大人になった拓実がたくさんの子供とたわむれていた。とても穏やかな顔をしていて、無邪気に笑ったりしていた。子供はみんな元気いっぱいで、俺や拓実に抱きついたり周りで楽しそうに思い思いに話していたりする。
拓実は抱きついてくる子供をうまく気にかけながら、周りで話している子供の声にも頷いたり笑ったりしている。俺は子供を相手にしながらも、拓実ばかりを見ている。
白くやわらかな光に包まれたその景色が、ふっと見慣れた部屋に書き換えられた。穏やかな心地は覚めてからも続いていた。あの子供たちは誰だったのだろう。
とてもたくさんいた。まるで幼稚園児とその先生のような雰囲気だった。その拓実のかわいいこと美しいこと。天使や女神と形容したくなるほどだった。
布団を出て、縁廊下の菊の花を見る。拓実の魅力をぎゅっと閉じ込めたような艶姿。愛らしく、美しく、どこか影がある。うっとりするほど華やかで、甘いものを感じさせる。
花を受け取った日、これが拓実のようだといったのは憶えている。当時ずっと幼かった拓実に、この花に似た魅力を強く感じた。彼女は当時から、綺麗でかわいかった。凛とした雰囲気が俺に大人びて見せたのかもしれない。
菊へ鼻を寄せ、深く息を吸い込む。独特な香り。一日分の活力が得られるような心地がする。手のひらいっぱいの大きな花は、俺が手を離すとふっと興味なさそうに戻っていく。
そこでゆらゆらと揺れているのがなんとなく気まぐれなような、いたずらっぽいような感じがして好きだ。猫がふっと離れていきながら、少し行ったところで振り返ってくるような。
卒業式の日、式が終わってから食事会のようなものが開かれたけれど、参加するか否かは自由だったので、俺は拓実に誘われるまま彼女の家に行った。
部屋に入ると、拓実はコアラが木にくっつくように飛びついてきた。体勢を崩して倒れそうになるのをなんとか耐えた。彼女は無邪気に笑い声をあげる。
おろそうにも絡みついた脚を解いてくれる気配がなく、そのまま寝かせるようにするも彼女は抱きついたままで、仕方なく抱き合ったまま横向きに寝転んだ。そこで脚が解かれた。
「春休みなんて、明けなければいいのにね」と拓実は静かにいった。「そうだね」と俺も答える。
「学校なんてなければ、ずっとこうしていられる。敬人といられる」
「学校は同じだよ」
「クラスが違うかもしれない。沖小もくるから、クラスも増えるよ」
「うん……それもそうだね」
「ずっと」といって、拓実は胸の辺りに頭を寄せてきた。「敬人と同じクラスがいい」と愛くるしい声がいう。
「小学校の一二年生たちみたいに、一クラスならいいのにね」
「本当。沖小は私たちと同じ学年も一クラスみたいだったね」
「そうだっけ」
「ほら、陸上大会、一緒にやったじゃん? そのときに喋った人がいるんだけどね、一クラスだっていってた。里城小は多いねって」
「そうなんだね」
きゅっとくっついてくる拓実がかわいくて、この感情をどうしようかと少し困る。
「ねえ、敬人」
「うん」
「中学校も一緒に行こうね」
「もちろん。……でも、噂されるかもよ」
「なにを?」
「峰野さんほどの女子が尊藤なんかと付き合ってやがるって」
「逆じゃなくて? 私が女子に嫉妬されるんだよ。なんであんな子が敬人君と一緒にいるのよって」
「それはないよ」と俺は思わず笑った。
拓実が顔をあげ、上目遣いっぽく見つめてくる。「じゃあ」とかわいらしく笑う。
「お似合いかな、私たち」
かあっと体中が熱くなるようで、今度は俺が顔を隠したくなった。
「ならもう、怖いものはないよ。私、みんなに自慢しちゃう。敬人がそばにいてくれるんだよって。私は敬人の優しいところみんなよりいっぱい知ってるんだよって」
拓実がふふっといたずらに笑う。「顔赤くなってる」と。
「うるさい……」
拓実は改めてきゅっとくっついてきた。
「ねえ、敬人」
「うん」
「大好きだよ」
腕の中の愛おしさを、壊さないよう、大切に大切に抱きしめた。
