拓実のことが気になって、隣の席の桜井さんと話すようになった。彼女が拓実と親しくしているのを見たことがあった。

 登校すると「おはよ」と声をかけてくれた。ランドセルをおろして「おはよう」と答える。

 ランドセルをロッカーにしまって席に戻ると、俺は「最近」と助けを求めた。

 「拓実が悲しそうで」

 「ん?」と桜井さんは首を傾げる。

 「つらそうなんだよ」

 「ああ……確かにね」

 「桜井さん、なんか気づいたことない?」

 「なんだろうねえ……。私も別に、そういうの敏感なわけじゃないからさ。でも最近、確かにちょっと変かも」

 「すごいつらそうな顔するんだ」

 俺がいうと、桜井さんはくすっと笑った。「尊藤君、拓実のこと大好きだね」

 かあっと顔が熱くなった。隠せるとも思えず、思い切り笑って「大好き」と頷いた。

 「確かに拓実、かわいいもんね」

 「そうなんだよ」と興奮した声が出た。「本当にかわいいんだよ。もうなんだろうね、子犬みたいな、子猫みたいな、懐っこくて寂しがり屋だったりして、本当にかわいい女の子で——」そこまでいって、恥ずかしくなって口を噤んだ。

 「顔じゃないんだね」と桜井さんは笑った。「今のうちに指輪渡しておきなよ」という。「結婚、約束しておかないと、ほかの男の子にとられちゃうよ」と。

 「えっ……」寂しくなって、そんな、といいたくなった。「でも……拓実が幸せなら」

 「馬鹿じゃないの」と桜井さんが笑う。「尊藤君の隣が、拓実にとって一番幸せなところでしょ? わかるんだから、私」

 「敏感なんじゃん」と笑い返すと、「同じだからだよ」と彼女は小さくいった。

 「尊藤君、拓実のことちゃんと幸せにしてくれないと、怒るからね」

 「そのためにも、拓実が悲しそうな理由を知りたいんだけど」

 「なんだろうね。拓実って完璧主義みたいなところあるから」

 「ん?」

 「拓実はね、頑張り屋さんなんだよ。それで疲れてるのかも」

 なにか俺にできることはと考えていると、桜井さんは続けた。

 「完璧主義ですっごい臆病。だから助けてもいえない。尊藤君がちゃんと気づいてあげないと、拓実、どんどんつらくなるよ」

 「助けて……」

 「そう。それがいえないの。甘えたくても甘えられない、手を抜きたくても抜けない。頑張らないと頑張らないとって、ちゃんとちゃんとって自分を追い込んじゃうの。なんとなくだけどね、最近、それが強くなってる気がする。いらいらしてることも増えた気がするし、かなり頑張ってるのかも」

 「そう……」

 「ていうね、私って結構優しいんだよ? ライバルの幸せ願うんだから」

 「ライバル?」

 背中をばしんと叩かれ、情けない声が出た。

 「ちゃんと守ってあげてよね。拓実は元々かわいいんだから、化粧なんかさせちゃだめだよ?」

 「化粧?」

 「無理に笑わせるようなことはするなっていってるの」

 ちょっとはかっこいいこといわせてよと、桜井さんの肘が腕を突いてきた。
 その日、部屋に入ると拓実は一歩先で「敬人」と俺を呼んだ。そして振り返ったかと思うと手首を掴まれ、強く引かれた。

