帰りに、先日のテストが返された。右上に赤で刻まれた九十八の数字に舌打ちした。小学校でこれではこの先どうなってしまうのかと怖くなった。

 「どうだった?」と振り返る友達へ「九十八」と悔しさも隠さず醜く答えた。

 「え、やばっ」と彼女は目を見開く。「うちなんか七十六だよ」とテスト用紙を私の机に置く。確かに七十六と赤で数字が刻まれている。

 「でもね、うち思うんだよ。勉強なんてさ、一つ上等にできればだ万々歳と思うの。だって人間、あっちもこっちもちゃんとできるように作られてないでしょう?」

 「……でも、ちゃんとしないと生きていけないよ」

 「え、そうなの? やだ、なんで?」

 「……世の中はね、嘘が大好きなの」

 「嘘?」

 「あれができます、これができます。これがその証拠ですって、上辺だけの事実が欲しいの」

 「証拠があるなら本当じゃん。資格とかってことでしょ?」

 「でもどんなつもりでそれを取ったかには全然興味を持たない」

 「うーん……。それって、嘘なの?」

 「え?」

 「その人は本当に資格を持ってるわけじゃん。向こうとしては、なんでその資格を取ったかって? そんなのはどうでもいいんだよ、採用してからみっちりとうちの常識叩き込んでやっから、みたいな感じなんじゃないの?」

 「……私はそれも気に入らないよ」

 「まあそうだよねえ。確かに、この資格は使えるだろうって取る人もいるだろうし、好きなこれに関する仕事がしたいってその資格を取る人もいるだろうし。でも、仕事先ではどっちも同じようにされる。うん、確かにちょっと寂しいかも。本当に好きでやってる人より、その資格を利用しようとしてる人の方が仕事ができたりしたら、その人の方がよく思われることもある。うーん……」

ふっと彼女は笑った。「拓実って、いろんなこと考えてるんだね」と。

 「そんなにいろいろ難しく考えるから、全部嘘だーって悲しいこと思っちゃうんだよ。嘘なんてないよ、世の中には」

 「でも、嘘つきはいるよ」

 だって、本の中の人物たちはどこにもいない。もしもどこかにいるのなら、母が嘘をついたことになる。実際に人物たちがどこにもいなくて、その本の中にしかいないのなら、彼らの存在が嘘になる。

 「嘘って、悪いことばっかりじゃないじゃん」と彼女はなんでもないように笑う。

 「だって、お笑いとかどうなるの。コントとかさ、喫茶店とか道端とか公園とかで、あんなふうにおもしろいやりとりしてる人は実際にはいない。あのコントの中にしかいない。まあ結局は、コントって作り話なわけじゃん。拓実の言葉を借りるなら、嘘だよね。芸人さんたちは嘘つきなわけだ。

でも、そのコントを見てる間ってすごい楽しいじゃん。嘘とか本当とかどうでもよくて、ていうかそんなこと考えないで、ゲラゲラ笑うじゃん。そういう嘘なら、あってもいいっていうか、あった方がいいっていうか、なんだろう、うまくいえないけど、悪いことじゃないと思うんだよ。

世の中に本当のことしかなかったら疲れちゃうでしょう? だからたまに、ちょうどいいところで、自分の都合のいいように嘘を混ぜるんだよ。それに巻き込まれる人もいるわけだけどさ。でも気づかないところで、たぶん自分も誰かを巻き込んでるわけで。そしたら、それをだめよっていうのって、誰にもできないと思うの」

 「……結局、嘘とうまくやっていくしかないの?」

 「まあ、そうなんじゃないかな。ていうか、そんなに拘らなくてもいいと思うんだ。だってさ、誰かが自分の心を守ろうとしてついた嘘で、人生が狂わされるようなことって、そうないじゃん」

 「そうかな」

 「だって、なんか失敗して、疲れたな、嫌になってきたなって思ってさ、今日こんなことがあったんだよって本当に思ってることとは違うように、笑い話にしたとして、誰も困らないじゃん。その話を聞いて笑ってもらえて、話した人もつられて笑えたりしたら最高じゃん」