春休みの間、拓実といない時間はほとんどすべて勉強に充てた。拓実が少しでもじょうずに甘えられる相手になれるように、拓実が少しでも、頑張らなくていいと思える瞬間を作れるように。それ以上に、拓実がもう、頑張らなくていいように。
拓実のことを考えていると勉強もそれほど苦でなくなった。これが後々、拓実のためになるかもしれないと思うと、救われるような、いくらでも続けていられるような気持ちになった。
拓実は近頃、とても落ち着いているように思う。頑張らなくていいというのが伝わったのだろうか。いや、拓実のような人が、俺がなにかいった程度で落ち着けるとは思えない。
まさか、と一つ考えが過ぎって、背筋が寒くなる。
俺が彼女に意識を向けられていないのか。近頃、勉強に集中しずぎていたか。俺がなにか変わったといえばそれくらいしかない。
今まで気づけていたところに気づけなくなったのか。拓実が俺のいる間に家で勉強することはなくなったけれど、俺が拓実に見せていないのと同じことかもしれない。
まずい、と思ったときには遅かった。集中力はぷつんと切れていた。
俺はなにをしているのか。なんのためにこれほど必死になってノートを埋めている。自立のため。拓実が頑張らなくていいように、拓実にとって自分の存在が重荷にならないように。
いや待て、と高いところから自分の声がする。
では拓実はどうしてそんなに勉強に執着しているのか。
——わからない。
そこを知らなくてはどうしようもないのではないか。
——その通りだ。
俺は、と気がつくように思う。
俺は、拓実のなにを見ていたのだろう。拓実のなにを気にかけていたのだろう。頑張りすぎるところを気にしていただけで、その原因にはまるで気を配らなかった。
大きな荷物の半分を持ったところで、その中身やそれを持っている理由を知らなくてはどうしようもない。その中身はまるで必要のないものかもしれないし、それを持たせる者がいるのかもしれない。そこを見ないで半分持とうとしたところで……。
ちゃんとしないと生きていけない、といった拓実の涙声が蘇る。あれはどういう意味か。いや、いつか気づいたはずだ。拓実は俺のために頑張っていた。なにを、勉強を。どうして、……どうして——。
俺のために、拓実はどうして勉強をしたのだろう。
ああそういえば、と思い出される。いつか、もうだいぶ前だけれど——テストの点の話をしたことがあった。拓実は上等な点だったけれど、満足していないようだった。俺はそれよりずっと低い点で、拓実は敬人はいいんだよといった。
敬人は私が、と拓実の声が思い出される。
ちゃんとしないと生きていけない。敬人はいいんだよ。敬人は私が——。
勉強と生きることなにで繋がるのか。
人はなんのために学ぶ? 親戚の飲んだくれがいうには、忍耐力を鍛えるため。いや、あれはヒントにはならないだろう。
確かに俺のような人には勉強には忍耐力も必要だけれども、まさかそんなものが一般的に説かれているとは思えない。
もし、もしも、勉強が忍耐力を鍛えるためのものなのだとしたら、その忍耐力はどこでどのように活きるのか。
世の中思い通りにいかないことばかりだとか、社会じゃわがままは通用しないとかいうけれども、それは恐らくほかにわがままを押し通している人がいるからで、必ずしも譲る側に立たなくてはならないということもないだろう。
必死に忍耐力を育てなくては生きていけない、ということはないように思う。もちろん、押し通そうとしてばかりではどうしようもないので、ある程度の譲る気持ちやわがままに振り回されることへの忍耐力も必要だと思うけれども。
拓実は勉強になにを求めているのだろう。成績をよくしたいのか。それはなぜ。ほとんど会ったことはないけれど、あのおかあさんが厳しかったりするのだろうか。完璧を追い求める拓実は、それに応えようと頑張りすぎた。
——いや、違うだろう。親に応えるためなら、俺は関係ない。敬人はいいんだよというのはわかるけれども、敬人は私がというのがわからない。
