街を叩く雨音を踏みながら家に帰ると、すぐに縁廊下の菊を見にいく。赤い花弁はまだ瑞々しい。しかし、今朝とは少し様子が違った。それに気づくのと同時に、内側で拓実を呼ぶ声が響く。自分の声だ。

 慌ててそばに座り、様子を確認する。少し萎れているように見える。十年も咲き続けたのだからいい加減疲れただろうとも思うけれど、十年も咲いていたからこそ惜しくもある。なによりこの花は、今、拓実を感じられる唯一の存在なのだ。優しく笑ってくれた、明るく話をしてくれた拓実を感じられるのだ。

 土はまだ湿っている。肥料も一昨日あげたばかりだ。

 疲れ始めた菊を見ながら、拓実になにがあったのだろうと思い出される。担任がいうのだから、怪我をして入院しているのは本当だろう。しかし、入院するほどの手首の怪我とはなんだろうか。

手首以外にも負傷したところがあるのか。いや、それならわざわざ手首を怪我したとはいわないだろう。拓実が負傷したのは手首だけか、そうでなくとも手首が最も重傷なのだろう。

 ふと、親戚が手首を骨折して数日入院したことがあるのを思い出した。酔っ払って階段から落ちたのだ。

 では拓実も骨折か。そうだとしても、担任はなぜそれを俺に話したのか。やはり鴇田の証言がそうさせたか。では鴇田はなにがしたい。彼女が俺を好いていないのはわかっている。

しかし、ありもしないことを担任に吹き込んでどうしたいのか。いや、思い当たることはある。ただそもそも、拓実が今日学校を休むことを、鴇田は知っていたのだろうか。

ああそうか、と思いつく。拓実と鴇田は親しいのだから、拓実は鴇田に手首の怪我を話したかもしれない。「ちょっと転んじゃって」なんて笑う拓実の姿が目に浮かぶ。

鴇田はそれで、拓実がしばらく入院することを知り、それを利用した。なるほど、それで拓実の怪我を俺との間に生じた問題が理由であるようにしたか。

 指先で菊の花弁を撫で、胸の中で拓実の名前を呼ぶ。拓実、拓実——。拓実に会いたい。ねえ拓実、鴇田って本当はどんな人? 拓実と仲がいいくらいだから、本当はいい人なのかな。でも、俺は鴇田が怖いよ。拓実、拓実——。

 『怖いなら、見なければいいんだよ』

 拓実の優しい声が聞こえた。ふわっとにおいがするように、思い出された。ずっと前、拓実はそういって、俺の目を後ろから両手で覆った。外は眩しいほど明るいのに、自分の中は優しい暗さに包まれた。暖かな闇の中で、拓実と二人きりになった。

 目を閉じたところで、目を逸らしたところで、どうすればいい。拓実はそばにいない。ほんの一瞬でもいい、優しく笑ってくれなくていい。ただ、拓実との繋がりが恋しくなった。

鴇田という負の力ではなく、偶然、気まぐれ、そういった儚いもので繋がりたい。冷たく突き放すような目でもいい、ほんの一瞬の結びつきを否定してくれてもいい、拓実の目が見たい。拓実の姿が見たい。そうできるようなところに、拓実にいてほしい。