 「……うん、そうだね」

 無性に、悲しくなってきた。この人もきっと、この世界を生きていくには綺麗すぎる。
 通学班から、そのまま敬人を連れて家に帰った。いつもの部屋に入ると、私はランドセルを放った。敬人もランドセルをおろして、私のものの隣にそっと置いた。

 「テスト、返ってきたね」というと、彼は「ああ、そうだね」と困ったように笑った。

 「何点だった?」

 「八十六……とかだったかな」

 「そう」

 「拓実は?」

 「九十八点。最悪だよ」

 「八十六の前でいう?」と敬人は苦笑した。

 「敬人はいいんだって」

 「ええ、なんで俺は?」

 私が守ってあげるから、と口の中で舌を動かした。

 敬人には、怖い思いなんてさせない。敬人のことは誰にも傷つけさせない。絶対に、だ。そんなことをする人でなしは、私がどうにかしてやる。どんな手を使ってでも、絶望の底へ突き落としてやる。

 「まあ、俺はちょっと諦めてるところもあるしね」と彼は笑った。

 「敬人は、ただここにいればいいんだよ」

 「そう? でもそういうわけにもいかないよ」

 「どうして」と声が飛び出した。気がついたときにはそう叫んで、敬人に詰め寄っていた。

 「違うよ、敬人はここにいればいいんだよ。なにもしなくていい」

 「いや……だって俺もとりあえず働かないと」と彼は笑う。

 「じゃあ」といったのはもう、縋るような気持ちだった。敬人が……いなくなっちゃう。「私が働く。それで一緒にいよう、ね? 私がちゃんとするから、私が頑張るから、だから……」

 向かい合った敬人の服を掴むと、勝手に涙が出てきた。胸の奥が痛くて苦しくて、たまらなかった。世の中へ出ていくのが怖い。けれどもそれ以上に、敬人を失うのが怖い。

大丈夫、大丈夫、と必死に自らへいい聞かせる。敬人がいれば、怖いものなどない。敬人をこの恐怖に晒すくらいなら、私がこれと闘おう。

 「拓実、どうしたの? なんで泣くの?」

 必死に敬人へ抱きついた。しがみつく、という方がふさわしいように。少しでも、敬人がそばにいることを感じたかった。確かめたかった。敬人が、まだそばにいる。まだ、こんなことができるようなところにいる。

 「敬人、敬人……」

 「うん」と響いた優しい声が、彼の優しい腕を運んできた。

 「敬人……どこも、いかないで……」

 「いかないよ。中学受験なんてタイプじゃないよ、俺」

 怖くてたまらない。敬人が、この世界に溶けていってしまうのが、どうしようもなく怖い。私のそばを離れてしまう。敬人にとって、私は必要のない存在になってしまう。

 「敬人……」

 お願い。どうか私を捨てないで、敬人。私のそばにいて。なんでもする、なんでも差し出す。だからどうか、その濡れたような綺麗な目を曇らせないで。

そのままで、その綺麗な目で、私を見ていて。敬人のかわいいも綺麗も、その素敵の全部を、偽りに穢さないで。汚させないで。その魅力を、どこにでもあるものにしてしまわないで。
 夢を見た。テストの点がどんどん悪くなる。教科書を読んでも読んでも、内容が理解できない。黒板に書いてある文字さえ、なにをいっているのかわからない。やがては文字が読めなくなり、書けなくなった。

 目が覚めたとき、呼吸が荒くなっていた。すぐに携帯電話で時間を確認した。日付も時間も、確かに読めた。もしも本当にあんなことになったらと想像すると震えそうになる。

 ちゃんとしなきゃ、と体の芯が呟く。ちゃんと、ちゃんと。ちゃんと勉強して、ちゃんと賢くなって、世の中でちゃんと、生きていかなくちゃ。敬人がいなくなっちゃう。敬人が、離れていっちゃう。ちゃんとしないと、敬人に嫌われちゃう。

 嫌だ、嫌だ。敬人に会いたい。大丈夫だよと、どこにも行かないと、いってほしい。でも、とも思う。いくら敬人だって、こうも何度も弱いところを見せれば嫌になるだろう。

嫌になったら、どこかへ行ってしまう。私を置いて、遠い遠い世界の中心の方へ溶けて消えてしまう。嫌だ。それだけは嫌だ。置いて行かないで。私のそばにいて。

 ちゃんと、しないと。どうにか、敬人がそばにいてくれるように、敬人のそばにいさせてもらえるように。敬人がどこにも行ってしまわないように、敬人にそばで笑ってくれるように。