成績をよくした先に、拓実はなにを求めているんだ。
待て落ち着け、と自分に呼びかける。少しは考えろ。
成績がいいことの利点はなにか。叱られない。褒められることもあるだろう。しかし、拓実がそのために必死になるだろうか。
いや、俺が知らないだけでそういう人なのかもしれない。ああいや、違う。やはりそれに俺は関係ない。拓実が優秀で褒められたとしても、俺の今一つな成績はどうにもならない。
もっと単純に考えてみるか。勉強ができればいい学校に進める。いい学校に進めば……。
——背伸びしていい学校に入れば後々苦労する、などとは考えてはいけないのだろう。
いい学校に進めば、学問のより深いところを学べる。そこで好きなものを見つければ、大学へ進み、教授になることもあるかもしれない。
では拓実は教授になりたいのか。
いや、やはり、敬人は私がといったのがわからない。
敬人は私が——。続きはなんだったのだろう。
拓実の考えるところが、わからない。
敬人がそばにいてくれるという安心感はとても大きかった。敬人が私のいる将来を描いてくれていることが至上の幸福だった。敬人の描く将来に自分がいる。こんなにも幸せなことはない。
これから先も敬人がそばにいてくれる。敬人のそばにいられる。その身に余るほどの幸福を手に入れるのは、少し怖いような気もした。けれど、それ以上にそれを手にする機会を失うことが怖かった。
敬人のそばにいるのにふさわしい人間になる。今のままではきっと、みんなに妬まれる。敬人はそんなことはないといってくれたけれど、そんな敬人だから私のそばにいようと思ってくれているのだ。
その優しさに、お礼をしなくてはならない。敬人に、その判断を後悔させてはならない。ずっと、敬人の隣にいたい。そのためにも、敬人のように立派にならなくてはならない。優しく美しい心を持った、立派な人。
敬人はすっかり、出会った頃とは変わっている。濡れたような目はしないし、明るいところはいろんなものが見えると怯えることもない。
守るつもりでいたのに、追いかけるようになっている。いつかに彼の手放した愛おしい儚さは、優しさとなって彼の内側を巡って満たしている。
勉強は続ける。敬人に置いていかれたくない。少しでも賢くなって、いいところに就いて、働く。私にできるのはきっとそれくらいだ。優しくなりたいと思う。強くなりたいとも思う。
けれど私には、人を想えるほどの余裕がない。敬人に置いていかれないように、見限られないようにするだけで精一杯だ。
優しさってなんだろうと、よく考えるようになった。敬人のようになりたいから。敬人のそばにいるのにふさわしい人になりたいから。
敬人は優しいから、きっと、優しい人が好きなはずだ。私より優しい人なんていくらでもいる。それに触れて気づいてしまえば、きっと、花火のあがった夜空を見あげるように、ふと呼ばれて意識を向けるように、敬人の中から、私はいなくなってしまう。
感じるたびに恐ろしくなる、限りなく確信に近い予感。
優しさについて考えると、思い出すことがある。かわいいうさぎさん。お洒落と冒険の好きな、好奇心旺盛のうさぎさん。
私の憧れだったうさぎさん。絵本の中にしかいない、悲しいうさぎさん。決して触れることはできない。手を握ったり、抱きしめたり、できない。
あのうさぎさんは本当に優しいと思う。困っている人に持っているものを惜しみなく差し出す。大したことではないはずなのに、生きている間に、時間を浪費するうちに忘れてしまう。
いつしか、手元にあるものを失うのが怖くなるのだ。一つでも失いたくない、少しでも周りより優位なところにいたい。反吐が出るようなその本能的な欲求が、忘れてはならないものを忘れさせる。そんなものは初めから持っていないとでもいうように。
もうすっかり読まなくなった絵本たちは、木製の箱の中に入っている。いつか再び、表紙をページを開かれることを期待している。
私は五年以上開いていないその一冊を取り出した。懐かしいうさぎさんが表紙にいる。