体勢を崩し、まずいと思ったときには拓実に抱き止められていた。慌てて体に力を入れ直す。「ごめん」といいかけて、また「敬人」と呼ばれた。

 拓実が震えている気がして、背中へ腕を回す。抱き返してみると、その痛々しい震えがこちらに伝わってきた。

 頑張らないと頑張らないとって、ちゃんとちゃんとって自分を追い込んじゃうの——。桜井さんの声が蘇り、無性に悲しくなる。

 「拓実」と呼んでみると、彼女の腕に力が込められた。

 「もう、頑張らなくていいよ」

 腕の中で、怯えた声が鳴った。まるで悲鳴のような、痛々しい響きだった。

 「嫌だ、やだ敬人……」嫌だ嫌だと悲痛な声で泣いて、拓実はしがみついてくる。その背中をゆっくり撫でる。

 「いいんだよ。……頑張るのは、いいことだよ。俺にはそんなにできないし、すごいと思う。でも、つらくなるほど頑張るのはちょっと違うんじゃないかな」

 拓実が何度も何度も首を振る。そうじゃない、違くないといっているのか、嫌だといっているのか、俺にはわからない。

 「いいんだよ。そんなに頑張らなくていい。大丈夫だから」

 「やだ、やだ……頑張ら、ないと……ちゃんと、ちゃんとしないと……」

 「しなくていいんだよ。ちゃんとしなくていい。拓実はもう充分ちゃんとしてるし、頑張ってる」

 首を振る彼女に、胸の奥の底から湧きあがった声を、「拓実は立派だよ」と舌で区切った。

 「生きてたい」と拓実がいった。体の芯が凍てつくような衝撃だった。

 「頑張ら、ないと……ちゃんと、しないと……生きていけない……」

 「……そんなことないでしょう? だって俺が、生きてるんだから」

 「敬人は私がっ……」

 どうしようもなく、悲しくなった。恐ろしくもあった。昨日の、拓実のいった言葉の意味が理解できた。俺が触れることでつらくなるというのは、こういうことだったのか。

拓実は俺のために頑張っているのか。俺が頼りないばかりに、彼女を苦しめていた。大丈夫だよ、という言葉に、俺の期待しているような力はなかった。

 ちゃんとしなくてはいけないのは、拓実じゃない。俺の方だ。

 「もう、ちゃんとしなくていい。頑張らなくていい。俺が頑張る、俺がちゃんとする。だから、拓実はもう、一人分でいいんだよ。今まで、俺の分まで頑張ってくれてたんだよね」たまらなくなって、彼女の髪を撫で、体をぎゅっと抱きしめる。「ごめんね。……もう、大丈夫だよ」
 その次の日から、拓実は俺に庭を見ることを許さなくなった。本当に恐ろしい光景がそこに広がっているかのように、俺を抱きとめ、視界を奪う。

「敬人」、「敬人……」とまじないのように俺の名前を呼ぶ。苦しいほど、そこに熱が生まれるほど、腕を強く体へ巻きつけてくる。

 今までの拓実の気持ちが、少しだけわかったような気になった。今の拓実は、今までの拓実の見ていた俺に似ているのではないだろうか。

目を覆うのは拓実のままだけれど、目を覆われるのは俺のままだけれど、俺と拓実は、反対になったように思う。

 「敬人、だめだよ」

 「……拓実」

 「そっちは危ないよ」

 そういわれてしまえば、今までの自分に戻っていくようにも感じる。拓実に危険だといわれてしまえば、怖くなる。本当に危険がそばにあるような気になる。夕刻の夜闇に、危険が潜んでいるような気になる。

見えないどこかから恐ろしい手が掴んでくるような、それにどこかこことはまるで違うところへ引き摺り込まれるような、予感めいた恐怖が湧きあがってくる。この辺りには見てはいけないものがあるような、確信めいた恐怖が体の奥を満たしていく。

 「拓実」

 「うん、ここにいるよ」

 「……拓実、怖いの?」

 全身で感じる拓実のどこかが、ひくりと震えた。

 「……うん、怖い。ここは、すごく怖い」

 「どうして?」

 「危ないものがね、いっぱいあるの。すごく、怖いところへの通り道なの」

 「そうなの?」

 俺は拓実の腕に触れ、少し力が緩んだところを拓実と向き合う形になった。泣いたはずではないのに、濡れたような潤んだような目をしていた。愛おしくて、悲しくて、そっと抱きしめる。

 「部屋、戻ろうか」

 いってみると、拓実の白い手が俺の服をきゅっと掴んだ。
 落ち着かない。怖くてたまらない。敬人が離れていってしまう。世の中のなにもかもが、敬人が離れていってしまう恐ろしい引き金のように思えてならない。それを引いてしまえば、敬人は衝動的に、どこか遠くへ去っていってしまう。

 彼女——サクとの距離が日に日に近づいているように見える。敬人があちらへいってしまったらと思うと眠れなくなる。

 なにもかもが壊れていくような感覚だった。ちゃんとできない、しっかりいられない、敬人が離れていってしまう、サクに敬人をとられてしまう。

絶望的だった。ちゃんとできないから敬人に嫌われる。嫌われてしまうから、敬人はサクの魅力に気づいてしまう。日に日に近づく距離の中で、甘く熱っぽい感情を自覚する。

その頃には彼の中に私はおらず、なんでもないようにサクとの間に冷静で情熱的な恋を実らせる。私とは違う、こんな無様にもがくことも必死になることもない。

もっとじょうずに、ちゃんとした人間同士、ちゃんと恋をする。二人は、私とは違う。どちらも私よりずっとちゃんとしている。惹かれ合うのは必然と思える。

 けれども、私にそれを祝福する余裕はない。そうできるほど、私は成熟していない。敬人が欲しい。敬人がいなくてはならない。私には敬人が必要だ。敬人と一緒に生きたい。

 もっと、ちゃんとしないと。

 もう、頑張らなくていいよ——。敬人の声が蘇る。優しいその声は、きっと諦めからあふれてきたものなのだろう。私がちゃんとしていないから、こいつはもうだめだと、見限られたのだろう。

