らずにいってみると、彼女は「尊藤君の」と口角を持ちあげた。黒い熱が広がった。左手が絆を握る。
「なんでそんなもの」という声が低くなった。低く、醜くなった。
「今流行りのミニマリストってやつなのかな」とトキの声も少し低くなった。「ケースの中、あまりものが入ってなかった」——「だから持ってきた」と。
「なんのために」
「細かい傷がついてるの」とトキは手元の青を見つめた。「結構使ってるんじゃないのかな。気に入ってるのかも」それからにやりと笑って私を見た。「気に入ってるものがどこを探してもないなんて、嫌じゃない?」
その声は表情は、好きな人に近づきたいとか、好きな人の私物を見てみたいとか、そういう欲や好奇心を一切感じさせなかった。私はただ「そうだね」とだけ答えた。
トキは本当に敬人を許さなかった。実際の尊藤敬人に、私の作りあげたどこにもいない尊藤敬人の幻を見て、行動を激化させた。
教室の移動の際、忘れ物をしたといって駆け戻ったのを見送って、ふと手元を見ると私も下敷きを忘れていて、しばらくしてからトキを追う形で教室へ戻った。
廊下に面した窓から、トキが敬人の席でなにかしているのが見えた。屈んでいて、なにやら慌ただしく体勢を直した。
それから教室を飛び出してきた。彼女は私を見て「きゃっ」と声をあげた。「びっくりした、遅れちゃうよ」と早口でいって廊下を走っていく。
その日の昼休み、散々迷ってから「あのさ」と声をかけた。唐揚げを頬張って大きな目で見あげるようにしてくるトキへ「三限のとき、なんかしてた?」と尋ねると、彼女はわかりやすく狼狽えた。「見えたの、廊下から」と打ち明けると、諦めたように息をついた。
しばらくして口の中をすっきりさせてから「悔しいんだよ」と声を震わせた。「ミネを傷つけておいて、あんな普通にしてる。ちょっと痛い目見ないと、おかしいじゃん」と。その目が濡れていた。悲しいほど純粋な怒りだった。
「なにをしたの」
「ミネは悪くない」
ミネには関係ない、とでもいうような勢いだった。
「私が尊藤君を許せないからやるだけ。ミネはなにも悪くない。ミネはなにも気にしなくていい」
「そういうわけには」というかいわないかという頃に「止めないで」とトキは強くいった。「ミネには迷惑かけないから」と小さくいって、彼女は白米を少し口に入れた。