「月か……」
ぽろっと呟くと、敬人がこちらを見たのを感じた。
「月に住んでみたら、楽しいだろうね」
「え、月に? 酸素ないんじゃない?」
「それは……」確かにそうだ。「まあ、なんかほら、うまいことやってさ」
敬人は子供の語る夢を聞く大人のように優しく寛大に微笑んだ。自分がとんでもないことをいっていると気づいて、恥ずかしくなった。
この頃の自分はどちらかといえば現実主義であると思っていた。これでは幼い頃から変わっていないというよりも、幼い頃へ戻ってしまったみたいだ。
「拓実はやっぱりかわいい」
「うるさいよ」
「照れてくれるんだ?」と敬人はいたずらに笑う。
「照れてない」
「ぎゅってしたいね」
「うるさいって……」
そりゃあ、されたいよ。ぎゅってしてほしい。けれどこうして安心しているときでは私にそんな行動力はないし、今まであれほど押したのだから、少しは引かなくてはうんざりされる。それだけは嫌だ。
「それで、月に住んでどうするの?」
「うるさい」
「猫みたい」
「ちょっと黙って」
「拓実知ってる?」とまじめな調子でいわれ、敬人の方を見る。
「拓実、今すーごいかわいい顔してる」
胸の奥がぎゅっとなって、体じゅうが熱くなった。思わず目を逸らして前を向き直った。
「知らない、うるさい」
「まったく、俺って我慢強いよね」
「そうかな」
だったらもう少し黙っていてほしい、なんて、いざそうされては怖くなって縋りつくような女が思ってみる。そこでふと、敬人は私のそういうところを理解してこういうことをいうのではないかと思った。
そうだとしたら、もうとっくに嫌がられているのではないか。私が縋るのにうんざりして、それだけは避けようと言葉で満たしてくれるのではないか。
途端に、「拓実」と呼ぶ声にさえ答えられなくなる。今までの行いを悔いたところでどうしようもない。爆発するような感情に耐えられず、足が止まる。
「大丈夫?」という声のあと、優しい手のひらが頬に触れた。「顔色、よくない」と暖かな声。
私は敬人の手に自分の手を重ねた。
「それ以上、したら、……泣く」
「そうしたらぎゅってする」
「……なんで」
「好きだから」
喉の奥がぐるぐると鳴るように震えて、唇を強く噛む。敬人の手を掴み、頬から離させる。
敬人がなにを思っているのか、わからない。どうしてこんなに優しくしてくれるのか。本当に好きでいてくれているのか、もうとっくにうんざりしているのか。なにも、わからない。
「拓実」とゆっくりと染み入るように呼ばれる。優しい目元が顔を覗き込むようにしてきて、必死に目を逸らす。
ああ、嫌だ。泣きそうだ。私は臆病者だ。敬人の優しさが怖い。それがなければもっと近くにきてと渇望し、そばにあればあるで失いたくないと怖くなる。
「なにかあった?」
「なんで」と絞り出した声が震えた。「なんで、そんな……優しくしてくれるの」
敬人は「優しいのかな」と照れたように笑った。それから、怖いほど優しく、凍えるほど暖かい声で「拓実だから」といった。
ああ、だめだ。結局、嘘は嘘でしかない。敬人がいないと怖くて仕方ない。敬人にふさわしい人間だなんて思えない。敬人を失いたくない。敬人に嫌われたくない。
体の後ろに自転車の重みを感じながら、敬人にしがみついた。怖い。嫌いにならないで、ずっとそばにいてほしい。どこにも行かないでほしい。いっそ、月にでも逃げてしまいたい。ほかに誰もいないそこに、敬人を閉じ込めてしまいたい。
敬人の腕の中で、優しい声を聞いた。
「ごめんね」
ぽろっと呟くと、敬人がこちらを見たのを感じた。
「月に住んでみたら、楽しいだろうね」
「え、月に? 酸素ないんじゃない?」
「それは……」確かにそうだ。「まあ、なんかほら、うまいことやってさ」
敬人は子供の語る夢を聞く大人のように優しく寛大に微笑んだ。自分がとんでもないことをいっていると気づいて、恥ずかしくなった。
この頃の自分はどちらかといえば現実主義であると思っていた。これでは幼い頃から変わっていないというよりも、幼い頃へ戻ってしまったみたいだ。
「拓実はやっぱりかわいい」
「うるさいよ」
「照れてくれるんだ?」と敬人はいたずらに笑う。
「照れてない」
「ぎゅってしたいね」
「うるさいって……」
そりゃあ、されたいよ。ぎゅってしてほしい。けれどこうして安心しているときでは私にそんな行動力はないし、今まであれほど押したのだから、少しは引かなくてはうんざりされる。それだけは嫌だ。
「それで、月に住んでどうするの?」
「うるさい」
「猫みたい」
「ちょっと黙って」
「拓実知ってる?」とまじめな調子でいわれ、敬人の方を見る。
「拓実、今すーごいかわいい顔してる」
胸の奥がぎゅっとなって、体じゅうが熱くなった。思わず目を逸らして前を向き直った。
「知らない、うるさい」
「まったく、俺って我慢強いよね」
「そうかな」
だったらもう少し黙っていてほしい、なんて、いざそうされては怖くなって縋りつくような女が思ってみる。そこでふと、敬人は私のそういうところを理解してこういうことをいうのではないかと思った。
そうだとしたら、もうとっくに嫌がられているのではないか。私が縋るのにうんざりして、それだけは避けようと言葉で満たしてくれるのではないか。
途端に、「拓実」と呼ぶ声にさえ答えられなくなる。今までの行いを悔いたところでどうしようもない。爆発するような感情に耐えられず、足が止まる。
「大丈夫?」という声のあと、優しい手のひらが頬に触れた。「顔色、よくない」と暖かな声。
私は敬人の手に自分の手を重ねた。
「それ以上、したら、……泣く」
「そうしたらぎゅってする」
「……なんで」
「好きだから」
喉の奥がぐるぐると鳴るように震えて、唇を強く噛む。敬人の手を掴み、頬から離させる。
敬人がなにを思っているのか、わからない。どうしてこんなに優しくしてくれるのか。本当に好きでいてくれているのか、もうとっくにうんざりしているのか。なにも、わからない。
「拓実」とゆっくりと染み入るように呼ばれる。優しい目元が顔を覗き込むようにしてきて、必死に目を逸らす。
ああ、嫌だ。泣きそうだ。私は臆病者だ。敬人の優しさが怖い。それがなければもっと近くにきてと渇望し、そばにあればあるで失いたくないと怖くなる。
「なにかあった?」
「なんで」と絞り出した声が震えた。「なんで、そんな……優しくしてくれるの」
敬人は「優しいのかな」と照れたように笑った。それから、怖いほど優しく、凍えるほど暖かい声で「拓実だから」といった。
ああ、だめだ。結局、嘘は嘘でしかない。敬人がいないと怖くて仕方ない。敬人にふさわしい人間だなんて思えない。敬人を失いたくない。敬人に嫌われたくない。
体の後ろに自転車の重みを感じながら、敬人にしがみついた。怖い。嫌いにならないで、ずっとそばにいてほしい。どこにも行かないでほしい。いっそ、月にでも逃げてしまいたい。ほかに誰もいないそこに、敬人を閉じ込めてしまいたい。
敬人の腕の中で、優しい声を聞いた。
「ごめんね」