 嫌だ。どず黒い重たい感情が湧きあがってくる。敬人は私が守る。サクには渡さない。もっとちゃんとして、敬人には綺麗なまま、私のそばにいてもらう。

敬人を、サクからとり戻す。敬人は誰にも穢させない。敬人はなににも穢させない。それがどれだけ大きな存在であろうと抗おう。敬人を守るためなら、どれほど大きな恐怖だって無視しよう。どんな危険にも立ち向かおう。

 ちゃんとするくらい、訳ない。それはもう、立派な人間になってやろうじゃないか。いくらでも学んでやろう。有名な大学に優秀な足跡を刻み込んでやろう。

そこに私の名前を残してやる。誰にも塗り替えられないほど濃く、大きく、この名前を刻んでやろう。

 それが敬人と一緒にいるための資格ならば、必ず手に入れてみせる。それで敬人が私を見てくれるのなら、私のそばにいてくれるのなら、是が非でもやってやる。
 一定の回数読めば解き明かせる暗号でも書いてあるように、私は教科書を読み漁った。参考書も問題集もたくさん買ってもらった。

突然の変化球に翻弄されないようにと中学校の予習もしようと思ったけれど、背伸びはするものではないように思えた。

まずは手に入れた学力を徹底的に試し、磨き込むべきだと思った。予習は書店での立ち読みに留めた。なんとなく見たことがあるという、慢心のない純粋な安心感は冷静さという心強い武器になると思った。

 机がしっかりしていれば、なにが載ってきても壊れることはない。小学校という机を必死に補強した。必死で脆い部分を探した。強度に偏りがあってはいけない。

どこか一点が強ければ、そのほかのところが脆いということになる。すべての箇所が丈夫でないといけない。少しの差もなく、同じように丈夫でないといけない。

 学校では、敬人がいろんな人と接しているのが見えるようになった。みんなが哀れに思えた。敬人とそんなふうに親しくしていられるのも今のうちだと。

敬人は最後には、きっと私のところへ帰ってくるのだ。今どれだけ親しくても、それは永遠には続かない。

 ああ、なんて残酷なのだろう。私は、とても残酷な計画を企てている。尊藤敬人という美しく愛くるしい、どこまでも魅力的な優しい人を、独り占めにしようとしているのだ。

彼に会った人はさぞ幸せになれるだろうに、私は世界中の人からその幸福を享受する機会を奪うのだ。

本来、世界中に散らばっている幸福の可能性を、一箇所に閉じ込め、自分だけのものにするのだ。

 ああ、なんて罪深い。世界から、目に見えない、けれども最も大切な、生きる希望になりうる可能性を奪うのだ。

私と比べてしまえば、金銭を騙し取る詐欺師は大した悪党ではないようにさえ思える。——いや、同じか。

私は世界から生きる希望を、詐欺師は生きる手段を奪う。奪うものこそ違えど、その二つはおよそ同価だろう。

 ああ敬人、早く近づきたい。なんて偉大な存在。私の世界のすべて。敬人が当然に隣にいてくれる日々なんて、どれほど幸せだろう。
 敬人がよく廊下から窓の外を見るようになった。そのたびに私は怖くなる。どうしてそっちを見るの? まさかそっちへ行きたいの? 途端に恐ろしいほどの焦りに襲われる。だめ、そっちへ行ってはだめ。

 私は敬人の後ろに立って、彼の目を覆う。体を抱きしめる。だめ、そっちへ行ってはだめ。だめだよ、敬人。私を見て。

お願いだから、私を見捨てないで。今はまだだめだけど、ちゃんとするから。ちゃんと立派な人になるから、もう少しだけ待って。お願い、お願い——。今の間だけ、だめな私を許して。ちゃんとできない私を、許して。