将来、敬人のいる家に帰れるように。今のうちから、ちゃんとしておかないと。もっと怖いところへ出ていかなくちゃいけないから。今のうちに、強く、立派になっておかないと。

敬人に甘えるのは、敬人にぎゅっとしてもらうのは、もう少し先にしよう。立派な学生を頑張ったご褒美にしよう。それくらいなら、きっと、敬人は許してくれるだろう。

頑張ったねと、笑顔も見せてくれるかもしれない。敬人に、いってらっしゃいとおかえりをいってもらうのにふさわしい、ちゃんとした人にならないと。

頑張って学生をやりきれば、敬人がおはようからおやすみまでいてくれる。家を出ていく怖さを癒してくれる。

 敬人、私、頑張るよ。だからあとで、頑張ったねって、ぎゅっとしてほしい。
 この頃から、拓実の様子が変わった。笑っていても、どこか悲しそうな顔をしていることが多くなった。会うたびに抱きついてくるようになった。

かわいくて守ってあげたくて胸がきゅっとなったけれど、それ以上に心配だった。拓実が、以前と比べて弱くなった。弱いのが悪いとはいわない。そうは思わないからだ。

けれども、これが拓実の本当の姿なのであっても、なんらかの刺激を受けたために弱くなってしまったのでも、いいこととは思えなかった。どうして今まで気を張っていたのか、拓実の身になにがあったのか。

 拓実の家の庭が好きだった。拓実は決まって、眼前に広がるその景色を遮った。俺が昔に、明るいところが怖いといったからなのだろうけれど、それとは少し違う気配を感じていた。目を覆われると、怖くなるようになった。どうしようもなく不安になる。

月の見えない夜はこの頃も好きだった。なにも見えない、なにも聞こえない、その心地よさは安らかな眠りへ意識を落とし込む。

少し前までは、拓実に目を覆われることで、真昼にその心地よさを感じることができた。けれども、今はちょっと違う。ではどうして、と考えたとき、「敬人」と揺れた声に呼ばれてはっとした。拓実が不安なのだと気がついた。

 「拓実」と答えると、彼女は片手で俺の目を覆ったまま、片腕でぎゅっと抱きしめてくる。どうしようもないような怖さが全身に溶け込んでくる。これは決して返してはいけないと、その恐怖の流れ出ないように意識を集中させた。

 「拓実」と名前を呼ぶのに時間がかかった。声を出してしまえば、体の芯を震わせるようなこの恐怖があふれてしまいそうだった。かといって、彼女を放っておくわけにもいかなかった。

 どうしたの、なにかあったの、大丈夫だよ。いいたいことはいくらでもあるのに、唇を開く勇気が、声を出す勇気がない。

 「敬人」と揺れる声は、世界の終わってしまうのを思い出させるかのような儚さがあった。

 体に巻きついた拓実の腕に両手で触れる。大丈夫、大丈夫、と何度も体の中でいう。大きな地震や雷鳴に怯える子供をあやすのはこんな気持ちなのだろうかと思う。

自分も怖いけれど、決してそれを伝えてはならないという緊張感、怯える小さな体の悲しさ、なにもできない自分への無力感。「大丈夫だよ」という言葉への、世界を救う力があるような期待。

 「大丈夫」となんとか声を出して、拓実の腕をとんとんと叩く。ぎゅっと締めつけられたのが、体の外側か内側か、わからなかった。
 拓実は部屋に入ると、ランドセルをおろしてすぐに宿題に取りかかる。俺の中に引っかかりを残しながら、前々からそうであったように。

 家で一人寂しく取り組むのもなんなので、俺も拓実の隣で宿題を広げた。俺が休み休み、時折鉛筆を弄んだりしながら進めるのに対して、拓実は決して手を止めなかった。

まるで考えたり悩んだりすることもないように、常に鉛筆を走らせていた。暗記した内容をそこへ吐き出しているのだといわれても、ああそうだったんだと頷けてしまいそうなほど迷いがない。

