敬人のことを考えていると苦しくなる。胸の奥がざわざわする。会いたくて仕方ないのに、縋ってはいけないという感覚が邪魔をする。

まだ、ちゃんとしなくては嫌われると怖がっているところがある。すでに敬人の心がそばにはないのなら、好きなだけ求めてしまった方が楽なはずなのに、そうしては嫌われると、小さな希望に縋っている。まだ、敬人に嫌われていないと。

 中間テストが済んで、返却されたそれには切りのいい三桁の数字が刻まれていた。五月の頭だったか中頃だったか、中学校で初めての席替えが行われ、くじ引きの結果、私は敬人の隣の席となった。

廊下側の一番後ろの席だった。ほかのクラスが教室を移動するときだったり、休み時間だったり、とにかく騒々しくてあまり好きな場所ではなかったけれど、敬人の隣というのは嬉しかった。

そばにいる時間が増えるのと一緒に気を張っている時間も増えることになるけれど、そのストレスはある種の充実でもあった。敬人がそばにいてくれるという安心感は、敬人がそばにいるからちゃんとしなくてはという緊張感を緩和してくれた。

 敬人の返却されたテストを少し強引に見てみると、彼も満点を取っていた。なんとなく、置いていかれたような心地になった。

同じ点数なのだから、対等になれたと喜んでもいいはずなのに、敬人の方が難なく問題を解いたのではないかとか、敬人の方が早く問題を解き終わったのではないかとか、いろいろな可能性が頭の中を駆け巡った。

 ある休み時間、「敬ちん、昼休みよろしくね」といって教室を出て行った女子がいた。「ちん?」と思わず繰り返すと、「げきちんだよ」と敬人はいった。咄嗟に撃沈という言葉が浮かんでしまった。「負けないで」と思わず笑ってしまった。

 「茂る木でしげきさんだから、げきちん」

 「下の名前につければいいのに」

 「下……」

 「え、なに?」

 敬人は考え込むように顎に手を当てる。「げきちん……名前なんだっけ」

 「え?」

 「知らないや、俺。え、げきちんって下の名前なんていうんだろう」

 「すごい覚えやすい名前かもよ」

 「拓実も知らないじゃん」と敬人は笑った。

 「はな、とか?」咄嗟に思いついた名前をいってみる。茂木華。かわいらしいじゃない。

 「人気者だねえ、あたしも」と声がして、ぎくりとした。「ゆりのだよ。ひらがなで。茂木ゆりの。よろしくね、峰野拓実ちゃん。くみちんがいいね、拓ちんより女の子ってわかりやすい」

 「……知ってるの、私の名前?」

 「同じクラスじゃん」と彼女は明るく笑う。「それに、知ってる? あたしってね、美少女に目がないの」

 「目がないっていうか、見る目がなさそうだね」思わずいってしまった。

 「きっつ」と彼女は苦笑する。「嫌だな、自信持ちなよ。かわいいのに」

 「でしょ」と敬人がいう。「天使みたいなんだよ」と。

 「なんのドッキリかしらね」と呆れたふりをしながら、顔から火が出そうだった。二人はなにをいっているのだろうか。

 「あ、でも敬ちん、安心していいよ」と、茂木さんは思い出したようにいった。

「あたしの美少女好きっていうのは単なる憧れ。全男子のライバルになるような意味じゃないから」とさらりという。それ以前に私は男性しか対象にならない、とは思うだけだった。

 「ちょっと、もぎ、きてー」と呼ばれて、「しげき」と答えながら茂木さんは男子の方へ向かっていった。

 「ゆりのさんだったんだ」と敬人はしみじみ呟いた。「かわいい名前だ」と。

 敬人の手を掴みたくなった。なんとなく、他人の名前をいう彼の声が寂しかった。