うさぎさんは、絵本の中にいる。絵本の中にしかいない。私と同じ世界で息をすることはない。それが現実だ。けれど、ページを開けばいつでも会えるというのも本当だったりする。
なにかが揺らぐのを感じた。
じゃあ、嘘ってなんだろう。本当って、なんなんだろう。なにもかも、本当なのかもしれない。嘘も本当も、全部本当なんじゃないか。本当にあるから、嘘は嘘として在れるのではないか。
気づきたくなかった、なんて後悔してみる。
全部本当なら、つらいじゃない。嬉しいが嘘でもいいからつらい悲しいも嘘というのがいいのに、嬉しいが本当である代わりにつらい悲しいも本当なんて。そんなもの、望んでいない。
敬人、と胸の内側で呼ぶ。つらいも悲しいも本当でも、敬人がいれば……。あまり、怖くないかもしれない。ちょっとだけ、強くなれるかもしれない。
しかし、これでいいのかとも思う。敬人がいなければ生きていけない。敬人がいなければちゃんとできない、頑張れない。
敬人に大丈夫だよといってもらわなくては、大丈夫だと思えない。なにもかも、怖くてたまらない。敬人の声が温度が、その怖さをやわらげてくれる。
ああ、だめだ。敬人に置いていかれたくない。敬人に嫌われたくない。優しくならないと。賢くならないと。
差し出す勇気。それは、どこから湧いてくるものなのだろう。優しさ——いや違う、強さだ。失うことを恐れない強さ。失うことに執着しない強さ、潔さ。なにより、与えられるものを持っている強さ。
私は、敬人になにを差し出せるだろう。彼を誰よりも好きな自信はある。けれど、人やその心というのはそれだけで繋ぎとめておけるようなものではないだろう。
私は敬人に、そしてその周りの人に、なにを差し出せるだろう。彼らは私に、なにを求めてくれるだろう。
敬人と部屋でのんびりして、別れてから勉強して優しさについて考えて、敬人にふさわしい人物像を追い求めるうちに、春休みは明けてしまった。
まったく、学校なんてなければいいと思う。敬人が見てくれているうちに、ほかの人の優しさに触れる機会を奪ってしまいたい。敬人が見てくれているうちに、二人きりになってしまいたい。
敬人と二人の部屋は幸せに満ちていた。鳥籠のような安心感があった。私たちは鳥で、籠の中にいる。外の世界など知らないまま、二人で囀ってのんびりと過ごす。並んで止まって、互いに体を寄せる。
暖かくて優しくて、幸せな時間。私はそれを、独り占めにしたいと思ってしまう。結局私に、人になにかを与えられるように強さも優しさもないのだ。私は貪欲だ。どうしようもなく、敬人が欲しい。失いたくない。
自転車を押して庭を出ると、敬人が同じようにして歩いてきた。「おはよう」と無邪気に笑いかけてくれる彼へ「おはよう」と答える。今日も会えた、と幸せな気持ちになる。
生きているということがどうしようもなく幸せに感じられるようになった。夜に眠るのが怖くなるほどだ。眠って、もしも目が覚めなかったらと思うと怖くなる。
もしも目が覚めなければ、もう敬人に会えない。目が覚めたところで、敬人に会えない世界になっているかもしれない。
「敬人」と名前を呼んで、自転車を自分の体に立てかけるようにして彼に抱きついた。敬人は私と違って、自転車を体の右側で押す人だった。
「大丈夫だよ」といってくれる声に、とろけるような安心が芽吹く。学ランはまだ新しい生地の匂いがしたけれど、その奥に敬人の匂いがあった。ああ……大好き。このまま家に戻って、部屋でのんびりしたい。
「教室も同じだから」と敬人がいってくれる。私はその穏やかな声に頷いた。
「同じクラスでよかった……」
「俺も嬉しいよ。拓実と一緒にいられて」
私は思わず笑ってしまう。「本当?」
「俺ね、拓実のこと大好きなんだよ」
悲しみや衝撃を受け入れきれないというのはよく聞くけれど、人というのは、喜びであっても有り余るものは疑いたくなるらしい。
ゆっくり離れて改めて見てみると、嬉しくなってなんだか笑ってしまった。敬人は優しく微笑んで髪を撫でてくれた。「いい朝だ」と穏やかな声がいう。