 それでいて、俺の鉛筆が筆箱へ帰ってからも、拓実の鉛筆は走っていた。明らかに拓実の書いているものの方が多いのだ。正確には、拓実の解いている問題の方が多い。

 ちらと窺ってみて、体の芯が震えた。拓実の目が、揺れていた。自分の手先が並べていく文字を追っているのとは違く、その虹彩が右へ左へ揺れていた。

 名前を呼んでも反応がない。変わらず、震えるように目を揺らしながら手を動かしている。

 俺は、拓実の華奢な体へ腕を回した。びくりと震えたその温度を引き寄せる。座卓に鉛筆が転がる音がした。

 腕の中で「やめて」とか細い声がこぼれた。「触ら……ないで」と。

 「ごめん、無理」

 「……放して」

 「拓実、どうしたの」

 「お願い」

 「拓実。教えて。なんでそんな悲しい顔するの」

 「放して」

 「教えて」といった声に「敬人」と怒ったような声が重なった。

 「拓実が教えてくれて、俺が納得できたら放す」

 自分勝手な条件だとは思った。けれども、こうでもしなければ拓実が壊れてしまう気がしてならなかった。

 「悲しい顔なんかしてない」

 「俺の勘違い?」

 「そうだよ」

 「そう思えない」

 「そうなの」

 「拓実、つらいでしょ? 俺もつらい。俺のわかんないところで拓実がつらくなってるのわかるから。……拓実。教えて」

 「……敬人にこうされる方が、つらい」

 刃物が食い込んでくるように、重く、熱く、痛かった。そこから、彼女は「放して」とその刃物を一気に引き抜いた。腕から力が抜けた。拓実は再びノートに向かった。

鉛筆がノートの上を走る音が、黒板を鋭い爪で引っ掻く音に聞こえた。悪意のように不安を煽り、呪いのように重くまとわりつき、人ではない恐ろしい存在のように、冷たく背筋を撫でる。
 拓実のことが気になって、隣の席の桜井さんと話すようになった。彼女が拓実と親しくしているのを見たことがあった。

 登校すると「おはよ」と声をかけてくれた。ランドセルをおろして「おはよう」と答える。

 ランドセルをロッカーにしまって席に戻ると、俺は「最近」と助けを求めた。

 「拓実が悲しそうで」

 「ん?」と桜井さんは首を傾げる。

 「つらそうなんだよ」

 「ああ……確かにね」

 「桜井さん、なんか気づいたことない?」

 「なんだろうねえ……。私も別に、そういうの敏感なわけじゃないからさ。でも最近、確かにちょっと変かも」

 「すごいつらそうな顔するんだ」

 俺がいうと、桜井さんはくすっと笑った。「尊藤君、拓実のこと大好きだね」

 かあっと顔が熱くなった。隠せるとも思えず、思い切り笑って「大好き」と頷いた。

 「確かに拓実、かわいいもんね」

 「そうなんだよ」と興奮した声が出た。「本当にかわいいんだよ。もうなんだろうね、子犬みたいな、子猫みたいな、懐っこくて寂しがり屋だったりして、本当にかわいい女の子で——」そこまでいって、恥ずかしくなって口を噤んだ。

 「顔じゃないんだね」と桜井さんは笑った。「今のうちに指輪渡しておきなよ」という。「結婚、約束しておかないと、ほかの男の子にとられちゃうよ」と。

 「えっ……」寂しくなって、そんな、といいたくなった。「でも……拓実が幸せなら」

 「馬鹿じゃないの」と桜井さんが笑う。「尊藤君の隣が、拓実にとって一番幸せなところでしょ? わかるんだから、私」

 「敏感なんじゃん」と笑い返すと、「同じだからだよ」と彼女は小さくいった。

 「尊藤君、拓実のことちゃんと幸せにしてくれないと、怒るからね」

 「そのためにも、拓実が悲しそうな理由を知りたいんだけど」

 「なんだろうね。拓実って完璧主義みたいなところあるから」

 「ん?」

 「拓実はね、頑張り屋さんなんだよ。それで疲れてるのかも」

 なにか俺にできることはと考えていると、桜井さんは続けた。

 「完璧主義ですっごい臆病。だから助けてもいえない。尊藤君がちゃんと気づいてあげないと、拓実、どんどんつらくなるよ」

 「助けて……」

 「そう。それがいえないの。甘えたくても甘えられない、手を抜きたくても抜けない。頑張らないと頑張らないとって、ちゃんとちゃんとって自分を追い込んじゃうの。なんとなくだけどね、最近、それが強くなってる気がする。いらいらしてることも増えた気がするし、かなり頑張ってるのかも」

