その日、部屋に入ると拓実は一歩先で「敬人」と俺を呼んだ。そして振り返ったかと思うと手首を掴まれ、強く引かれた。

体勢を崩し、まずいと思ったときには拓実に抱き止められていた。慌てて体に力を入れ直す。「ごめん」といいかけて、また「敬人」と呼ばれた。

 拓実が震えている気がして、背中へ腕を回す。抱き返してみると、その痛々しい震えがこちらに伝わってきた。

 頑張らないと頑張らないとって、ちゃんとちゃんとって自分を追い込んじゃうの——。桜井さんの声が蘇り、無性に悲しくなる。

 「拓実」と呼んでみると、彼女の腕に力が込められた。

 「もう、頑張らなくていいよ」

 腕の中で、怯えた声が鳴った。まるで悲鳴のような、痛々しい響きだった。

 「嫌だ、やだ敬人……」嫌だ嫌だと悲痛な声で泣いて、拓実はしがみついてくる。その背中をゆっくり撫でる。

 「いいんだよ。……頑張るのは、いいことだよ。俺にはそんなにできないし、すごいと思う。でも、つらくなるほど頑張るのはちょっと違うんじゃないかな」

 拓実が何度も何度も首を振る。そうじゃない、違くないといっているのか、嫌だといっているのか、俺にはわからない。

 「いいんだよ。そんなに頑張らなくていい。大丈夫だから」

 「やだ、やだ……頑張ら、ないと……ちゃんと、ちゃんとしないと……」

 「しなくていいんだよ。ちゃんとしなくていい。拓実はもう充分ちゃんとしてるし、頑張ってる」

 首を振る彼女に、胸の奥の底から湧きあがった声を、「拓実は立派だよ」と舌で区切った。

 「生きてたい」と拓実がいった。体の芯が凍てつくような衝撃だった。

 「頑張ら、ないと……ちゃんと、しないと……生きていけない……」

 「……そんなことないでしょう? だって俺が、生きてるんだから」

 「敬人は私がっ……」

 どうしようもなく、悲しくなった。恐ろしくもあった。昨日の、拓実のいった言葉の意味が理解できた。俺が触れることでつらくなるというのは、こういうことだったのか。

拓実は俺のために頑張っているのか。俺が頼りないばかりに、彼女を苦しめていた。大丈夫だよ、という言葉に、俺の期待しているような力はなかった。

 ちゃんとしなくてはいけないのは、拓実じゃない。俺の方だ。

 「もう、ちゃんとしなくていい。頑張らなくていい。俺が頑張る、俺がちゃんとする。だから、拓実はもう、一人分でいいんだよ。今まで、俺の分まで頑張ってくれてたんだよね」たまらなくなって、彼女の髪を撫で、体をぎゅっと抱きしめる。「ごめんね。……もう、大丈夫だよ」