 「少し、休憩しようと思って」と彼はいった。

 「……おもち、食べる?」すあま。私の小さい頃から、母がおやつにと作ってくれた和菓子。

 「俺、拓実の家の庭、好きなんだ」

 「そんなに綺麗なものじゃないよ」

 「そうかな」

 「ただ、ちょっと広いだけ」なにも特別じゃない。

 「敬人は、もう明るいの怖くないの?」

 「少し暗い方が落ち着くけどね。でも、前ほどじゃなくなったよ」

 「……外、出たいと思う?」

 「こういう、綺麗な庭は散歩してみても気持ちいいかなと思うよ」

 「……そう」

 「ねえ、拓実」

 「なあに」

 「今度、一緒にどこか散歩に行こうよ」

 「……散歩?」

 「二人で。のんびり、なにも考えないで、歩くんだ。沢木公園なんて、春は桜がすごいし、梅雨には紫陽花祭りがある」

 「……私は、家にいたい。敬人と二人きりで」

 誰にも邪魔されない、二人だけの世界。玄関という結界で外界と遮断された、敬人と二人だけの小惑星。

 「桜とか、紫陽花とか、向日葵とか、秋桜とか、椿とか。きっと綺麗だと思うよ」

 「そうかな」

 どれだって、敬人ほどの魅力はないはずだ。

 「俺は、拓実と観てみたい。二人で」

 「二人……」暖かい、幸せな響きだ。

 「大人になったら、遠くにも行ってみたいな。北海道のラベンダーとか観てみたい」

 「……私は」いいながら、いや敬人の声を聞きながら、泣きそうになった。大人になってもそばにいてくれるつもりなのだ。あの頑張らなくていいという言葉が、諦めとは違うものからあふれてきたものなのではないかと期待してしまう。

本当に頑張らなくてもいいのではないかと、甘えてしまいたくなる。このまま、本当にちゃんとしなくても大丈夫なのではないかと、思ってしまう。

 「……沖縄で……沖縄そば、食べたい」

 敬人は優しく笑った。「いいね」と。

 「拓実となら、どこでも行きたいな」というその声が、幸せなほど優しかった。
 初めて、怖いものがなくなった。敬人がそばにいてくれるという事実に、儚いものであるという意識が湧かなくなった。

嘘じゃない、本当に敬人がいてくれる。敬人は離れないでいてくれる。今まで感じたのことのない安らぎは、呼吸を深くして体の深いところを温めた。

 廊下で庭を眺めながら、「もうすぐ卒業だね」と敬人がいった。

 「そうだね」

 「怖い人とかいなければいいけど」

 「沖小でしょ、大丈夫だよ。去年の陸上大会、沖小でやったけど、みんな普通だったもん。私たちの方が怖がられてるくらいじゃない?」

 「先輩の荷物持ちとかやらされたり」と敬人は笑う。

 「そんな奴がいたら、私が」

 私が許さない。後も先も考える必要はない、うんざりするほど相手を愚弄し、否定し、やがて絶望の恐怖を匂わせたあとに、腰の引けたそいつらを足元に果てしなく続くその底へ蹴り落とす。

精々、最期の最期まで自らの行いを悔い、失った意識の中で無意味な後悔に蝕まれるがいい。

咎人のそんな様は、見ていてさぞ気分のいいことだろう。果てしない後悔を抱えているのに、それに支配されているのに、それは贖罪にならなければ自らを癒すこともない。絶望とはそういうものだろう。

 ふと、敬人がやわらかく肩を抱いてきた。優しい温度に身を委ねる。眠たくなるような心地よさだった。ああ、敬人……。

彼に腕を回しながら、いつからだろうと少し考えてみる。いついから、こんなに敬人が好きだったのだろう。まるで溺れているようで、時に苦しくさえある。

感情が、暴力的に内側で広がってふくらんでいく。好きとか大好きとか、あるいは愛しているとか、そんな言葉が薄っぺらに感じてしまうほどだ。何度いってみたって、この感情は伝わらないのではないかと思う。

好きなんてものじゃないほど好きで、大好きなんてものじゃないほど大好きなのだ。彼の手が、自分の手が、触れたところから、いっそ溶け合ってしまえばいいとさえ思う。

自分という意識も実体も、いっそ、いらない。それで近づけるのなら、喜んで手放す。意識や実体を欲するものがあれば、喜んで私のこれを差し出す。

役に立たなければ、気に入らなければ捨ててくれて構わない。私にはそれを手放すことに意味がある。それで、彼に近づけるのだ。

 「敬人」

 なんて素敵な響きだろう。口にするたびうっとりする。体じゅうが幸せなもので満ちていく。敬人、敬人。

 「拓実」

 「うん」

 彼にとって私の名前も、それに似たものであればいいと願う。いや、もうそこまでの幸せなどいらないかもしれない。

敬人がいてくれる、こうして体温を分けてくれる、名前を呼んでくれる。そして、私もまた彼の名前が呼べる。これ以上の幸福なんて、身に余る。

 「拓実も、なにかあったら教えてね」

 「……うん」

 敬人が小さく笑った気がして、「なに?」と訊いてみると、「かわいいなと思って」といわれてどうにかなってしまいそうだった。

「うるさい」といえば彼はまた笑う。「もう一回いっていい?」といわれ、「だめ」と返すと「かーわい」と優しい声が笑った。
 拓実はいっそ恐ろしい女の子だ。かわいくてかわいくて、なにも考えられなくなる。小さな子供のような無防備なかわいらしさがある。近頃また明るく笑ってくれるようになったから、その愛くるしさが増している。