 「そう……」

 「ていうね、私って結構優しいんだよ? ライバルの幸せ願うんだから」

 「ライバル?」

 背中をばしんと叩かれ、情けない声が出た。

 「ちゃんと守ってあげてよね。拓実は元々かわいいんだから、化粧なんかさせちゃだめだよ?」

 「化粧?」

 「無理に笑わせるようなことはするなっていってるの」

 ちょっとはかっこいいこといわせてよと、桜井さんの肘が腕を突いてきた。
 その日、部屋に入ると拓実は一歩先で「敬人」と俺を呼んだ。そして振り返ったかと思うと手首を掴まれ、強く引かれた。

体勢を崩し、まずいと思ったときには拓実に抱き止められていた。慌てて体に力を入れ直す。「ごめん」といいかけて、また「敬人」と呼ばれた。

 拓実が震えている気がして、背中へ腕を回す。抱き返してみると、その痛々しい震えがこちらに伝わってきた。

 頑張らないと頑張らないとって、ちゃんとちゃんとって自分を追い込んじゃうの——。桜井さんの声が蘇り、無性に悲しくなる。

 「拓実」と呼んでみると、彼女の腕に力が込められた。

 「もう、頑張らなくていいよ」

 腕の中で、怯えた声が鳴った。まるで悲鳴のような、痛々しい響きだった。

 「嫌だ、やだ敬人……」嫌だ嫌だと悲痛な声で泣いて、拓実はしがみついてくる。その背中をゆっくり撫でる。

 「いいんだよ。……頑張るのは、いいことだよ。俺にはそんなにできないし、すごいと思う。でも、つらくなるほど頑張るのはちょっと違うんじゃないかな」

 拓実が何度も何度も首を振る。そうじゃない、違くないといっているのか、嫌だといっているのか、俺にはわからない。

 「いいんだよ。そんなに頑張らなくていい。大丈夫だから」

 「やだ、やだ……頑張ら、ないと……ちゃんと、ちゃんとしないと……」

 「しなくていいんだよ。ちゃんとしなくていい。拓実はもう充分ちゃんとしてるし、頑張ってる」

 首を振る彼女に、胸の奥の底から湧きあがった声を、「拓実は立派だよ」と舌で区切った。

 「生きてたい」と拓実がいった。体の芯が凍てつくような衝撃だった。

 「頑張ら、ないと……ちゃんと、しないと……生きていけない……」

 「……そんなことないでしょう? だって俺が、生きてるんだから」

 「敬人は私がっ……」

 どうしようもなく、悲しくなった。恐ろしくもあった。昨日の、拓実のいった言葉の意味が理解できた。俺が触れることでつらくなるというのは、こういうことだったのか。

拓実は俺のために頑張っているのか。俺が頼りないばかりに、彼女を苦しめていた。大丈夫だよ、という言葉に、俺の期待しているような力はなかった。

 ちゃんとしなくてはいけないのは、拓実じゃない。俺の方だ。

 「もう、ちゃんとしなくていい。頑張らなくていい。俺が頑張る、俺がちゃんとする。だから、拓実はもう、一人分でいいんだよ。今まで、俺の分まで頑張ってくれてたんだよね」たまらなくなって、彼女の髪を撫で、体をぎゅっと抱きしめる。「ごめんね。……もう、大丈夫だよ」
 その次の日から、拓実は俺に庭を見ることを許さなくなった。本当に恐ろしい光景がそこに広がっているかのように、俺を抱きとめ、視界を奪う。

