幼稚園の年少の頃だった。「うさぎさんはどこにいるの?」と母に尋ねた。「幼稚園にいなかった?」というので、絵本のうさぎさんだといった。母はふわりと優しく微笑むと、「御本の中にいるわ」といった。

「違うよ」と私はいった。「御本に書かれたうさぎさんはどこにいるの?」と。

 その問いをしたことが、私の人生の最大の後悔だ。

 「あのうさぎさんは、あの御本の中にしかいないの」

 母の、悪意のかけらもない短くまっすぐな言葉が、私を深い闇の奥へ突き落とした。嘘だよ、あのうさぎさんはどこかにいるはず。

ではあの御本を書いたのは誰? うさぎさんでしょう? だって御本は、遠く遠くからここまで届く特別なお手紙なんだから。

 私は自分の書棚から絵本を片端から引き出し、抱え切れる限りの絵本を母の前に並べた。じゃあ、このかえるさんは? このくまさんは? このあひるのおかあさんは? この女の子は? この女の子は幼稚園に通う女の子でしょう? 私と同じ年少さんだよ。妖精さんとの不思議な出会いをお手紙にしてくれたんだよ。

 母はなにもいわなかった。それが怖くて悲しくてならなかった。気がついたら泣いていた。どうしてなにもいってくれないの? 年少さんならお手紙だって書けるでしょう? 

みんなが御本の中にしかいないなら、御本ってなに? 書いた人のいないお手紙ってなに? そんなものがあるはずないじゃない。

 母にそっと抱きしめられた。なにも、わからなくなった。ただ、どうしようもないほどの恐怖が、体の内にも外にもあった。嘘だ、嘘だ、嘘だ。ママは嘘をついている。嘘つきだ。母の胸で声をあげて泣きながら、必死に自分にいい聞かせた。