放課後、途中まではペダルを漕いだけれど、家が近づいてくると私も敬人も自転車をおりて歩いた。チリチリと車輪の回る音を聞きながら、私は何気なく夕焼けを仰いだ。「あっ」と声が出ると、「どうした?」と敬人の優しい声が反応した。
私は橙に焼けた空で重なる白線を指差した。「ひこうき雲」
私の指の先を見た敬人は「本当だ」と少し笑ったような声でいった。「二本のって初めて見た」
「私も」
「いいことあるかな」
「ひこうき雲ってそういうのあるの?」
「珍しいかなと思って」と敬人は無邪気に笑う。こちらを向いた笑みがとてもかわいらしく見えた。
「いいことか……。私はでも、これ以上はいらないかな」
「そう?」という促すような声に恥ずかしくなる。
「……敬人が、いてくれればいい」
ふっと笑うのが聞こえ「笑うな」と返すも、彼は「ああ、かわいい」なんて笑う。
「拓実って本当かわいい」はあ、と深く息をつき、敬人は「なんかもう、おかしくなる」という。「もうなってるよ」といってみると「もう五年以上もずっとね」と彼はなんでもないようにいってまた笑った。
「馬鹿」
「いっぱいいるよね。嬉しいことだよ」
「え?」
「拓実ほどの人を見て冷静でいられるなんてどうかしてる」と敬人はなんでもないようにいう。
「……なに、どうしたの。今日、やたら褒めてくれるじゃん」
「我慢できなくなってるだけだよ。ずっと思ってる」
「……なに、怖いよ」
「いったでしょ、俺は拓実が大好きなんだって。世界一の女の子だと思ってる」
「うるさいよ。わかったから」
「拓実」と呼ばれて見ると、敬人はゆっくりと足を止めた。つられるようにして足を止めると、そっと頬を撫でられた。
顔を背けてもその指先はついてくる。「な、なに。くすぐったい……」体が熱い。ふわっと吹く風も、春のものでは熱を連れていってくれない。
敬人の薄く開かれた唇から、「ああ」と深みを帯びた声が漏れてきた。「こういうのって、恋っていうんだろうね」
「は……?」
「拓実がかわいくてしょうがない。泣けてくる」
「……かわいく、ない……」
かわいくなんかないよ。独り占めにしたいとか、敬人さえいればいいとか、敬人がいなきゃ生きていけないとか、本音を知ればきっと敬人だって引く。
敬人がいればそれで満足なんじゃない。敬人がそばにいて、周りになにもあってはならない。自分のほかに敬人しかいないような場所じゃないと、満足できない。敬人の心を惹くものがあるんじゃないかと思って落ち着けない。
ふっと、しなやかな指先が唇に触れた。ほかの指は頬に触れたままだった。
「かわいいよ。拓実はかわいい」
思わず首を振る。かわいくない。
敬人の指が形をなぞるように唇の上を滑る。「拓実」と響く優しい声に泣きそうになる。
「拓実。もっと自信持っていいよ。女の子として、人として、拓実は素敵だ」
皺のない真っ黒な生地を掴むと、敬人は片腕でぎゅっと抱きしめてくれた。
部屋に入ると、敬人は「拓実」と私を呼んだ。どこか緊張を纏ったような声に怖くなる。
振り返ると、彼は「これ、……あげる」と親指と人差し指の間に挟んだ小さな袋を差し出した。鮮やかな青色の袋だった。
「これ?」とその目を見返すと、敬人は浅く唇を噛むようにして頷く。
恐々受け取ったその袋は、決して重くはなかった。手のひらほどの大きさの四角形の袋。しっとりしたような、不思議な触り心地の素材だった。中になにか小さいものが入っている。
「……開けていい?」
敬人が頷いたのを確認してから、袋をとめているセロハンテープを剥がし、折り畳まれたところを伸ばす。中に入れた指先が触れたのは、細い紐のようなものだった。
摘んで引き出したのは、その紐にぶらさがりストラップのようになった、幅のある輪っかだった。輪をよく見てみれば、内側に『Make you happy』と刻まれている。外側には透明な石が五つ埋め込まれている。
「誕生日」と敬人はいった。