 しかし、ふと冷静になるとどうしようもなく悲しくなる。痛々しい涙声が蘇る。目元を覆う手から、ぎゅっと体に巻きついた腕から流れ込んできた恐怖が蘇る。

彼女にそんな思いをさせたのが自分なのだと思うと、絶望に似た暗闇に放り出される。

 俺が、拓実を頼りにしてしまったから。拓実の優しさを求めてしまったから。彼女はそれに応えてくれようとした。俺が弱いばかりに、彼女は俺を守ってくれようとした。

人を守れる人は優しいけれど、優しい人が人を守れるとは限らない。拓実は、優しい人だ。

 ちゃんとしないと生きていけないといった拓実の声が蘇る。

 いいんだよ、ちゃんとなんてしなくていい。そんなに頑張らなくていい。頑張らなくたって、ちゃんとしていなくたって、きっとそれなりにやっていける。

もしも本当にちゃんとしなければ頑張らなくては生きていけないのなら、俺がちゃんとする。拓実はもう頑張った。頑張りすぎた。壊れてしまうところまで、頑張った。俺のためにだ。もう、なにもしなくていい。つらい思いはもう充分だ。

 ノートに一粒、なにか落ちた。それはそこを濡らして弾けている。俺は文机の隅に置いてあるティッシュを取り出し、軽く押し当てた。鉛筆の字が少し滲んだ。適当に折り畳んだそのティッシュで洟をかんだ。上体を倒して脚を伸ばしてみると、びりびりと痺れていた。

 ティッシュを握りしめて拓実を思う。ごめんね、ごめんねと胸の中に罪悪感が湧いてくる。

 あそこまで苦しめておきながら、まだ一緒にいたいと願うのは酷だろうか。

 ごめんね、拓実。

 大好き——。
 勉強は得意じゃない。得意じゃないから好きでもない。集中力が続くのは一回十分。十分に一度縁廊下へ出る。拓実にもらった菊の花を眺める。拓実は今頃なにをしているだろうと思いを馳せる。

ほんの少し前まで一緒にいても、すぐに会いたくなる。まだ頑張っちゃったりしてるのかなとか、疲れて眠ったりしてるのかなとか、いろんな『もしかして』が頭の中を巡った。のんびりしている拓実を想像してほっこりし、頑張ってしまっている拓実を想像して悲しくなった。

 見つけた時間を埋め尽くす勉強に、面倒だとか疲れたとか思ってみても、この忙しなさに充実感を見出していたのもまた事実だった。

ようやく、目標や目的を見つけた気がした。拓実を縛りつけるものを解きたい。拓実に、無理をしないでほしい。

 単純だ。それでいい。拓実が好きで、拓実に笑っていてほしい。そのためにできることをやる。不器用な拓実が、頼れるような人になる。

賢さも優しさも、そう簡単に手に入るものとは思っていない。それならば相当の努力を注ごう。拓実のためなら、菊を眺めず三十分でも一時間でも机に向かおう。

 文机の前に座り直して、俺はシャツのボタンを一つ外した。袖のボタンも外して、大きく捲る。問題集を開き、苦手分野の文字の羅列にぎくりとするけれど、頭を振って雑念を払う。鉛筆を握り直し、ノートに文字を並べていく。臆するものか。

これでも、苦手分野で七十五点以下は取ったことがないのだ。七割とちょっとは正解を導ける。三割もないような残りくらい、どうってことない。解答に斜線など引かせるものか。全部、俺のものにしてやる。

 ——拓実、拓実。

 どうか、彼女にふさわしい人間になりたい。立派で不器用な頑張り屋さんの拓実に、俺がいるよと、ちゃんといえるような人になりたい。ちゃんと、彼女を安心させられるような人になりたい。

 もうずっと前、拓実が『怖いなら見なければいいんだよ』と目元を覆ってくれたときの安心感を、今度は俺があげたい。

俺がいるから、もう頑張らなくていいんだよと、そういえるだけの力を持って、癒してあげたい。頑張らないと、ちゃんとしないとと凍てつきかたまった心を、温め、ほぐしてあげたい。