「敬人」、「敬人……」とまじないのように俺の名前を呼ぶ。苦しいほど、そこに熱が生まれるほど、腕を強く体へ巻きつけてくる。

 今までの拓実の気持ちが、少しだけわかったような気になった。今の拓実は、今までの拓実の見ていた俺に似ているのではないだろうか。

目を覆うのは拓実のままだけれど、目を覆われるのは俺のままだけれど、俺と拓実は、反対になったように思う。

 「敬人、だめだよ」

 「……拓実」

 「そっちは危ないよ」

 そういわれてしまえば、今までの自分に戻っていくようにも感じる。拓実に危険だといわれてしまえば、怖くなる。本当に危険がそばにあるような気になる。夕刻の夜闇に、危険が潜んでいるような気になる。

見えないどこかから恐ろしい手が掴んでくるような、それにどこかこことはまるで違うところへ引き摺り込まれるような、予感めいた恐怖が湧きあがってくる。この辺りには見てはいけないものがあるような、確信めいた恐怖が体の奥を満たしていく。

 「拓実」

 「うん、ここにいるよ」

 「……拓実、怖いの?」

 全身で感じる拓実のどこかが、ひくりと震えた。

 「……うん、怖い。ここは、すごく怖い」

 「どうして?」

 「危ないものがね、いっぱいあるの。すごく、怖いところへの通り道なの」

 「そうなの?」

 俺は拓実の腕に触れ、少し力が緩んだところを拓実と向き合う形になった。泣いたはずではないのに、濡れたような潤んだような目をしていた。愛おしくて、悲しくて、そっと抱きしめる。

 「部屋、戻ろうか」

 いってみると、拓実の白い手が俺の服をきゅっと掴んだ。
 落ち着かない。怖くてたまらない。敬人が離れていってしまう。世の中のなにもかもが、敬人が離れていってしまう恐ろしい引き金のように思えてならない。それを引いてしまえば、敬人は衝動的に、どこか遠くへ去っていってしまう。

 彼女——サクとの距離が日に日に近づいているように見える。敬人があちらへいってしまったらと思うと眠れなくなる。

 なにもかもが壊れていくような感覚だった。ちゃんとできない、しっかりいられない、敬人が離れていってしまう、サクに敬人をとられてしまう。

絶望的だった。ちゃんとできないから敬人に嫌われる。嫌われてしまうから、敬人はサクの魅力に気づいてしまう。日に日に近づく距離の中で、甘く熱っぽい感情を自覚する。

その頃には彼の中に私はおらず、なんでもないようにサクとの間に冷静で情熱的な恋を実らせる。私とは違う、こんな無様にもがくことも必死になることもない。

もっとじょうずに、ちゃんとした人間同士、ちゃんと恋をする。二人は、私とは違う。どちらも私よりずっとちゃんとしている。惹かれ合うのは必然と思える。

 けれども、私にそれを祝福する余裕はない。そうできるほど、私は成熟していない。敬人が欲しい。敬人がいなくてはならない。私には敬人が必要だ。敬人と一緒に生きたい。

 もっと、ちゃんとしないと。

 もう、頑張らなくていいよ——。敬人の声が蘇る。優しいその声は、きっと諦めからあふれてきたものなのだろう。私がちゃんとしていないから、こいつはもうだめだと、見限られたのだろう。

 嫌だ。どず黒い重たい感情が湧きあがってくる。敬人は私が守る。サクには渡さない。もっとちゃんとして、敬人には綺麗なまま、私のそばにいてもらう。

敬人を、サクからとり戻す。敬人は誰にも穢させない。敬人はなににも穢させない。それがどれだけ大きな存在であろうと抗おう。敬人を守るためなら、どれほど大きな恐怖だって無視しよう。どんな危険にも立ち向かおう。

 ちゃんとするくらい、訳ない。それはもう、立派な人間になってやろうじゃないか。いくらでも学んでやろう。有名な大学に優秀な足跡を刻み込んでやろう。

そこに私の名前を残してやる。誰にも塗り替えられないほど濃く、大きく、この名前を刻んでやろう。

 それが敬人と一緒にいるための資格ならば、必ず手に入れてみせる。それで敬人が私を見てくれるのなら、私のそばにいてくれるのなら、是が非でもやってやる。