袋の中には正方形の厚紙のようなものも入っていた。見れば、『4月の誕生石 ダイヤモンド 永遠の絆』と三行の文字が横に並んでいた。
驚いて「ダイヤモンド」と声が飛び出した。「いや」と敬人も慌てたようにいう。「あの、俺のお小遣いでお釣りくるタイプのやつ」と。
「いろいろあるの?」というと、敬人は恥ずかしそうに笑った。
「指輪みたい」
右手で輪を通してみたのは、薬指だった。そういうものではないから、当然長く着けていられるようなものではなかったけれど、内径はちょうどよかった。
永遠の絆。甘く幸せな響き。永遠。絆。敬人との間に欲しい全部だった。
私は左手を唇に近づけ、その石に口づけをした。
「ありがとう、敬人」
どんどん、欲張りになっていく。失いたくないものがまた一つ、増えた。
「誕生日おめでとう、拓実」
『Make you happy』——あっという間に幸せになった。
敬人の胸に寄ると、優しく受け入れてくれる。
「これからもよろしくね」
敬人は喉の奥で笑った。
「こちらこそ」
その十三回目の誕生日から、一日中、それを手に握っている。これこそが敬人との絆であるように思えた。
朝に目が覚めてその輪を見ると、胸の奥がきゅっとする。顔が熱くなる。
敬人に、——敬人に、プレゼントもらっちゃった。
どうにか汚さないようにしておきたいのだけれど、嬉しくて嬉しくてどうしても触ってしまう。
誕生日おめでとう、と敬人の声が蘇る。あまりに幸せで、耳を塞ぎたくなるように頭の奥が痺れる。布団の上でぎゅっとタオルケットを抱く。どきどきして体じゅうがそわそわしてならない。
ああもう、平気でああいうことするんだから——。
誕生日を伝えたのは幼稚園生の頃、ぽろっといったようなものだった。誕生日に買ってもらった絵本について話したのだ。四月十日。まさか憶えていてくれたとは思わなかった。
散々布団の上できゅんきゅんしたあと、はっとした。考えるよりも先に体が勢いよく起きあがった。そこで思考が停止する。なにかしなきゃと思いながらも、なにをすべきかわからない。あわあわとまとまらない感情が駆け巡る。
敬人に、追いつきたい。自信を持って敬人の隣にいたい。
もっと自信を持っていいといってくれた声が蘇る。体の芯はきゅっと素直に喜ぶけれど、頭はいやいやと首を振る。
本当に、こんなでいいのだろうか。敬人は私よりずっとちゃんとしている。私が今のまま縋っていたら、いつか嫌になるのではないか。
敬人は優しいけれど、優しいからこそ、ある日突然いなくなってしまうのではないか。限界まで限界まで我慢して、とうとうそれが爆発する。
——嫌だ。
やはり、ちゃんと隣にいたい。敬人と、対等になりたい。いつか助けられることがあっても、またいつか、そのときには私が助けられるような、ちゃんと、大丈夫だと思って敬人の隣にいたい。
なにかあっても敬人がいる、なにかあっても私もなんとかできる。そういう、大丈夫という確信が欲しい。
どうしたら、強くなれるだろう。強さも優しさも、わからないことは全部、勉強のように教科書や参考書を読んで手に入るものだったならいいのに。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。敬人は強く優しく、かっこよくなったのに、私は敬人に会った頃からなにも変わっていない。わがままで貪欲で、独占欲の塊のようなままだ。
敬人を求めるばかりで、なにも差し出せない。強くなりたいのに、優しくなりたいのに、——敬人と、対等になりたいのに、なにもできない。変われない。変わる術が見つけられない。
このままでは、いつか敬人も私に嫌気がさす。わかっている。そうならないようにちゃんとしたい。なのに動けない。答えが、正解がどこにあるのかわからない。どこに行くべきなのか、どうすべきなのか、なにもわからない。
なにもできないまま、なにもわからないまま、敬人に嫌われたくない、置いていかれたくないと欲望ばかりがふくらむ。